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オブジェクト思考ブロギング

critique et clinique:『批評と臨床』ジル・ドゥルーズ

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

critique et clinique(批評と臨床)

critique(批評):文献中心
clinique(臨床):人間中心
と捉えて、clinique→critique→clinique'→critique' という運動を考える。critiqueとcliniqueの二重らせん=らせん階段を登っていく。臨床が批評となり、批評が臨床となる地点。二重らせんが捻れてひとつのらせんとなる地点。criticalなclinical、clinicalなcritical、criticalとclinicalの間にあるもの。教育と呼ばれるものの補助線になりそう。


シェーマとして考えると、人中心(human-centered)→文献中心→人間中心(network-centered)。プラトンは文献を残したが、ソクラテス自身は残していないことをどう解釈するか。あるいは、
科学=客体object(文献)としての知の増大:客体としての大聖堂を建てる=脱記名(de-sign)
人文=主体subject(人間)としての知の増大:いわゆる教育にあたる=記名(sign)
と対比して、科学と人文を対比させて考えてみる。


develop = de-velope (undo-wrap)、すなわちunwrapとすると、
critique:文献の可能性を見極めて、それを覆うものを剥がして提示すること…de-velope (unwrap)
clinique:人間の可能性を見極めて、それを覆うものを剥がして提示すること…de-velope (unwrap)
「啓蒙enlightenmentとは何か」・・・develop(発達・開発)=de-velope (unwrap)・・・可能性の中心を光らせること。光を覆うものを外してみること・・・「もっと光を」


敬意するとある臨床家が、精神療法の成分分析で、「自然のもつ力」に注目してたのが面白かった。いわゆる自然環境的な自然から、ヒトの及ばぬ超越的な意味での自然。自然治癒力と言えばそれまでだけど、そこに至るまで一通りの人智を修めているかどうかは大きく違う。「私が包帯し、神が癒やす」というアンブロワーズ・パレの言葉を連想させる。自然の力を、de-velope (unwrap)する。未知としての自然を理という形でde-velope (unwrap)する科学者(神学者)と、力という形でde-velope (unwrap): 潜在的なものを顕在化する臨床家(修道士、シャーマン)

「美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている。」(プルースト、『批評と臨床』より孫引き)

critique(批評)=clinique(臨床)によって、知らない自分と向き合う。自分の知らない自己(他者)に出会う。批評=臨床によって、知らない自分と出会う。自分の知らない自己(他者)に向き合うことになる。自国語(自意識)と思っていたところに、外国語(未知な他者)を見出す。自国語の中に外国語を見出す。批評=臨床によって、相手(文献や人)にだけでなく、批評や臨床をしている私自らの中にも外国語(私の知らないワタシ)を見出すことになる・・・日本語のカタカナは外国語であることを端的に示す文字体系*1・・・可能性の中心としての外国語=他者=未知=ナニカ。critique(批評)=clinique(臨床)によってde-velope(unwrap)されるナニカ。clinique = develope = critique。

*1:外国語を内在させる言語としての日本語