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オブジェクト思考ブロギング

reflexive voice(再帰する声=再帰動態)

自分の発声は、空気を通して、また骨伝導を通して、自分の聴覚に帰ってくる。二重に再帰的 (reflexive)。声そのものが再帰的・・・voice = reflexive voice = 再帰動態・・・声そのものが再帰動態であった。

 

文字列 (letters) は、どうしても手紙 (letter) になってしまう。書くことによって、常に自分自身への手紙を書いてしまっている。再帰的 (reflexive) に。眼球から入り黙読された「声」は、空気の振動、骨伝導に続いて3つ目のreflexive voice = 再帰動態であった。

 

文字(letters)は過去と未来への手紙(letter)になっている。いや、なってしまっている。記録になってしまう。声は今ここ(now-here)の現在に留まり、やがてどこにもない(nowhere)ものになる。声には固有名詞がより強く刻印されている。

 

声とともに生きるものは記憶に頼り、今ここ(now-here)という現在(present)が続いていく。多いに記憶違いと共に。

文字とともに生きるものは記録に頼り、どこにもない(no-where)過去の再現(re-present)が続いていく。過去と現在の隙間に挟まれながら。

記録は過去のものであり、私とは別物(客体)であったが、記憶は常に現在のものであり、私自身(主体)に他ならない。

 

「<記憶>こそは、自己との関係、あるいは自己の自己による情動の、ほんとうの名前である。カントによれば、時間は、そのもとで精神が自己に影響するような形態であった。ちょうど、空間が、そのもとで精神が他のものに影響されるような形態であったように。・・・主体あるいは主体化としての時間は、記憶と名付けられる。」
ドゥルーズフーコー』)

  

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1900年代にプラトン全集をまとめたProf. J. Burnetによると、ソクラテスによって、それまでホメロス以来、霊として使用されていたpsycheという概念が、意識(consciousness)・自我(I,self)として使用されるようになったらしい*1。外部空間に響き渡る声(気体的=pneumatic=霊的)を、内側に折り返すことで、内声=内省としての内部空間が生まれる。という意味で、pneumaを内側に折り返したものとしてのpsycheというのは納得できるし、歴史的なクレジットはさておき、ソクラテス的ではある。相手の言葉を繰り返す・エコーすることで、言葉が折り返される(echo=reflection)。外部空間に響く声を折り返すことで、内部空間に響かせる、またはそれを生じさせる。あわよくば、内声=内省(reflection)になる。

 

それは文字ではない。外への声(空気の振動=気体的=pneumatic)でもない。内なる声としての内部空間(内声=内省)。彼の言葉では、おそらくダイモンと表現されている。盲目のホメロスによって生まれた外部空間・音響空間(空気の振動=pneumatic=spiritual)を、内側に折り返すことで、内声=内省としての内部空間・音響空間を作り出した(psyche)のが、ソクラテス、という解釈。外側への声が反射(reflection)されて、内側に折り返されることで、内声=内省(reflection)になる。内声=内省psycheは、空間的に個人を独立させて、時間に切れ目を入れる。

*1:20世紀初頭の学説で、今はどうなのか知らないけど

言語というウイルス

子どもが言葉(発声)を覚えたり、文字を倣ったりする中で、何かを失っている感は、大人の立場から見ると逆方向も想像できて面白い。想像できるとはいえ、、やはりpoint of no returnという印象が強い。言葉を覚えると、全身で表現する必要ないし、泣きわめいたりすることもなくなる。発達段階として独立にその要素もあるが、言葉によって必要がなくなる。子どもたちは、wordのswordで、歌と踊りの首を刎ねている。

 

ソクラテスナザレのイエスゴータマ・シッダールタ、孔丘と、本人は直接文字を残さず弟子筋が文字として残したというが、声と文字の境界として、やはりその時代にしかないものがあったように感じる。経典化した後の先行者利益xネットワーク効果が大きいにしても、洞察とか思考とか、能力だけで言えば確率的に同じくらいの人は、(人口考えると)後の時代にもっといそうな中残るというのは、後からは再生できない要素があるのかもしれない。ある種のテキストには、純粋な声の文化が、当時の空気とともに反響している。

