ideomics

オブジェクト思考ブロギング

ゲームの規則

子供とババ抜きをした。記憶にないくらいひさしぶりすぎだけど、ゲームって、関係構築・維持の効用結構大きいんだな、と実感。直接的な関わり合いが得意でなくても、ゲームという媒介・媒体を通して、関係構築・維持ができる。ゲームは、(社交認知能力)貧者の兵法でもある。


女は雑談でつながりを作り、男はゲームでつながりを作る、と言ったらさすがに言い過ぎか。雑談も実際にはかなりのゲームなんだろうけど、ルールは暗黙的。ゲームと呼ばれるには、ルールが明示的でないと、さすがに拡大解釈すぎで意味が発散してしまう。文脈設定も含むメタレベルの階層を含んだものはゲームといってもいいのか?という疑問が浮かぶ。


ゲームの規則:規則=約束=契約=法・・・「ゲーム=法 (lex) は人間と人間をつなぐものであり、相互の同意によって生まれるのである。」(アレント『政治の約束』より一部改変)・・・ゲームの規則=法によって、つながりを作ることができる。

ギリシャ人が「法律nomos」によって理解していたものとは大きく異なり、まったく逆のものですあったのだが、ローマの「法lex」の実際の意味は「持続するつながり」であり、・法lexは人間と人間をつなぐものであり、それは絶対的命令でも暴力行為でもなく、相互の同意によって生まれるのである。」(ハンナ・アレント『政治の約束』)


ゲームの規則:規則=ルール=支配=統治・・・従属 (subject) することで主体化 (subject) する。その世界の規則で主体化することができる。ゲームの規則にsubject(従属=主体化)することで、元いる世界からの自由・解放を得ていく。別な世界への従属を重ねることで、その個体は自由を得ていく。依存(dependence)の反対は独立(in-dependence)でなく、複数への依存(multi-dependence)という卓見に従うと、従属の反対は、非従属ではなく、複数への従属ということになる。原家庭過程から、より広い世界に。権力の反対語は、別な権力。


order - disorder(秩序・正常―非秩序・異常)の二分論から、re-order = re-cover(再秩序・再被覆)を考える。できればbio-psycho-social全ての次元で*1。権力と反権力から、別権力へ。言い換えれば、守・破・離。ゲームの規則=統治によって、自分や周囲の統治を行う過程で、より広汎な統治性を身につけることで、ゲームの規則を変えることができる。自己や周囲との統治性=governmentality*2を通して。


subject(従属)によるsubject(主体)というsubject(主題)。

*1:いわゆる薬がもたらすのは、"disorder→order"なのか。。。むしろalt-order (re-order = re-cover) では。

*2:「日本国政府」といった統治機構(リヴァイアサン)の単位で考える統治機構への思考性/志向性=government-mentalityと対比的に

人文・・・人と文

人文・・・人と文。
文=通貨=currency=current(流れ)を作るもの、つながりを作るもの、と捉えると、人=ノード、文=エッジというネットワーク構造。人中心な思考とはノード中心な思考で、文中心な思考とはエッジ中心な思考。間=文として、人文=人間=ノード+エッジ。letters(文字)はletter(手紙)として機能する。望むと望まないと関わらず文字は手紙になってしまう。少なくとも、自分への手紙にはなってしまう。


「人間的、あまりに人間的な」=「人文的、あまりに人文的な」
human + D = humand = hum AND = Homo AND
ANDとしての文:DiscouseのD, DialogueのD
human & humor: Homo AND & Homo OR - ideomics


philo-sophia・・・知と友愛・敬愛。知による友愛・敬愛関係とすると、固有名詞=個有(個人)名詞での関係になる。固有名詞の系譜関係=系譜学=genealogy=家系学。固有名詞と系譜が伴う。そこでは、〇〇学を学んでいる、というより、誰それから学んでいる(学びあっている)、という表現になる。〇〇学などというものはない。誰それがいるだけだ。

