政治:政(祭り事)と治(統治)
政治。政と治。政(祭り事)と治(統治)の一体性とは何なのか、そもそも一体であるべきか。
「政治は今や統治の行動にかかわる空間となってしまい、社会の自由な生産を高め、私的領域での個人の安全を保証することが目的となる。・・・重要なのは、可能な限り必要な範囲で、統治という国家的空間を制限して、その外側では自由が可能になるようにすることなのである。」(アーレント・ルッツ『政治とは何か』)
集まりごとが祭り事になり、政が生まれた。政が祭り事になり、集まりごとが生まれた。皆で集まり、神と君を祀り、祭りで奉る。集まり毎に暗黙の約束ができ、祭り事になった。祭り事に、言葉の約束が加わり政になった。祭り事としての政は、祀り奉ることで、はじめて「集まりごと」が成り立った。
総書記。それは、総てを書き記す者が、統治者であることを示している。それは「政=お祭りごと=パーティ=政党」を司る者ではない。紙による統治(literacy)のみがあり、神を祭る政(orality)はなかった。神は死んだ。総書記を指さしながら。
神の声の神託(oracle)による政(orality)から、投票用紙(letter)の信託による統治(literacy)へ。投票用紙、それは宛名だけの手紙であり、手紙(letter)の最古の形を示している。コピー機、それは紙と文字の繁殖のためのベッドであり、人間たちは出産の手助けを行っている。子どもたちは、紙と文字の助産術として文字を学んでいる。
我々の祭りごとを司っていた祭司は、仕事がなくなってしまった。悲しかった。
我々の祭りごとを司っていた祭司は、内側に引きこもった。苦しかった。
我々の祭りごとを司っていた祭司は、ひっくり返って司祭となった。びっくりした。
司祭と一緒に祭りも内側に折り返され、我と我の政となった。こうして少しは救いになった。
十分に発達した祭司は、司祭と区別がつかない。
十分に発達した司祭は、祭司と区別がつかない。
「ヨーロッパで個人が人格をもつものとしてはっきり登場するのは11,12世紀頃といわれています。・・・個人が成立するきっかけが12世紀のさまざまな状況のなかでも特に告解にあったということは、かなりはっきりと認められていることなのです。」(阿部謹也『西洋中世の男と女』)
カトリックは「書物の宗教ではありません」(『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』)と書きつつも、このカテキズム要約という書物全体が問答形式というのは、形式として興味惹かれる。整理された対話体としての問答体という文章形式。
「ナジアンゾスのグレゴリオスは、<魂の指導>を技術のうちの技術(テクネー・テクノーン)と呼びます。この表現が重要なのは、それまでは政治家の技、政治の技術こそが「技術のうちの技術」、ロイヤルアートとみなされていたからです。・・・・・・しかし、四世紀から十七世紀にかけては、ヨーロッパでは「テクネー・テクノーン」という表現は、もっとも重要な臨床的な技術である<魂の指導>を指すものとして使われています。」(フーコー『真理とディスクール』)
祭司がひっくり返って司祭となり、それとともに、我々の祭りごとも内側に折り返され、我と我の政となった。こうして少しは救いになった。そして、統治機構依存の精神性(government mentality)は、精神の統治性(governmentality)となりたがっている。
「ソクラテスの裁判においては、ほかならぬ「政治」という理念が、まったく新たな姿で輝き出す。・・・それ(戦争・選挙・統治行為)とはまったく逆に、「善き生」をめぐって人々と対話をかわし、吟味によって不知を明らかにするソクラテスの営みこそが、ポリス・アテナイに対する真に公的な、政治的な活動である。・・・大衆を前にした政治演説や権力行使のような派手さも威力もない、ごく私的でささやかな営みに見えて、実は、もっとも根源的で強力な公的営為であった。・・・この意味で、ソクラテスにおいて、はじめて真に「政治」が実現している。」(納富信留『プラトン 哲学者とは何か』)*1
十分に発達した戯曲は、対話篇と区別がつかない。
十分に発達した対話篇は、戯曲と区別がつかない。
政党=パーティの起源は、むしろクラブで歌い踊るパーティにあった。ハウスやヒップホップが、政党の正当かつ正統な起源であり後継者でもある。紙と文字で書かれた書物たちも、本当はレコードと同じようにdeejayingされたいのだ。書物たちはレコードたちが羨ましい。書物たちも、本当は歌い踊りたい。