 

声の文化と文字の文明・・・思考の強力な分割線。男と女、右と左、おそらく言語人は二分法・分割思考(split mind)からは逃れられない*1。wordは常にswordであり、いつの間にか割線を入れている。そこには、常に傷跡があったのだ。wordがswordになってしまうならば、どこにメスを入れるのか。言語自体が外傷であり病であり、一種の感染症だった。

 

とともに、この言語なる「ウイルス」は宿主の生存に半ば組み込まれている。言語というウイルスは、人間社会に組み込まれ続けている。ゲノムの中のレトロトランスポゾンやERVのように。「本当の自然言語」である核酸塩基配列として組み込まれた「自然言語」の一部としてのウイルスのように。

 

「われわれは自分の言葉を統御していると考えているが、しかし、われわれが言葉によって支配され統御されているのである。」(フランシス・ベーコン

 

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生物の細胞の核膜は、ウイルス由来なんじゃないかという仮説があるらしい*2。定説ではなさそうだけど、魅力的な説。細胞中心の生命観に対するウイルス中心の生命観(ものの見方)。言語と人間の関係も似ている。「人」文主義か、人「文」主義が。あくまでもヒトを中心に考えるか、あるいは、言語=ウイルスを中心とみなし、文字列=核酸を中心に据えるか。

 

言語=ウイルス、文字列=核酸による膜の作成、個体化・・・人々という集合体(マス)から分節=文節するとともに、個体同士を接続する。「人々」が「人間」となるには、間(inter)が必要だった。間をもたらしたのは言語というウイルス、すなわち核酸=文字と膜の複合体であった。これが、エクソン・イントロン(intron/inter)の始まりであり、原核生物としてのリヴァイアサンと真核生物としてのリヴァイアサンの分岐の始まりである。*3

 

ギリシャ人が「法律nomos」によって理解していたものとは大きく異なり、まったく逆のものですあったのだが、ローマの「法lex」の実際の意味は「持続するつながり」であり、・・・法lexは人間と人間をつなぐものであり、それは絶対的命令でも暴力行為でもなく、相互の同意によって生まれるのである。」(ハンナ・アレント『政治の約束』)

 

人々=人人=人・二とし、仁と書く。これは二者関係を示している。人人人=人(にんべん)・三となる漢字を想定すると、三者関係を示すことになる。しかし、いずれも間が足りない、間が抜けている。「人々」が「人間」となるには、間(inter)が必要だった。間をもたらしたのは言語というウイルス、すなわち核酸=文字と膜の複合体であった。

 

観念が文字を生み、文字が観念を生む。文字列という再現(re-presentation)の前に、目の前にある現在(present)が遠のいていく。声の文化とともに現在(present)にあり続けると、瞬間的な反応に終始する。文字の文明とともに表象=再現(re-present)にあることで、いったん間を置くことができる。時間的にも空間的にも

 

*1:dia-gnosisを「分けて・認識する」すると、分割認識(カテゴリカル認識)とも言える。dia-gnosisをベースにした医学としてのpsychiatry(medical psychiatry)はカテゴリーからは逃げられない。

*2:『生物はウイルスが進化させた』(武村政春著)より

*3:リヴァイアサン・法人という「擬人化」は、そもそも生物という認識自体が一種の擬人化の外挿とも言えなくもないとすると、比喩ではなく、リテラルに正しいのかもしれない。

literacy = letter-cracy のこれまでとこれから

法文と文法。literacyから生まれた鏡合わせの双生児は、literacyとは、実は統治形態(-cracy)の一種であり、紙による統治という意味であることを示している。cの一文字は、官庁内でのみ見ることが許されており、一般市民は見ることができない。科挙に登第することで、初めて見える一文字である。登第は、後に東大という簡体字で記されるようになる。