「すなわちそこでは、sophia=思想家=妻は最高度の他者として価値が付与されているが、しかし夫は、彼女を自己との統一単位を形作る者としても認識しなければならない。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆を一部改変)

「妻であるひとりの思想家との関係が、当方の生き方にとって本質的である場合、そして、人間存在とは夫婦としての個人であり、・・・夫婦であることの術は、自己の陶冶の一部である。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆を一部改変)


固有名詞を持った文を介して、ある人物とつながることで喜び(快楽)を覚える。そこから、文=つながりをより欲する(欲望)。この繰り返し(反応)によって、愛着を覚える。passive-active-responsiveな関係によって(Active-Responsive-Passive framework:欲望と愛着と快楽 - ideomics)。文=つながりが、愛着のレッスンになる。文という知によって、関係が構成され、その関係から、主体が構成されていく。知=文=関係により、主体=人が構成されていく。


critique et clinique:『批評と臨床』ジル・ドゥルーズ - ideomics

ドゥルーズの『批評と臨床 critique et clinique
フーコーの哲学と医学(最後期の二書『快楽の活用』『自己への配慮』)
つまり、文と人、文献と人間

・文と人:知(の主体化)
・人と人:権力関係、対人関係
もちろん、常に混合している。文は人と人とを結びつけるものであり、同時に愛着や反発と同時に権力関係を生み出す。そして、crisis(危機)は、critique(批評)をもたらすものであり、またclinique(臨床)をもたらすものでもある。

『外科医の息子たち:ローレンツ・ボウルビィ・フーコー』:アタッチメントとデタッチメント

I 愛着行動 (母子関係の理論 (1) 新版)

I 愛着行動 (母子関係の理論 (1) 新版)

愛着理論の構成で、ボウルビィがエソロジーや進化論の話からボトムアップに構築的に理論構成しているのはなかなか圧巻。エリクソンが現象観察のまとめという感じだったのに対して、理論的な構成で、より説明的。飛ばし読みだけど、こういう仕事をしたいなと思わせるロールモデル。この理論の生物学・行動学・工学技術的な展開もしたいと思いつつ、これに並ぶ骨太な理論構築もしたいと思わせる。


幼少期の愛着レベルが、その後の対人関係に重要で、愛着レベルが社交資本のベースになってるとすると、愛着はまさに資本の中の資本。愛着関係の資本性。愛着関係が資産として蓄積されることで、社交関係を築く資本として機能する。定量的にはどう評価されるんだろうと気になる。貨幣、知識、社交関係は、それが元手になって、同種のものを生み出すという意味で、資本性がある。もちろん資本として機能しなくて資産として死蔵されてることも多々だけど。貨幣のcapitalist、知識のphilosopher、社交関係は何だろう。説明的にはsocial capitalistだけど。愛着関係の資本主義。*1


アタッチメント(愛着)が人生に重要だというのは肯定するとして、発達過程を先に進めていくと、アタッチメント(attachment)に対するデタッチメント(detachment)*2の肯定的な意義が気になる。思春期の独立としてのデタッチメント(detachment)。対比的に言えば、幼少期のアタッチメント、思春期のデタッチメント。自我の確立としての自立・・・生まれの共同体からの分離でもあり、自我と自己の分離でもある。自分の中に異物を感じること。アタッチメント=結合とデタッチメント=分離。結合と分離を繰り返す運動性能としての再結合性 (re-ligation = re-lig-iosity)・・・再結合的 (re-ligious)、あまりに再結合的な。


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監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