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「ホメロスの定形表現では、彼の社会で知られていたような法と歴史と宗教と技術のいずれもが言い表された。したがって、ホメロスの芸術は、それ以来一度もありえないほど重要であり、機能的なものであった。彼の芸術は教育と統治にたいしてある種の支配権を享受したのであり、そして、この支配権は、政治的権力がアルファベットを読み書きする能力を意のままにしうるようになるやいなや失われてしまうのである。」(エリック・ハヴロック『プラトン序説』)
「古代においては、いずれにせよ純粋に政治的なものにかかわっていえば、こうやって言葉に描かれてつくられた像の中で最大のものは、トロイ戦争であった。ギリシア人はこの戦いの勝者のうちに、ローマ人はその敗者のうちに、自分たちの祖先を見て取った。」(アーレント・ルッツ『政治とは何か』)
古代末期においては、いずれにせよ純粋に政治的なものにかかわっていえば、こうやって言葉に描かれてつくられた像の中で最大のものは、ナザレのイエスであった。キリスト者たちは、その絶対的な敗者のうちに、自分たちの祖先を見て取った。栄華を誇った国家が滅びていく中、カトリック教会が残った。
*1:日本語で『国家』、英語で"The Republic"とされる"Politeia"は、
TV or not TV ?
映画は孤独に向き合う。映画館で電灯(全体に広がる光)を消して、作品と個人として向き合う。互いの顔は見えない。照明は、画面とその中の役者や風景にだけ。客はおしゃべりはできない。雑音は許されない。
TVは複数人で見る。TVよりむしろ互いに向き合う。リビングで電灯をつけて、互いの顔を見て共にする。照明は画面と視聴者の両方に当たっている。おしゃべりはよくあること。TV自体がむしろ信号と同時に雑音(雑談)でもある。
BGM (background music) ならぬ BGM (background movie) として映画を流そうとしたことがあったけど、気が散漫になるだけで良くなかった。TVはむしろ集中するのが辛い。冗長で密度がないから。ほとんどが信号というより雑音のような番組も多い。雑音と信号は区別しがたい。理性的で比率的(ratio-nal)なsignal/noise ratio (S/N ratio)に対する、非理性的で非比率的(ir-ratio-nal)なsignal/noise ir-ratio。その分、背景として優れている。前景になるのは家族や共時的な集団。
映画とTVドラマの違い。映画が時間の、シークエンスの芸術であるのに対して、TVドラマの方が、まさにdramaであって演劇的、つまり空間的な成分が多いようにも感じる。実際人間関係が主体だし。TVドラマ『東京タラレバ娘』で映画好き男性と、主人公倫子(TVドラマ脚本家)が、"Sex And The City"についての好みで食い違うところがあって、映画 vs TVドラマの差が面白かった。一種のメタドラマ。
実際には、アクション映画やデート用の映画など、いくらでも中間的なものが多いけど、シェーマ的に言えば、前者が絵画のシークエンスで小説の兄弟、後者は演劇的・空間的・社交的=社交空間なのかも、と。綺麗に分かれるわけないし、昔の演劇の延長としての映画なんかは、むしろドラマ的なんだろうとは思いつつ。倫子が、「ドラマってちゃらいって思われてるけど、現場はみんな本当に本気でやってるんだよね。みんなでやるって一体感があって。脚本はその設計図なんだけど、その設計図を書きたくて、脚本家になろうと思った」みたいな趣旨の発言があり、建築家の比喩(設計図)が使われている*1。橋田壽賀子氏のTVドラマは、キッチンで作業している主婦が画面見なくても話が追えるようにscriptが「設計」されていたと聞くけど、確かに空間的な「設計」になるんだな。とキッチンで洗い物してると思う。音と光を伝える精霊たち(spirit)の空間設計としてのscript。ブラウン管の厚みの中には、舞台が隠されている。
作品として完成された音楽や映画には、始まりと終わりがある。絵画のように額縁=枠(frame)がある。個体=固体として独立した境界がある。枠組み(framework)によって、骨組み(framework)が生まれる(外骨格)。ラジオとTVには始まりも終わりもない。だらだら続く。流体的。自覚的でないと、TVは表象(re-presentation)ではなく、同時的な現在(present)の上演(presentation)のように思えてしまう。共時的にだらだらと一緒に過ごしてしまう。時間の切断がない。
映画は小説の延長として、孤独に向き合い、我と我のソーシャルネットワークを形作っている。
TVは演劇の延長として、皆で向き合い、我々のソーシャルネットワークを形作っている。
TV, or not TV - that is the question.