 

東方から紙が流れ込み、神の子の花嫁たる教会はその半身を失った。息子の嫁という介護者に支えられた高齢の神もやがて死に至る病を得ることになった。紙(literacy)が、神(orality)に死をもたらした。神託(oracle)は、投票用紙(letter)による信託に代わられた。

 

「神(orality)は死んだ」そして「紙(literacy)が生まれた」
AIでヒトが支配される云々とあったりもするけど、既に貨幣、書類、自動車などに王座の大半を譲って感は結構ある。随分前から人間は脱中心化されているとすれば、今更心配しなくてもいい、という言い方もできる。オングの"Orality and Literacy"の副題は、"The Technologizing of the Word"。コトバのテクロノジー化。文字となり主体から切り離され、客体となるとともに、別主体として君臨することになる。

 

"人"文主義においては、人が中心であるが、人"文"主義においては、文(script)が中心。人"文"主義においては、人=trans-script(scriptの橋渡し)であり、主役はscript。もっと言えば、scriptから魂(spirit)を生むための「つなぎ」。この場合、ゲノム(遺伝子の総体)に相当するのは、アーカイブ。人にとって客体であったはずの文(script)が、いつの間にか主体となり、人が客体になってしまう。という逆転。

 

scriptから、transcript = trans-script が情報として「複製」されるが、単純なコピーではなく、scriptからsplit (splice) され、spiritになる。この過程において、いわゆるヒトは、ポリメラーゼやらの酵素の役割となる。『利己的な遺伝子』が脱人間中心化して遺伝子中心にものごとを捉えるように、言語中心に捉えてみれば、ヒト=書籍の乗り物。まさに、trans-な体験。trans-scriptな私=ヒト。

 

我々が紙を統御しているのではない。紙が我々を統御しているのだ。

 

法文と文法。漢字の文字列でありながら、例外的に交換法則が成り立つことが知られている。神ならぬ紙を中心とした統治機構とは、literacy = letter-cracyであり、法文=文法を学ぶことでしか、それを御すことができない。リヴァイアサンとは紙でできた怪物であり、それは文字で何重にも織り込まれている*1。textを編むことで、textureとなり、この怪物のきめ細やかや肌合いができている。統べるとは、糸をより合わせる過程を指しており、それは、文字で編み物をしたものにしかわからない。

 

プラトンがかれの「国家」から詩人を排除したということは、ホメロスのなかにはくりかえしあらわれていた素朴で累積的、並列的な、声の文化にもとづくスタイルの思考を、プラトンがしりぞけたということである。かわりにプラトンが支持したのは、世界と思考そのものののするどい分析ないし解剖であり、そうしたことは、ギリシア人のこころにアルファベットが内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. ONG "Orality and Literacy The Technologizing of the Word")

 

「歴史家のローレンス・ストーンが、識字率と革命との関連を研究し、イギリス革命、フランス革命ロシア革命を取り上げて、革命の前には必ず識字率が上昇していたことを示唆しました。・・・識字化というのは、実に重要な現象です。どんな社会に対しても何らかの不可逆な変化をもたらさずにはいないからです。」(エマニュエル・トッド『問題は英国ではない、EUなのだ』P106)

 

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法文と文法。literacyから生まれた鏡合わせの双生児は、未知の道を歩み始めた。文法は、音と声の文化をコード(chord)に残し、紙と文字を経て計算機のコードとなり、再びコード(法典)に一体となった。紙と書かれた文字の所産である文明は、二進法のもとに一元化される。神を駆逐した紙と文字も、数字の前には非力であった。こうして、literacy = letter-cracyはcomputeracy = computer-cracyになるのであった。

 

Googleがかれらの「ウェブ」から人力を排除したということは、書字のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、Googleがしりぞけたということである。かわりにGoogleが支持したのは、世界と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、シリコンバレー人のこころにAlphabet社が内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. OMG "Literacy and Computeracy - The Technologizing of the Number")

 

