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オブジェクト思考ブロギング

自分を自由化 (libertize?) すること

エピクロス派の哲学者たちの場合には、『メノイケウスあての書簡』が、哲学というものは自分自身への気配りの絶え間なき営みと見なされるべしとの原則へ道を切り開くものであった。」(フーコー『自己への配慮』自己の陶冶)

「哲学者の学校とは診療所(iatreion)である。卒業時の感想は、楽しかった、ではなく、苦労した、でなければならない。」(フーコー『自己への配慮』自己の陶冶)


物質・物理の世界では世界は決定的に理解できるかというのは重要な問いであるとしても、人間社会は大きく階層が違う。自由意思は人間界の認知レベルではありうるとして良いだろう。ただし、所与として「与えられている」ものではない。


(所与としての)自由意思はあるか?という問いではなく、どう自らの意思を自由化 (libertize?) できるか?と問う。自由化=個体化=主体化として、いかに「自由人」になることができるのか?と問う。自由人としての個人individual。個人としての自由、自己の自由化*1。自らを自由化することによって個人となる・・・個人とは、自分の最大の評価者・監視者・経営者が自分であること。メタ認知が構成され、自己に対して再帰的な関係を結ぶ。

「リベラル・アーツという表現の原義は「人を自由にする学問」」

リベラル・アーツ - Wikipedia


懐疑。『自分のアタマで考えよう』・・・といきなり行うのではなく、まず疑ってみる。吟味してみる。passive(受動的:そのまま信じる)からresponsive(反応的:吟味や懐疑)からactive(能動的:思考)へ。受動的な知覚から反応を経て、そして能動的な思考へ。平たく言えば守破離。その繰り返し。「個体発生は系統発生を繰り返す」ばりの単なる重ね合わせだけど、プロテンスタンティズム(抗議・反抗主義)は、一種の反抗期=独立期=個体化にも見えてくる。教会=家族からの個体化により、自らを自由化=主体化すること。

「なぜなら、それにもかかわらず、われわれは、十分に確実でなく吟味されていないものに信を置くことをさし控えることができるという、この自由をわれわれのうちに経験したからである。」(デカルト『哲学原理』39.意思の自由は自明である)


懐疑と吟味による意思の自由。しかし、それは「自明」ではない・・・自製=自省というべきか。「意思の自由は自製=自省である」。懐疑は思考の母。受動(知覚)→反応(懐疑・吟味)→能動(思考)と促す母なる懐疑。passive -> responsive -> active。

「偉大な進歩はおのれの無知を認めることから生まれ、思索の自由なくしては手に入らないことを知らなければなりません。その上で、この自由の価値を鼓吹し、懐疑や迷いは危惧するどころかむしろ歓迎され、大いに論じられるべきであることを教え、その自由を義務として次の世代にも求めてゆく、これこそ科学者たる私たちの責任であると私は考えます。」(リチャード・ファインマン

*1:「奴隷・女の宗教」としてのキリスト教をどう考えるのかは難しい。自己の自由の一方で、他人の自由・他者の自由という課題がある。ドラッカー曰く「キリスト教においてこそ社会の自由と政治の自由の区別が生まれた」らしいんだけど、この意味が未だにわかりにくい。