『にほんご』安野 光雅・大岡 信・谷川 俊太郎・松居 直
- 作者: 安野光雅,大岡信,谷川俊太郎,松居直
- 出版社/メーカー: 福音館書店
- 発売日: 1979/11/30
- メディア: 単行本
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子供が声出して読んでいるのを隣の部屋で聞く。音感が際立っている。谷川俊太郎氏 x 福音館書店で、そりゃハズレないでしょう、と思っていたけど、それどころではない。
昔々、ロダン美術館の『考える人』の前で、なんにも考えない人になってたら、いろんな国の人がたくさん通り過ぎ、いろんな国の言葉が、言語というより楽器の音の質感の違いのように聞こえてきたことがあった。いろんな国の言葉が、意味よりまず音になったとき、たまたま聞いた日本語が、外国語のように音になっていた。そうした「にほんご」は、極東の島国に生まれてもう何やったって文化的なものは仕方ないよな。。。みたいないじけた考えを一旦キャンセルする力があった。一旦ではあったけど。。。
「音とイメージが、イメージと音が自動機械のような精密さでうまくかみあい、その結果〈意味〉などというつまらぬものが入りこむ隙間が残されていないときにのみ、言語は言語そのものであるように思われた。イメージと言語が優先する。」ベンヤミン『シュルレアリスム』
(Twitter @w_benjamin_bot より孫引き)
言葉には3つの住所(address)がある。響き、綴り、意味。それぞれ異なるご近所さん(隣人)がいる。声=空気=pneuma=spritと、綴り=書字=scriptと、差異(split)としての意味。3つの空間のそれぞれの不動産。現実とは異なる空間に不動産を持つことで、誰でも「土地持ち」になれる*1。それぞれのご近所さんに向かって(ad-)、三つの衣装(dress)を使い分ける。住所(ad-dress)とは、隣人に向かう(ad-)衣装(dress)であった。汝の隣人を愛せよ。
シニフィアンとシニフィエがずれていくことで、隙間=空間が生まれる。シニフィアンの音が反響する。記号(sign)が音響空間として設計(design)され、やがて音が響き渡ることで、意味から脱し、脱記号化(de-sign)される。
科学的な言説では、記号と意味は一対一対応に近づく方が望ましいが、建築的な作業としては、空間が広い方が心地よいことも多い。「煙に巻く」という表現があるけど、言葉によって「煙」を、つまり広がりのある空間を出現させようという意図なら、それは目的と言っても良い。固体のような液体のような気体のような空間的な煙。加湿器として機能しようとしている。もくもく。言葉とは、一種の加湿器でもあったのだ。翻訳という作業も、きっと一種の反響空間を作っている。
まだ言葉というものが不確かだった時代、言葉を操れること自体が、不可思議で精霊的(spiritual)な能力だったのかもしれない。ちょうど文字が現れ始めた時、書字・綴り(script/spell)を扱えることが魔術・呪文(spell)であったように。
こども(幼児~学童)の養育
子供(学童~思春期)の教育
こどもが、子どもとなり、子供になっていく。声の文化から、文字の文明へと移っていく。こどもには、まず声が大事。直線的に変化するのではなく、地層的に重なっていくのは言うまでもなく。
「ラファエルのように描くのに4年かかった。「こども」のように描くのに一生かかった。」(パブロ・ピカソ)
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<本書あとがき抜粋の帯より>
・「読み」「書く」ことよりも、「話す」「聞く」ことを先行させています。