フーコー『監獄の誕生―監視と処罰』の仏語原題は、"Surveiller et punir"で、Surveillerは、英語だとmonitor, superviseという意味らしい(グーグル翻訳による)。「監視」の内面化と規範化をポジティブに捉え直すと、主体化・主体形成に向けて必要なプロセスとして想定できるだろう。self-monitoring, supervisionと言えば、心理療法の世界の言葉だ。supervisionって独特の文化だけど、指導者 (superviser) の「監視 (monitor) 」の内面化により自らを主体化するプロセスであり、かつそれが屋根瓦式に伝達される(職業教育だけでなくクライアント教育の形でも)。そして、この心理療法の世界で形式されているプロセスは、家庭で親から子に暗黙的になされていることもである・・・「監視と処罰」による従属subject=主体subjectの実践。言い換えると、「見守りと規律」。


他人からの視線(ソーシャル)の内面化としての規律=他律(パノプティコン)にて自我が形成されていき、時間とともに形成されていく自己と向き合うことで自律=主体化=個体化(自己の統治)がなされていくという発達モデルを考える。「見られている」・・・他人の目の過剰な内面化。誰もいないところでも視線を感じる。ともすると、他律の過剰が非適応的な水準までいくことがあるにしても。

一方に、他人との関係から派生してくる「自己との関係」があり、他方に、同じように知の規則としての道徳律から派生してくる「自己の成立」がある。この派生物やこの離脱は、自己との関係が独立性を獲得することだ、と解さなくてはならない。(ドゥルーズフーコー』)

”他人との関係から派生してくる「自己との関係」”は、愛着理論ぽい話。愛着→内省→愛着の循環。ボウルビィ=愛着形成のエソロジーというところで、フーコー=主体形成をエソロジーとしてどう捉えるか、という課題。エソロジー(ethology)として、ethosの問題として。そして、ミクロな権力論(暴力とは区別された権威による力としての権力)と愛着の関係。

「自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心・・・はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や試作をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ」(フーコー『快楽の活用』序文)

自分を自由化 (libertize?) すること - ideomics

passive(受動的:そのまま信じる)からresponsive(反応的:吟味や懐疑)からactive(能動的:思考)へ。受動的な知覚から反応を経て、そして能動的な思考へ。プロテンスタンティズム(抵抗主義)=反抗主義=反抗期=独立期を経ることで、自らを自由化=個体化=主体化すること。同期(同級生)との同期(シンクロナイズ)を経て、同期の世界から分岐していく。


快楽の活用 (性の歴史)

快楽の活用 (性の歴史)

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攻撃―悪の自然誌

攻撃―悪の自然誌

アタッチメント(同期)とデタッチメント(分岐)・・・特にデタッチメントを主体化(個体化)として、発達×ソーシャルに考えるモデル。人の歴史を時間空間的に分析的に見る。そのベースとして、人体構造(バイオ=解剖学的=外科学的)と行動(エソロジー)を考える、あるいは測定対象とする。

bio:物質的なメカニズム
psycho:発達の時間軸(ある時点においては、過去が折りたたまれたものとしての記憶*3
social:空間的な社交関係*4

bio-psycho-socialに、物質×時間×空間で考えてみる。まとめてホリスティックにやれば物語だし、分析度を高めると科学に寄る。中間は、脳画像の読影(coronal-sagittal-horizontal)のように、立体を断面で理解する方法。断面による読影臨床医学的な手法と言えるかもしれない。個人を物質的階層の深層に*5、時間軸として長く発達的に、空間的に拡張して社交関係として、延長された表現型 (extended phenotype) としての個人 (individual) を捉える。その断面を解剖し、変容を試みる。外科医=解剖学+手術の方法。

*1:話はそれるが、愛着の提供と貨幣の関係。性愛については男性を中心にお金がチャージされまくっている。性愛とは別様なタイプの愛着の提供は、ある条件ではお金がチャージされることが一般的になるか。「愛はお金で買えない」と考える人たちによって世界のかなりの部分が支えられているとしても、この言説自体は、その人たち自身と切り離した上で、妥当だろうか。どうだろう。さすがに博愛とは区別するのが妥当だと思うけど。

