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オブジェクト思考ブロギング

literacy = letter-cracy のこれまでとこれから

法文と文法。literacyから生まれた鏡合わせの双生児は、literacyとは、実は統治形態(-cracy)の一種であり、紙による統治という意味であることを示している。cの一文字は、官庁内でのみ見ることが許されており、一般市民は見ることができない。科挙に登第することで、初めて見える一文字である。登第は、後に東大という簡体字で記されるようになる。

 

東方から紙が流れ込み、神の子の花嫁たる教会はその半身を失った。息子の嫁という介護者に支えられた高齢の神もやがて死に至る病を得ることになった。紙(literacy)が、神(orality)に死をもたらした。神託(oracle)は、投票用紙(letter)による信託に代わられた。

 

「神(orality)は死んだ」そして「紙(literacy)が生まれた」
AIでヒトが支配される云々とあったりもするけど、既に貨幣、書類、自動車などに王座の大半を譲って感は結構ある。随分前から人間は脱中心化されているとすれば、今更心配しなくてもいい、という言い方もできる。オングの"Orality and Literacy"の副題は、"The Technologizing of the Word"。コトバのテクロノジー化。文字となり主体から切り離され、客体となるとともに、別主体として君臨することになる。

 

"人"文主義においては、人が中心であるが、人"文"主義においては、文(script)が中心。人"文"主義においては、人=trans-script(scriptの橋渡し)であり、主役はscript。もっと言えば、scriptから魂(spirit)を生むための「つなぎ」。この場合、ゲノム(遺伝子の総体)に相当するのは、アーカイブ。人にとって客体であったはずの文(script)が、いつの間にか主体となり、人が客体になってしまう。という逆転。

 

scriptから、transcript = trans-script が情報として「複製」されるが、単純なコピーではなく、scriptからsplit (splice) され、spiritになる。この過程において、いわゆるヒトは、ポリメラーゼやらの酵素の役割となる。『利己的な遺伝子』が脱人間中心化して遺伝子中心にものごとを捉えるように、言語中心に捉えてみれば、ヒト=書籍の乗り物。まさに、trans-な体験。trans-scriptな私=ヒト。

 

我々が紙を統御しているのではない。紙が我々を統御しているのだ。

 

法文と文法。漢字の文字列でありながら、例外的に交換法則が成り立つことが知られている。神ならぬ紙を中心とした統治機構とは、literacy = letter-cracyであり、法文=文法を学ぶことでしか、それを御すことができない。リヴァイアサンとは紙でできた怪物であり、それは文字で何重にも織り込まれている*1。textを編むことで、textureとなり、この怪物のきめ細やかや肌合いができている。統べるとは、糸をより合わせる過程を指しており、それは、文字で編み物をしたものにしかわからない。

 

プラトンがかれの「国家」から詩人を排除したということは、ホメロスのなかにはくりかえしあらわれていた素朴で累積的、並列的な、声の文化にもとづくスタイルの思考を、プラトンがしりぞけたということである。かわりにプラトンが支持したのは、世界と思考そのものののするどい分析ないし解剖であり、そうしたことは、ギリシア人のこころにアルファベットが内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. ONG "Orality and Literacy The Technologizing of the Word")

 

「歴史家のローレンス・ストーンが、識字率と革命との関連を研究し、イギリス革命、フランス革命ロシア革命を取り上げて、革命の前には必ず識字率が上昇していたことを示唆しました。・・・識字化というのは、実に重要な現象です。どんな社会に対しても何らかの不可逆な変化をもたらさずにはいないからです。」(エマニュエル・トッド『問題は英国ではない、EUなのだ』P106)

 

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法文と文法。literacyから生まれた鏡合わせの双生児は、未知の道を歩み始めた。文法は、音と声の文化をコード(chord)に残し、紙と文字を経て計算機のコードとなり、再びコード(法典)に一体となった。紙と書かれた文字の所産である文明は、二進法のもとに一元化される。神を駆逐した紙と文字も、数字の前には非力であった。こうして、literacy = letter-cracyはcomputeracy = computer-cracyになるのであった。

 