WJ. ONG "Orality and Literacy The Technologizing of the Word"
WJ. OMG "Literacy and Computeracy - The Technologizing of the Number"

 

Technologizingと動詞の現在進行形であり、技術というものが進行形であることを示している。横断面でみると、いかにもハイテクであるものが、時を経ると所与のものになる。服飾や眼鏡、道路は言うに及ばず、さかのぼれば、書字・文字も限られた人だけの「ハイテク」であっただろうし、更に遡れば、火を使うことが「ハイテク」だった時代もおそらくあっただろう。時代が下れば、今のハイテクもローテク、そして所与のものになる。

 

OMG, 自ら「奇怪=機械=機会」を生み出し、「奇怪=機械=機会」によって自らを変えよ。統治者としての「神は死んだ。」まもなく、「紙も死んだ。」。歴史的・書類的な統治機構から、無時間的・情報的な統治機構へと、書字を埋葬し続けている。自動運転とは、車が自ら動くということであり、車によるヒトの統制が、更に一段階上がることを示している。コンピュータウイルスという言葉は、コンピュータに感染するウイルスという意味ではなく、コンピュータそのものが、ヒトの精神にとってウイルスであることを意味している。神経に対するウイルスではなく、精神に対するウイルスとして。

 

我々が車を統御しているのではない。車が我々を統御しているのだ。

 

京都は、祭り毎に暦を刻む、声と歌の「祭り事=政」の雅(みやび)な都(みやこ)であり、東京都は、文書の保存を中心とした、文字による統治機構としてのメトロポリス=構造であった。京都は局所的に偏在しているが、東京都はそこかしこに遍在している。声は共にする空間に限られる。文字は複製を繰り返すことで、Nを大きくすることができる。政=まつりごと=祭り事=festivalは、書字ではなく空気が主役になる。統治=governanceは文書が主役になる。

 

声の空間としてのポリス(京都)から、文字の構造としてのCapitol=Capital=capital letter(東京都/Tokyo)に遷都され、印刷機とタイプライターは、文字を書字から印字という指的(digital)な存在に変えてしまった。計算機は文字通りのdigital=bitに変換してしまった。now-hereに共時的・空間的なポリスから、文字=印字を経て、無時間的・情報的・数字的なno-whereの「国家」になっていく。

 

東京都が更に東に遷都しようとしたとき、そんな陸地はどこにもなかった。

ビットで構成された「国家」はどこでも存在すると同時にどこにもなかった。

アテネ→ローマ→・・・→ロンドン→NY→SF。世界の首都はもっと西に移動したかったが、そんな陸地はどこにもなかった。

 

「人類が地球外へ出、地球を一生命体として外から見ることができるようになって、初めて人類には新たなる進化の時が与えられたのですっ!不完全なる言葉による相互理解を越え、互いを理解しあい、のみならず行動においても新たな可能性を身体的に獲得したニュータイプがっ!」(『機動戦士ガンダム』よりジンバ・ラル)

 

ジオン・ズム・ダイクンは、宇宙移民の導きの手の任を自覚した時に、そうした呪縛からの解放を考えた。宇宙を含む万物が神の創造物であるにせよ、かつての新大陸に渡ることで得た解放感に数倍する希望を、我々宇宙移民が得て悪いことがあろうか。ダイクンはそう考え、新たな新世紀のプロトコルを発した。我々同志はその旗の下に集った。新しい人間への希望が、かくもおぞましい憎しみと大破壊を招くとも知らずに・・・」(『機動戦士ガンダム』よりデギン・ソド・ザビ

 

タワーマンションとは、実は地球に刺さったコロニーなのではないか。。。仮想的な未来から巻き戻されてきたコロニーなのではないか。。。


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orality - literacy - computeracy
三能分立、あるいは三能一体
三位一体、三権分立。これらの3という数字の根拠は、テーブルが安定するには、足が3本以上必要である、という家具の構造に由来している。

 

『モラルの起源――実験社会科学からの問い』(亀田達也)