*2:ボウルビィの用語では脱愛着として否定的な意味で使われているようだが、思春期の独立の意味で用いたい。

*3:”<記憶>こそは、自己との関係、あるいは自己の自己による情動の、ほんとうの名前である。カントによれば、時間は、そのもとで精神が自己に影響するような形態であった。ちょうど、空間が、そのもとで精神が他のものに影響されるような形態であったように。”(ドゥルーズフーコー』)

*4:=pneumatic=霊的=光・音・熱・圧

*5:RDoC

自分を自由化 (libertize?) すること

エピクロス派の哲学者たちの場合には、『メノイケウスあての書簡』が、哲学というものは自分自身への気配りの絶え間なき営みと見なされるべしとの原則へ道を切り開くものであった。」(フーコー『自己への配慮』自己の陶冶)

「哲学者の学校とは診療所(iatreion)である。卒業時の感想は、楽しかった、ではなく、苦労した、でなければならない。」(フーコー『自己への配慮』自己の陶冶)


物質・物理の世界では世界は決定的に理解できるかというのは重要な問いであるとしても、人間社会は大きく階層が違う。自由意思は人間界の認知レベルではありうるとして良いだろう。ただし、所与として「与えられている」ものではない。


(所与としての)自由意思はあるか?という問いではなく、どう自らの意思を自由化 (libertize?) できるか?と問う。自由化=個体化=主体化として、いかに「自由人」になることができるのか?と問う。自由人としての個人individual。個人としての自由、自己の自由化*1。自らを自由化することによって個人となる・・・個人とは、自分の最大の評価者・監視者・経営者が自分であること。メタ認知が構成され、自己に対して再帰的な関係を結ぶ。

「リベラル・アーツという表現の原義は「人を自由にする学問」」

リベラル・アーツ - Wikipedia


懐疑。『自分のアタマで考えよう』・・・といきなり行うのではなく、まず疑ってみる。吟味してみる。passive(受動的:そのまま信じる)からresponsive(反応的:吟味や懐疑)からactive(能動的:思考)へ。受動的な知覚から反応を経て、そして能動的な思考へ。平たく言えば守破離。その繰り返し。「個体発生は系統発生を繰り返す」ばりの単なる重ね合わせだけど、プロテンスタンティズム(抗議・反抗主義)は、一種の反抗期=独立期=個体化にも見えてくる。教会=家族からの個体化により、自らを自由化=主体化すること。

「なぜなら、それにもかかわらず、われわれは、十分に確実でなく吟味されていないものに信を置くことをさし控えることができるという、この自由をわれわれのうちに経験したからである。」(デカルト『哲学原理』39.意思の自由は自明である)


懐疑と吟味による意思の自由。しかし、それは「自明」ではない・・・自製=自省というべきか。「意思の自由は自製=自省である」。懐疑は思考の母。受動(知覚)→反応(懐疑・吟味)→能動(思考)と促す母なる懐疑。passive -> responsive -> active。

「偉大な進歩はおのれの無知を認めることから生まれ、思索の自由なくしては手に入らないことを知らなければなりません。その上で、この自由の価値を鼓吹し、懐疑や迷いは危惧するどころかむしろ歓迎され、大いに論じられるべきであることを教え、その自由を義務として次の世代にも求めてゆく、これこそ科学者たる私たちの責任であると私は考えます。」(リチャード・ファインマン

*1:「奴隷・女の宗教」としてのキリスト教をどう考えるのかは難しい。自己の自由の一方で、他人の自由・他者の自由という課題がある。ドラッカー曰く「キリスト教においてこそ社会の自由と政治の自由の区別が生まれた」らしいんだけど、この意味が未だにわかりにくい。

Active-Responsive-Passive framework:欲望と愛着と快楽

Anticipatory pleasure (AP, wanting) とConsummatory pleasure (CP, liking)*1
価値分析には、Anticipatory pleasure (AP) とConsummatory pleasure (CP)の区別が重要。自分の持っている価値観、相手の持っている価値観、それを包む環境(社会)で主流の価値観の分析。APとCPがごっちゃになると、しばしば不幸をもたらす。例えば、