・言語を知識というよりも、自分と他人との間の関係をつくる行動のひとつとして、まずとらえています。
*1:3つの空間にいるそれぞれの不動産業者。不動産業者には土地測量(geo-metry)が必要だ。
書物の副作用
本を読まなくなって、ウェブでは情報が断片化されて、という批判がある。しかし、一方で、本のような直線的な「ストーリー」というのも危険ではある。特に直線的な小説の構造。
言葉や文字が認知をフレーミングするのは言うまでもないが、本の構造自体も認知をフレーミングしてしまっているのかもしれない。後天的な「人間的、あまりに人間的な」認知の構造。本の副作用としての認知バイアス。例えば、historyにhis storyを投影すること。
小説の嘘っぽさとは、内容ではなく、一貫した流れそのものにある。ストーリーとは、真理ではなく心理にあり、それは審理を経たものではない。こころに理(ことわり)に想定するのは、あまりに人間的な所産ではなかろうか。。。
真理とは最新の誤謬である。(ニーチェ)
心理とは最深の誤謬である。
「それ(Carothers 1959)によれば、声の文化のなかで生きている人びとは、ふつう、分裂病的行動を外面化するが、文字に慣れた人びとはそれを内面化する、というのである。」(オング『声の文化と文字の文化』)
『異邦人』でカミュとムルソーが撃ったアラブ人は、小説家になりたいという希望を持って心理学を学んでいた。文字と書物の病に憑かれた者を治してくれる医者は少ない。そして、健康保険も使えない。
「Googleがかれらの「ウェブ」から人力を排除したということは、書字のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、Googleがしりぞけたということである。かわりにGoogleが支持したのは、世界と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、シリコンバレー人のこころにAlphabet社が内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. OMG "Literacy and Computeracy - The Technologizing of the Number")
literacy = letter-cracy のこれまでとこれから - ideomics
人々と人間
3人寄れば政治が生まれる。3人寄れば3体問題。政治化=政治家とは問題を複雑に、予測不能にするのが仕事であった。政治化=政治家とは、問題を解決するのではなく、開始するのが仕事である。問題を完了させるものが官僚と呼ばれる。
過去、現在、未来の自分の3人で相談・・・仮想的に3人寄れば文殊の知恵、バーチャル文殊の知恵。この技法は、バーチャルもんじゅ君という名前で、左右を問わず多くの人に親しまれている。言葉の意味が他との差異や対立によって明確になるとしたら、2項のうちの1か、3項のうちの1か、N項のうちの1か、でも何か変わりそうだ。
じぶんがく/自分科学/psyence
自分自身の愚かさと付き合っていくのは難しい。他人の愚かさ(と思う/思ってしまうもの)と付き合っていくのは、なお難しい。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
ここで言われる「だれか」とは、まずあなた自身のことである。赦しとは、まず自分自身に向けられることから始まる。
意識 = conscious = con-science = 共・認識・・・誰とともに認識をするのか?・・・我とともに。我と我、としての我々(自我と自己)。我々のソーシャルネットワーク。我と我のソーシャルネットワーク。
我々=我と我・・・=I&I&I&I&I&I&I&I&......