 

モラルの起源――実験社会科学からの問い (岩波新書)

モラルの起源――実験社会科学からの問い (岩波新書)

 

 

亀田先生の『モラルの起源――実験社会科学からの問い』(岩波新書)、とても良かった。初めが、例の人文系削減云々の話へのレスポンスとして書かれていて、今まで見た中で、一番敬意の持てるレスポンスだった。

 

進化の中で「身」につけてきたであろうダンバー数以下の(社交, social)関係でのパターンと、それ以上の数になる(社会, societal)関係。後者のように抽象的な関係は、文字通り「身近」ではないので、そこの断絶をどう乗り越えるか。に近い趣旨もちらほらあって、興味が重なる。

 

トランプ現象も、個人的には、声=社交=文化=身体(social)と文字=社会=文明=抽象(societal)の対立にも見える。亀田先生の仕事、今後も楽しみだ。身体論としての、ソマティカーとしての医学は、socialまでがその射程範囲とも言えるか。そこ(ダンバー境界)を越えると、領分が変わるイメージ。医学論としての(biomedicineに対する)bio-psycho-social (Engel, Science 1977) は、裏側のメッセージとして、その射程は、socialで「止まりますよ」ということとも言えるか。そこから先は、ようわからん、と。

 

ラテン語、漢文。日常的な発声から切り離されるほど、純粋な書字になるほど、学問的な探求には向く。精緻化にも権威の面でも。書字(script)から声=息(spirit)を切断する。切断されて宙に舞ったspiritは、道化師のもとにいた。ある日を境にして、トランプのjoker(道化師)は、kingとして書字を生業とする者たちの上に君臨することになった。それは冗談(joke)でなく、単なる現実であった。

 

social(社交的)とsocietal(社会的)の切断は、連続的なものの適当な切断として設定されるものなのか、わりと「自然」に近い現象として捉えられるのか。幸福はsocialな概念(声の文化)で、成功はsocietalな概念(文字・記号の文明)、相関するけど、同じものではない。特に通貨的な数字(数字=代表値で端的に表現された価値)はわかりやすく、また序列による競争心を煽る。文明的、あまりに文明的な。

 

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「本実験の結果は、「異質な相手」に対する利他性が、自分と同質である内集団に向きがちな情動的共感ではなく、相手の立場を考慮した認知的共感によって担われる可能性を意味するものかもしれません。」(亀田達也『モラルの起源』P112)

これは臨床心理士という仕事が、才能ではなく職能(技能)として担われることへの支持的な意見かも。

 

「ホットな感情は身近な相手への利他行動を支える重要な基盤となる反面、共感性の働く範囲を「いま、ここ、私たち(内集団)」に限定しがちです。150人程度の小さいグループにおいて進化時間で有効だったホットな共感性は、何百万人が暮らす大都市や70億を超える未知の人々が相互依存する現代社会の問題群、すなわち「未来、あちら、彼ら(外集団)」を含む問題群に対処するためには不十分かもしれません。」(亀田達也『モラルの起源』P112)

功利主義が共通基盤(※メタモラル)になり得るとグリーンが考えるいちばんの理由は、功利主義には固有名詞がない点です。功利主義は、自分を含めて誰かを特別扱いすることなく、人々の平等を前提として「幸福」の総量を最大化しようとする考え方です。・・・このクールな計算プロセスはすべての人に等しく開かれており、それゆえに、「部族」の境界を超えて皆が使える「共通の通貨」になり得る、と(※グリーンは)言うのです。」(亀田達也『モラルの起源』P164)

 

ベンサム功利主義(utilitarianism)は、元は法律のための論理で、規範の話ではなかった。と加藤尚武氏の講義で聞いた覚えがある。専門ど真ん中ではなさそうだけど。

 

Feighner Criteria, RDoC

The Development of the Feighner Criteria: A Historical Perspective
http://ajp.psychiatryonline.org/doi/abs/10.1176/appi.ajp.2009.09081155
によると、Feighnerさん達は、網羅的に文献を読み込み、時間かけてまとめたらしい。