・本来CPであるものをAPとして追求してしまう不幸(勘違い1):青い鳥
・自分にとってはCPにならないものをAPとして追及してしまう不幸(勘違い2):隣の芝生
・APが過剰でCPが抑制される空虚感:過成功
・CPだけで安住してしまう緩慢な死:過満足


Anticipatory pleasure (AP) が強いと、時間感覚が未来に伸びる直線的なものになり、Consummatory pleasure (CP) が強いと、常に満たされ無時間的・円環的な時間感覚になるという時間感覚の差の説明になったりしないかと思ったり。


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Anticipatory Pleasure (AP, wanting) とConsummatory Pleasure (CP, liking) という分け方を拡張して、

欲(欲望): wanting, Anticipatory Pleasure (AP): active(能動的)
好(快楽): liking, Consummatory Pleasure (CP): passive(受動的)
愛(愛着): loving, Responsive Pleasure (RP): responsive(反応的)

というフレームワークで考える。欲 (wanting, Anticipatory Pleasure) と好 (liking, Consummatory Pleasure) を媒介するものとしての愛(loving, Responsive Pleasure (RP))。欲望と快楽を媒介するものとしての愛着。もちろん、これは博愛(アガペー)としての愛ではなく、もっと日常にありふれたものとしての愛。Love actually is all around.なものとして。


例えば、物に対して:物欲(AP)・物好(CP)・物愛(RP)
物欲(wanting, Anticipatory Pleasure)というよく聞く言葉に対して、物好(liking, Consummatory Pleasure)を考える。物に接することによる快楽のこと。そして、物愛(loving, Responsive Pleasure)・・・物に対する愛着って結構ありふれている。快楽を得ることにより、愛着が湧き、欲求が起こる。また、欲求により得ることで快楽が得られる。例えば、土屋鞄の財布と筆箱買ったら、妙に良い感じで、愛着が湧く。愛着湧くようなプロダクト作っているところは、制作過程でも愛着豊かそうな想像をする。


例えば、性について:性欲(AP)・性好(CP)・性愛(RP)
性欲(wanting, Anticipatory Pleasure)は、物欲以上に悩ましい。性の快楽を味わうことで性好(liking, Consummatory Pleasure)が生まれうる。性欲>>性好になると空廻る、あるいは攻撃的になりすぎる。性好>>性欲だと受動的すぎ、あるいは従属的すぎることも。快楽によって愛着が生まれ、欲望が生まれるという循環としての性愛。


欲望によりヒトは能動的(active)になる。快楽だけで欲望がなければ受動的(passive)。能動=受動としての反応を考える。反応は能動でもあり、受動でもあるが、同時に、そのどちらでもない。能動的でもあり、受動的でもあると同時に、そのどちらでもないものとしての反応的(responsive)。人間関係でも、能動的か、反応的か、受動的か、という個性がある。個人で一定ではなく、個人間の関係ごとに変わるものだが、個人である程度一定するところもあるようだ。

active - responsive - passive
Anticipatory Pleasure - Responsive Pleasure - Consummatory Pleasure


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psychiatry/psychiatristのアプローチ:bio-psycho-socialを、そのエートスを重ね合わせると、
bio: 能動的に変容させようとするactive
psycho: 反応的に変化をもたらすresponsive
social: 受動的に受容するpassive
といったように。これは学問的な対象ではなく、関わる主体(ヒト)の関わり方(エートス)の話。単なる重ね合わせでしかないけれど、知を客体として捉えるのではなく、知の主体(の主観・感情傾向)から捉えるアプローチ。関係論としての、bio-psycho-social=active-responsive-passive


あるいは、
自己と他者:自己愛について - ideomics
にならって、

思考・行動する<私>(自我・自意識):能動的 (active)
対話的な<わたし>(自省):反応的 (responsive)
経験・受容する<ワタシ>(自己・存在):受動的 (passive)


active voice(能動態)
passive voice(受動態)

