ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

自分自身との共生の作法

とある寄稿より改変
*************

思春期~青年期は、脳自体が生物学的にダイナミックな変化を起こす時期であると同時に、恋愛や家族からの自立、就職などによる社会参加といった心理的な負荷が大きい時期でもある。まだ身体的な完成を見る前という生物(ヒト)としても感受性が高い時期に、人間として様々な出来事が生じる。新しい出来事によって、これまで付き合ってきた自分自身の気づかない側面が出てくるが、中には強く不快であったり、理解不能だったり、ものによっては危険だったりする。

「私とは他者である」(アルチュール・ランボー

自身の気づかない面は、色々な場面で出てくる。自身の気づかない面が出てくることは、一瞬一瞬としてあるだけでなく、振り返ってみれば、昔の自分は今の自分にとって一種の他人といえる。人生として流れる時間をt、現在に至るまでの総時間をTとし、これまでT/Δt = N人の「自分」がいた、というように分割して考えてみることができるだろうか。過去の自分は現在の自分に対して何らかの影響を与えているが、同時に現在の自分は過去の自分に対して「解釈」という影響を及ぼす。過去の自分は客観的には変わらなくても、捉え方が変わることで、主観的に変容する。(逆に、過去の自分は現在の自分に客観的に影響が与えていそうでも、主観的には感じ取れず、無関係のように感じられていることもままある。)現在の自分から見ると、昔ほど重みが小さいように思えるが、必ずしもその影響は直感に従わなかったりするのが難しい。


非対称な「N人の自分」が経時的に存在する。このN人を同じ平面に並べてみて、そのN人の自分との共生を考えるという作業を想定することができる。「私」という何人もの他者と、自分自身がどう付き合っていくか。精神的不調という現象は、コントロールできない他者としての性質が特に強く自身に表れる場面として捉えることができるだろう。自意識(自我)ではどうにもならない他者としての自分(自己)が出現したときに、その他者=自分とどう付き合っていくか。どういう関係を築いていくことができるか。自我や自己を確立するという意味での自立とは、自分自身との共生の作法を習得するという作業なのかもしれない。自分自身との共生・共存的な関係を構築することで、individuus (indivisible) という意味でのindividual(個人)になっていく。


人によって自分自身に対する理解の度合いは様々だ。おそらく学問的・知的な理解水準と自分自身に対する理解の水準は正に相関するのだろうが、きれいに一致するわけではなく、学問的には優れている一方で、自分自身の状態や歴史についてはほとんど興味や理解がないという場合もある。自分自身に高い関心があるというのが必ずしも理想的なわけではないが、身体症状から感情まで自身の状態を把握していないというのは、メーターなしで自動車を運転するのに近いものがある。


このような作業を自力で十分できる人も多いが、他人との関わりの中で身に着ける人もいる。他人との関わりの中で、自分自身と対話する過程を身に着けていくというのが一つの理想の形といえる。人生が続く限り、自分との付き合いは終わりがないから。


*************

法律が文字通りの他者(他人)との共生・共存を支えるシステムであり、文字という形で明文化されることを基本とするのに対して、精神保健は自分自身との共生・共存を支えるシステムであり、声という形で対話的になされると対比できるだろうか。「リベラリズムとは探求の非終局性を承認するが故に他者との終わりなき対話を引き受ける一つの覚悟のことである。」(井上達夫『共生の作法 会話としての正義』第5章会話としての正義)という一文を借りて表現するならば、「探求の非終局性を承認するが故に自分との終わりなき対話を引き受ける一つの覚悟のことである。」といえるかもしれない。