言語というウイルス
子どもが言葉(発声)を覚えたり、文字を倣ったりする中で、何かを失っている感は、大人の立場から見ると逆方向も想像できて面白い。想像できるとはいえ、、やはりpoint of no returnという印象が強い。言葉を覚えると、全身で表現する必要ないし、泣きわめいたりすることもなくなる。発達段階として独立にその要素もあるが、言葉によって必要がなくなる。子どもたちは、wordのswordで、歌と踊りの首を刎ねている。
ソクラテス、ナザレのイエス、ゴータマ・シッダールタ、孔丘と、本人は直接文字を残さず弟子筋が文字として残したというが、声と文字の境界として、やはりその時代にしかないものがあったように感じる。経典化した後の先行者利益xネットワーク効果が大きいにしても、洞察とか思考とか、能力だけで言えば確率的に同じくらいの人は、(人口考えると)後の時代にもっといそうな中残るというのは、後からは再生できない要素があるのかもしれない。ある種のテキストには、純粋な声の文化が、当時の空気とともに反響している。
声の文化と文字の文明・・・思考の強力な分割線。男と女、右と左、おそらく言語人は二分法・分割思考(split mind)からは逃れられない*1。wordは常にswordであり、いつの間にか割線を入れている。そこには、常に傷跡があったのだ。wordがswordになってしまうならば、どこにメスを入れるのか。言語自体が外傷であり病であり、一種の感染症だった。
とともに、この言語なる「ウイルス」は宿主の生存に半ば組み込まれている。言語というウイルスは、人間社会に組み込まれ続けている。ゲノムの中のレトロトランスポゾンやERVのように。「本当の自然言語」である核酸の塩基配列として組み込まれた「自然言語」の一部としてのウイルスのように。
「われわれは自分の言葉を統御していると考えているが、しかし、われわれが言葉によって支配され統御されているのである。」(フランシス・ベーコン)
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生物の細胞の核膜は、ウイルス由来なんじゃないかという仮説があるらしい*2。定説ではなさそうだけど、魅力的な説。細胞中心の生命観に対するウイルス中心の生命観(ものの見方)。言語と人間の関係も似ている。「人」文主義か、人「文」主義が。あくまでもヒトを中心に考えるか、あるいは、言語=ウイルスを中心とみなし、文字列=核酸を中心に据えるか。
言語=ウイルス、文字列=核酸による膜の作成、個体化・・・人々という集合体(マス)から分節=文節するとともに、個体同士を接続する。「人々」が「人間」となるには、間(inter)が必要だった。間をもたらしたのは言語というウイルス、すなわち核酸=文字と膜の複合体であった。これが、エクソン・イントロン(intron/inter)の始まりであり、原核生物としてのリヴァイアサンと真核生物としてのリヴァイアサンの分岐の始まりである。*3
「ギリシャ人が「法律nomos」によって理解していたものとは大きく異なり、まったく逆のものですあったのだが、ローマの「法lex」の実際の意味は「持続するつながり」であり、・・・法lexは人間と人間をつなぐものであり、それは絶対的命令でも暴力行為でもなく、相互の同意によって生まれるのである。」(ハンナ・アレント『政治の約束』)
人々=人人=人・二とし、仁と書く。これは二者関係を示している。人人人=人(にんべん)・三となる漢字を想定すると、三者関係を示すことになる。しかし、いずれも間が足りない、間が抜けている。「人々」が「人間」となるには、間(inter)が必要だった。間をもたらしたのは言語というウイルス、すなわち核酸=文字と膜の複合体であった。
観念が文字を生み、文字が観念を生む。文字列という再現(re-presentation)の前に、目の前にある現在(present)が遠のいていく。声の文化とともに現在(present)にあり続けると、瞬間的な反応に終始する。文字の文明とともに表象=再現(re-present)にあることで、いったん間を置くことができる。時間的にも空間的にも