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オブジェクト思考ブロギング

自己と他者:自己愛について

「哲学における現実は、自己と自己との関係にある」(フーコー

フーコーの主題:主体・権力・知(→主体化)と並行して、彼が扱ってきた対象:精神医療・刑罰・性・自己を並べてみる。それを関係論として構造化してみると、その中心に浮かび上がるのは「他者」かもしれない。特に、自分自身(自己)の中に「他者」を見ること。自分自身が不可思議な存在になる(思える)こと。

「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」
アウグスティヌス『告白』)

『告白』における自己=他者の気づき。一(一者)に亀裂が入って、二項(二者)になるとき・・・「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」:大きな謎、未知や超越、制御不能。自分の顔を鏡で覗き込む。これは誰だろう。。。確かによくわからない。不思議な人物が映っている(reflection)*1

「<自己>は時間の中にあり、絶えず変化してゆく。それは、時間の中でさまざまな変化を経験する受動的な自己、というよりもむしろ受容的な自己である。<私>はと言えば、それは私の実存(私は存在する)を能動的に規定する行為(私は思考する)であり、だが、それがその実存を規定し得るのはただ時間の内部においてのみ、自分自身の思考の能動性だけをみずからに表象するような、受動的で受容的で変化してゆく自己の実存としてのみなのである。」
「<私>と<自己>は、したがって、時間の線によって分離されており、この時間の線が、根本的な差異という条件のもとで両者をたがいに再び関係づけるのである。」
ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について)

<私>と<ワタシ(自己)>は、分離しつつ結合している。例えばツイッターSNSといっても、何より自分と自分のソーシャルネットワーク

思考・行動する<私>(自我・自意識):能動的 (active)
経験・受容する<ワタシ>(自己・存在):受動的 (passive)
両者を媒介する対話的な<わたし>(自省):反応的 (responsive)

自分自身の中に他者を見る・・・他者とは何だろうか。他者が存在するというより、主体と別な主体が存在することを他者と呼んでいるだけのようにも思える。自分の思い通りにならない別な主体。言い換えると、未知や超越・制御不能なもの。制御不能性の言い換えか。未知で制御不能である以上、先は読めない。互いに反応的 (responsive) にならざるをえない。スポーツの試合の先が見えないように。テニスのラリーのように。どちらが点を取るか先は読めない。自己=他者とすると、自分自身に対しても、「互いに」反応的 (responsive) にならざるをえない。反応的 (responsive) に反射的 (reflective) に。


反応 (response)とは、受動的 (active) でもあり能動的 (passive) でもある。受動=能動としての反応。動的世界の微分としての反応。反応する能力(response + ability)・・・時間や能力やらが有限な中で、どういう反応能力(受動=能動)を持つか、持ちたいと思うか。あるいは、responsiveである性能としてのresponsivility(反応性能)はどのくらいか。

「自己愛については何ひとつ語られていなかったように見える。しかし、『隣人をあなた自身のように愛せよ』と言われているとき、同時にあなたの自分への愛が除外されているのではない。」
アウグスティヌス『告白』)

自己=他者。その不思議さを前提にした自己愛という形。隣人の前に、自己への愛が問題だ。


自然哲学から自己哲学へ:自己のテクノロジー
正確には、自己に自然(未知、超越、制御不能)を見ること。

・自己の認識(self-recognition:知)
・自己の監視(self-monitoring)
・自己の統治(self-governance:狭義の権力)
・自己の契約(self-contract:法)
・自己の経営(self-management)
・自己の解釈(self-interpretation)
・自己の配慮(self-care)
・自己の受容(self-acceptance)
・自己の開示(self-disclosure:告白)
・自己の対話(self-dialectics)
・自己の分裂(self-division:未知)

信頼のレッスン - ideomics
実存方程式 - ideomics


自我(自意識)と自己(内なる他者)の関係。<私>と<ワタシ>の関係。例えば自己の統治。

「自己にかぶせるかたちで力を折り畳むことにより、そして力を自己との関係のなかに注ぎ込むことによって、ギリシア人は主体化を発明したのです。・・・だから、もっともすぐれた人間は自分自身に向けて権力を行使する者だということにもなります。」(ドゥルーズ『記号と事件』ミシェル・フーコー


自我(自意識)と自己(内なる他者)の関係。<私>と<ワタシ>の関係。テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼばりに統合していくプロセスも強力だが(自我による統治志向)、分割は分割のままでいいじゃん、というのももちろんあり。分割は分割のままで。アポリアアポリアのままで。他者は他者のままで。自意識(自我)と内なる他者(自己)との関係。自意識による統治を重んじるか、他者の受容(未知の受容)を重んじるか。いろんなパターンがある。


自己を知り、その関わりあいの中で生まれる自己愛。知への友愛(philo-sophia)→自己知への友愛→自己への友愛(philo-heautou)という友愛の変遷もそのひとつのアプローチ。自己愛に至る道はさまざまにある。自己肯定感を育むにはどうしたら良いか?とよく聞かれて、いや俺が知りたいよ、と思いつつしばらく考えていたが、ひとつのアプローチではありそう。<私>と<ワタシ>の関係をとりもつ<わたし>。内省(自己との対話、reflection)の産婆術とは?

「哲学者の学校とは、診療所(iatreion)である。」(エピクテトスフーコー『自己への配慮』より)
「きみ自身の内部にあるという条件のもと、喜びはいっぱいであろう…きみ自身の元手によって幸福であれ。何なのか、その元手は?…それはきみ自身だ、きみの最良の部分だ。」(セネカ、同上)

哲学・・・魂(psyche)を癒やすこと(iatreia)、何よりもまず自分の魂を癒やす(ケアする)こと・・・psyche + iatreia = psychiatry


自我の知らない自己。<私>の知らない<ワタシ>に対する反応する能力・・・反応能力 (response ability)。<私>の知らない<ワタシ>に対する反応性能 (responsivility)。自己への責任 (responsibility) とは、自己への反応能力 (response ability) であり、反応性能 (responsivility) である。反応能力 (response ability)・反応性能 (responsivility) としての<わたし>。


内省=内政(reflection)と外向=外交。内省=内政が、外向=外交に反映される(reflection)。時間的な自我と自己との関係(内省=内政)に対して、空間的に自分と他人との関係(外向=外交)がある。空間的に、自我と自己との関係(内省=内政)が、自分と他人との関係(外向=外交)に折り返される。内省的な私と外向(社交)的な私は、互いに反射的 (reflective)な関係。


イエスの福音公理:①神を愛せよ、②隣人を愛せよ、の中間項(直線上の中間、または直線外の中間、または媒介項)としての「他者」概念。「まったくの他者」(無限・神)から「具体的な他者」(有限・隣人)へ。他者概念はなかなか扱いが難しい。愛着は関係あるけど、還元はできないと思うし。ひとまず、「隣人をあなた自身のように愛せよ」の「あなた自身」を他者=媒介項として扱うことから始める。主体化=他者化(自我の知らない別な主体としての他者)としたら、さすがに問題あるか。とはいえ、ひとつの仮設的な仮説として。

*1:そいや、西洋美術専門の先生に聞いた話だと、現在記録上確認できている最初の自画像はローマのマルティアという女性(紀元前)・・・おそらく画家の娘のものらしい。プリニウスの記録によるがモノは残っていない、と。現代でもセルフィーて女の子が多いね。