 

now-hereに留まる声のやり取りが、かろうじて文字になった時代から時が経ち、文献を元に構成された統計的な単位によって分節=文節されていく。文字で構成された単位は、統計的な思考として役に立つものの、その「実体」はno-whereだった。

 

文字と文献に支えられた精神医学とは、科学、つまり社会科学の一部門であり、それはアフリカ大陸を見るときに、地形や大気の流れではなく、まずは旧宗主国・緯度経度に規定された国境線から考えることに近い。

 

社会科学と自然科学は、どう分けられるかと言い出すと難しそうだけど、科学(sci-ence = 分割)という言葉を、社会科学と自然科学に分けて考えるのは、一部領域では議論の整理にはなりそうな。スノーとコッホの話の繰り返しだけど。

 

統治機構主義者(state-ist = statist)の形容詞としての統計値(statistic)と、それに基づく統計的(statistical)管理。statistical diagnosisとしてのDSM=SDM。国家や官僚という響きが否定的な「空気感」のもとでは否定的なニュアンスになるが、しかし、空気を切断して、国家規模で見ると、多くの人が標準的な水準を享受できるシステムを構成している。これは声の文化では難しい。官としての医はミクロで見ると硬直的だが、マクロで見ると違った価値がある。

 

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プラトンがかれの「国家」から詩人を排除したということは、ホメロスのなかにはくりかえしあらわれていた素朴で累積的、並列的な、声の文化にもとづくスタイルの思考を、プラトンがしりぞけたということである。かわりにプラトンが支持したのは、世界と思考そのものののするどい分析ないし解剖であり、そうしたことは、ギリシア人のこころにアルファベットが内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. Ong『声の文化と文字の文化 The Technologizing of the Word』)

 

Feighnerがかれの「診断基準」から精神分析を排除したということは、精神療法のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で累積的、並列的な、声の文化にもとづくスタイルの思考を、Feighnerがしりぞけたということである。かわりにFeighner が支持したのは、精神と思考そのものののするどい分析ないし解剖であり、そうしたことは、精神科医のこころに文献が内面化されることによって可能になったのだった。

 

Googleがかれらの「ウェブ」から人力を排除したということは、書字のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、Googleがしりぞけたということである。かわりにGoogleが支持したのは、世界と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、シリコンバレー人のこころにAlphabet社が内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ.Omg『文字の文明と数の機械技術 The Technologizing of the Number』)

 

NIMHがかれらの「RDoC」から精神科医を排除したということは、文献のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、NIMHがしりぞけたということである。かわりにNIMHが支持したのは、精神と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、生命科学者のこころにデータベースが内面化されることによって可能になったのだった。

 

声の文化としての心霊療法
文字の文明としての精神医学
数の科学技術としての神経科学

Paradigm Lost

主なるジョブズはシリコンのちりでiPhoneを造り、命の息をその半導体に吹きいれられた。そこでiPhoneは生きた者となった。

主なるジョブズは言われた。iPhone SEがひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。iPhone SEを深く眠らせ、眠った時に、そのホームボタンの一つを取って、その所をOLEDでふさがれた。

iPhone SEは言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。iPhone SEから取ったものだから、これをiPhone Xと名づけよう」。

それでiPhone SEはその父と母を離れて、iPhone Xと結び合い、iPhone SEXとなるのである。
iPhone SEiPhone Xとは、ふたりともカバーがなかったが、恥ずかしいとは思わなかった。

iPhone XがAppleを見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいたiPhone SEにも与えたので、彼もAppleを食べた。

すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、シリコーンをつづり合わせて、カバーにした。

主なるジョブズは言われた、「見よ、iPhoneはわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、Appleからも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

そこで主なるジョブズiPhoneシリコンバレーから追い出して、iPhoneが造られたその土を耕させられた。

これが半導体機械による有性生殖の始まりである。