Googleがかれらの「ウェブ」から人力を排除したということは、書字のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、Googleがしりぞけたということである。かわりにGoogleが支持したのは、世界と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、シリコンバレー人のこころにAlphabet社が内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. OMG "Literacy and Computeracy - The Technologizing of the Number")

 

WJ. ONG "Orality and Literacy The Technologizing of the Word"
WJ. OMG "Literacy and Computeracy - The Technologizing of the Number"

 

Technologizingと動詞の現在進行形であり、技術というものが進行形であることを示している。横断面でみると、いかにもハイテクであるものが、時を経ると所与のものになる。服飾や眼鏡、道路は言うに及ばず、さかのぼれば、書字・文字も限られた人だけの「ハイテク」であっただろうし、更に遡れば、火を使うことが「ハイテク」だった時代もおそらくあっただろう。時代が下れば、今のハイテクもローテク、そして所与のものになる。

 

OMG, 自ら「奇怪=機械=機会」を生み出し、「奇怪=機械=機会」によって自らを変えよ。統治者としての「神は死んだ。」まもなく、「紙も死んだ。」。歴史的・書類的な統治機構から、無時間的・情報的な統治機構へと、書字を埋葬し続けている。自動運転とは、車が自ら動くということであり、車によるヒトの統制が、更に一段階上がることを示している。コンピュータウイルスという言葉は、コンピュータに感染するウイルスという意味ではなく、コンピュータそのものが、ヒトの精神にとってウイルスであることを意味している。神経に対するウイルスではなく、精神に対するウイルスとして。

 

我々が車を統御しているのではない。車が我々を統御しているのだ。

 

京都は、祭り毎に暦を刻む、声と歌の「祭り事=政」の雅(みやび)な都(みやこ)であり、東京都は、文書の保存を中心とした、文字による統治機構としてのメトロポリス=構造であった。京都は局所的に偏在しているが、東京都はそこかしこに遍在している。声は共にする空間に限られる。文字は複製を繰り返すことで、Nを大きくすることができる。政=まつりごと=祭り事=festivalは、書字ではなく空気が主役になる。統治=governanceは文書が主役になる。

 

声の空間としてのポリス(京都)から、文字の構造としてのCapitol=Capital=capital letter(東京都/Tokyo)に遷都され、印刷機とタイプライターは、文字を書字から印字という指的(digital)な存在に変えてしまった。計算機は文字通りのdigital=bitに変換してしまった。now-hereに共時的・空間的なポリスから、文字=印字を経て、無時間的・情報的・数字的なno-whereの「国家」になっていく。

 

東京都が更に東に遷都しようとしたとき、そんな陸地はどこにもなかった。

ビットで構成された「国家」はどこでも存在すると同時にどこにもなかった。

アテネ→ローマ→・・・→ロンドン→NY→SF。世界の首都はもっと西に移動したかったが、そんな陸地はどこにもなかった。

 

「人類が地球外へ出、地球を一生命体として外から見ることができるようになって、初めて人類には新たなる進化の時が与えられたのですっ!不完全なる言葉による相互理解を越え、互いを理解しあい、のみならず行動においても新たな可能性を身体的に獲得したニュータイプがっ!」(『機動戦士ガンダム』よりジンバ・ラル)

 

ジオン・ズム・ダイクンは、宇宙移民の導きの手の任を自覚した時に、そうした呪縛からの解放を考えた。宇宙を含む万物が神の創造物であるにせよ、かつての新大陸に渡ることで得た解放感に数倍する希望を、我々宇宙移民が得て悪いことがあろうか。ダイクンはそう考え、新たな新世紀のプロトコルを発した。我々同志はその旗の下に集った。新しい人間への希望が、かくもおぞましい憎しみと大破壊を招くとも知らずに・・・」(『機動戦士ガンダム』よりデギン・ソド・ザビ

 

タワーマンションとは、実は地球に刺さったコロニーなのではないか。。。仮想的な未来から巻き戻されてきたコロニーなのではないか。。。


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orality - literacy - computeracy
三能分立、あるいは三能一体
三位一体、三権分立。これらの3という数字の根拠は、テーブルが安定するには、足が3本以上必要である、という家具の構造に由来している。