"In a Different Voice"
reflexive voice(中動態・反射態)

erosophia (eros-sophia)

「問題構成のこの点(いかにして快楽の客体を、自分の快楽を支配する主体となすか)こそを、哲学的なエロス論、いやともかく、恋にかんするソクラテス的でプラトン的な省察はその出発点とするだろう。」(フーコー『快楽の活用』真の恋)

「『饗宴』と『パイドロス』が示しているのは、<<口説き>>の実践と相手の自由とを範例にするエロス論から、主体の何らかの鍛錬と、真理への、歩調を合わせた接近とを中心にすえるエロス論への移行である。まさにそれゆえに、問いかけが移動しているのが見出されるのである。」(フーコー『快楽の活用』真の恋)


philo(philia)-sophia(友愛-知)・・・知との友愛と解釈すると、知との節度を持った関係と言えるし、友愛に関する知、友愛をもたらす知、知を通した友愛とも言えるか。『ラケス』で、会話・対話のことを「我がものをあなたのものとし、あなたのものを我がものとする」みたいな表現がある。知との友愛・・・友人とは客観的に理解できる存在でもあり、主観的に思い入れる存在でもある。


ero(eros)-sophia(性愛-知)・・・知との性愛と解釈すると、知との融合的関係(主体化)と言えるし、性愛に関する知、性愛をもたらす知、知を通した性愛とも言えるか。オブジェクト(客体)指向/志向な思考=知としての科学に対するサブジェクト(主体)指向/志向な思考=知としてのerosohia (eros-sophia)。知の主体化(subject=主体=従属)。philo-sophiaからの分岐としてscience(オブジェクト思考)とerosophia(サブジェクト思考)を捉える。最近は良いなと思った一節は写経するようにしてるけど、明らかに理解の水準が黙読と違う。主体化=従属という染み込み度合いが違う。eros的なerosophia。書くと読むの間には翻訳や写経がある。能動(書く)・受動(読む)の中間にある反応的な行動。能動・受動・反応における反応=eros。

「すなわちそこでは、sophia=女性=妻は最高度の他者として価値が付与されているが、しかし夫は、彼女を自己との統一単位を形作る者としても認識しなければならない。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆、一部改変)

sophia(知)を妻=配偶者として、つまり、他者でありかつ統一体として、性愛的関係を結ぶ。


敬愛は、友愛(philia)と性愛(eros)の間にある感じ。性愛と違って、複数人に持っていても問題は起こりにくい、という利点がある。性愛の場合はアタッチメント強いけど、デタッチメントが難しい・・・知との関係は、主体 (subject) 化=アタッチメントと客体 (object) 化=デタッチメントの繰り返しがおそらく望ましい。主体化=erosphia(実存との一体化)と、客体化=scienceの繰り返し。erosophia - philosophia - science


philo-sophia・・・知と友愛・敬愛。知による友愛・敬愛関係とすると、固有名詞=個有(個人)名詞での関係になる。固有名詞の系譜関係=系譜学=genealogy=家系学。客体化された知としてのサイエンスと対比的に、固有名詞と系譜が伴う。そこでは、〇〇学を学んでいる、というより、誰それから学んでいる(学びあっている)、という表現になる。

「個有」名詞 - ideomics
人と人間 - human being and human inter-being - ideomics

〇〇学などというものはない。誰それがいるだけだ。敬愛をエロス(erosophia)寄りに解釈すれば。例えば、ドゥルーズの自由間接話法って、他者でありつつ融合しているエロスな感じ。philosophiaというよりerosophia、またはその間にあるもの。エロス・・・異性愛に限定せず無性愛な性愛。*1

「すなわちそこでは、sophia=思想家=妻は最高度の他者として価値が付与されているが、しかし夫は、彼女を自己との統一単位を形作る者としても認識しなければならない。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆を一部改変)