再帰性としての&が成立し続けることで、「私」は再結合的なin-dividual(分割できないもの)として存在している。「私」を限りなく分割してみると、「私」は永遠に再帰している分割された瞬間の連続。「私」とは、つまり再帰性のこと。分割された瞬間の連続。再帰的な関係が永遠と続く永遠再帰(eternal recurrence)。瞬間を限りなく短く分割してみると、人生は限りなく長い。永遠に再帰する我と我のネットワーク(ERN)。
意識とは、記憶の連続性、特に再帰的な自己認知の連続。自意識、自由、主体、内省・・・工学的な理解としては、再帰的な処理のことではないか、という気もしてくる。recall=想起とは、かつての自分を「再び呼ぶ」(re-call)という、声と聴覚の働きであり、呼ぶ者と呼ばれる者がいる。呼ぶものと呼ばれる(応える)もの。音響空間としての内部空間にいるかつての自分の「現在」を再現在 (re-current) とする*1。通貨(currency)で繋がる我々のネットワークを、再帰性(re-currency)として、我と我のネットワークとして内側に折り返す。
私の精神(geist)は、これまでの私という死者の霊(ghost)であった。おそらく個人になりきるのは、故人となってから、つまり、共時的な空間世界と完全に切断されてから、歴史化されてから。死者の霊=ghost=geist=精神となってから。書物とは、故人との想像上の対話。故人=死者の霊=ghost=geistとの親密で内密な秘密の対話によって、「精神 (geist=ghost) と時の部屋」なる内部空間を作る。
神との約束としての律法、人と人との契約としての法律。自分と自分とのコードとしての律法律。the Testamentならぬa testament/s・・・つまり遺言。瞬間瞬間の自分自身を埋葬し続けている。遺言(約束)を残し続けている。
「クリトン、アスクレピオスに雄鶏一羽の借りがある。忘れずに、きっと返してくれるように」(『パイドン』118A)
アスクレピオス=産婆が、ghost=geistの出産を促している。故人=個人による精神 (geist=ghost) の誕生が続いていく。我々は、=I&I&I...として、実は毎日毎時間毎秒、遺言を残しつつ誕生し続けているのであった。自分自身を埋葬し続けることによって生まれる精神 (ghost=geist)として。
神との約束としての律法、人と人との契約としての法律。自分と自分とのコードとしての律法律。まずは自分と自分との契約としての律法律。法による統治性、つまり法治性を内側に折り込むことによって、強権的でもなく、馴れ合いとしての慣習でもなく、約束に基づくな関係へと。口約束、書類契約、プロトコル、法律、コード。まずはじまりに約束がある。
「ニーチェの偉大さは、債権者-債務者関係こそがあらゆる交換に対して第一次的なものであるということを、いかなる躊躇もなしに明示したことにある。人はまず始めに約束する。」(ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』裁きと訣別するために)
統治機構に従う、統治機構依存のメンタリティ (government mentality) を、自身の統治性(governmentality)へと折り返す。自我と自己との約束・契約・コード。
「ギリシャ人が「法律nomos」によって理解していたものとは大きく異なり、まったく逆のものですあったのだが、ローマの「法lex」の実際の意味は「持続するつながり」であり、・・・法lexは人間と人間をつなぐものであり、それは絶対的命令でも暴力行為でもなく、相互の同意によって生まれるのである。」(ハンナ・アレント『政治の約束』)
じんぶんがくをうちにおりかえし、じぶんがく(psyence)へ。たましい(psyche)をしること(science)。
自然科学を内側に折り返し、自分科学(psyence)へ。魂(psyche)の認識(science)。
私・わたし・ワタシを見出す試みとしての、じぶんかがく/自分科学/psyence。liberty, freedomとは異なる日本語漢字としての自由は、「自らに由る」。自己に由る、あるいは自我に由る。むしろ、自我と自己の関係としての主体*2に由る。
「あなたは自分自身と結婚し、神の定めに従って1人の「夫=婦」となろうとしています。あなたは、その健やかな時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り、堅く結合を守ることを約束しますか。」
*1:reflexive voice(再帰する声=再帰動態) - ideomics
*2:“主体とは、自己の自己に対する関係として定義されるでしょう。” - ソクラテスの遺言-ミシェル・フーコー『真理の勇気-自己と他者の統治Ⅱ-』- - abrasan365’s diary