「妻であるひとりの思想家との関係が、当方の生き方にとって本質的である場合、そして、人間存在とは夫婦としての個人であり、・・・夫婦であることの術は、自己の陶冶の一部である。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆を一部改変)

・・・まさにマリアージュ。けど、本物の結婚から見ると半分にも満たない。相手のどうしようもなさがないから。結婚の半端なシミュレーション。

「土着性、友愛、ドクサというのが、三つの根本的特徴であり、哲学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。哲学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(ドゥルーズ『批評と臨床』プラトンギリシャ人たち)

「身体性、性愛(家族)、愚かさというのが、三つの根本的特徴であり、教育がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。教育は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(プラトンアカデメイアンたち)


一方で、サイエンスという客体(オブジェクト)思考。自然が超越的なものとすれば、それへの志向性/思考性は、agapeという概念が使えるだろうか。例えば、

erosophia:性愛:主体化・結婚
philosophia:友愛・敬愛:系譜・家系
サイエンス=agape-sophia=agaposophia?:超越的なもの=絶対の他者へ*2

といった感じで。どうだろうか。

*1:ガタリとの共著は未読だけど、近いのかも。

*2:「政府性、博愛、誤りというのが、三つの根本的特徴であり、科学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。科学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」

自己との責任 responsibility = responsivility

自己と他者:自己愛について - ideomics
の補足

「epimeleia heautou(自己への配慮を意味するギリシャ語)、cura sui(自己への配慮を意味するラテン語)は、多くの哲学教義のなかにくり返し見出される一つの命令である。」(フーコー『自己への配慮』自己の陶冶)

哲学(philo-sophia)=知への志向/思考=思考過程=自問自答
として、
自問自答=I ask, Me respond. Me ask, I respond...
と捉えてみる。
response - response' - response'' - .....
としての自己反応の連続=自問自答=思考=哲学(philo-sophia)。

エピクロス派の哲学者たちの場合には、『メノイケウスあての書簡』が、哲学というものは自分自身への気配りの絶え間なき営みと見なされるべしとの原則へ道を切り開くものであった。」(フーコー『自己への配慮』自己の陶冶)

自己が自我に応答する、次の自我が自己(昔の自我)に応答する、・・・(以下同)・・・の循環。過去から未来に向かって反応(response)=反射(reflection)を繰り返す。合わせ鏡の連続反射に似ている。私は次の自分(小さな他者)を待ち続けている・・・ゴドー(God-ot)を待ちながら・・・God と God-ot の差:-otはフランス語で、「ちっぽけな」を表す接尾語らしい*1。内省(reflection)とは、実際に反射(reflection)である。

「哲学者の学校とは診療所(iatreion)である。卒業時の感想は、楽しかった、ではなく、苦労した、でなければならない。」(フーコー『自己への配慮』自己の陶冶)

自分が自分に反応する。その反応能力(response + ability)や反応性能(responsive -> responsivility )が、自問自答としての思考を規定する。哲学=思考=自問自答とは、自己との反応性能(responsivility)、自己との反応能力(response + ability)によって支えられている。哲学とは、自己との責任 responsibility (response + ability) = responsivilityを学ぶ過程と言えるだろうか。


自己との責任 responsibility (response + ability) = responsivilityを学ぶ過程で、自分自身との親密圏を築くことができる。自己愛を学ぶ家庭ともなる。それによって、自らの魂を癒やすことになる。哲学者の学校とは、自己愛を学ぶ過程=家庭であり、それは診療所でもある。哲学(philo-sophia)・・・魂(psyche)を癒やすこと(iatreia)、何よりもまず自分の魂(psyche)を癒やす(ケア=配慮する)こと・・・psyche + iatreia = psychiatry・・・自我と自己の反応性 (responsibility = response + ability = responsivility) としてのpsychiatry。能力と反応性と責任。


自己への配慮 (性の歴史)

自己への配慮 (性の歴史)

*1:人が認識できるのは文字通りの無限ではなく、無限とも思えるような多数