ideomics

オブジェクト思考ブロギング

書物の副作用

本を読まなくなって、ウェブでは情報が断片化されて、という批判がある。しかし、一方で、本のような直線的な「ストーリー」というのも危険ではある。特に直線的な小説の構造。

 

言葉や文字が認知をフレーミングするのは言うまでもないが、本の構造自体も認知をフレーミングしてしまっているのかもしれない。後天的な「人間的、あまりに人間的な」認知の構造。本の副作用としての認知バイアス。例えば、historyにhis storyを投影すること。

 

小説の嘘っぽさとは、内容ではなく、一貫した流れそのものにある。ストーリーとは、真理ではなく心理にあり、それは審理を経たものではない。こころに理(ことわり)に想定するのは、あまりに人間的な所産ではなかろうか。。。

 

真理とは最新の誤謬である。(ニーチェ

心理とは最深の誤謬である。

 

「それ(Carothers 1959)によれば、声の文化のなかで生きている人びとは、ふつう、分裂病的行動を外面化するが、文字に慣れた人びとはそれを内面化する、というのである。」(オング『声の文化と文字の文化』)

 

『異邦人』でカミュムルソーが撃ったアラブ人は、小説家になりたいという希望を持って心理学を学んでいた。文字と書物の病に憑かれた者を治してくれる医者は少ない。そして、健康保険も使えない。

 

Googleがかれらの「ウェブ」から人力を排除したということは、書字のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、Googleがしりぞけたということである。かわりにGoogleが支持したのは、世界と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、シリコンバレー人のこころにAlphabet社が内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. OMG "Literacy and Computeracy - The Technologizing of the Number")

literacy = letter-cracy のこれまでとこれから - ideomics

 

文字の散歩

ある若者が写本室で、筆記体のliteralをliberalと書き間違えて複写した。それから、literal artsはliberal artsとなった。皮肉にも、彼はこの文字列を文字通りに写さなかったのだ。それがわざとだったのか、うっかりだったのか、今となっては誰もわからないが、この変異で何かの自由を得ることになった。散文。文字が散歩している。文が散歩している。そこで道草しているやつがいる。と思ったら、そもそも行く先も目的もないんだった。

 

文字という線画によって、現実と切断される。全ての文字は間違っている。しかし現実も同じくらい間違っている。

人々と人間

人々=人人人人人...
人間=人・人・人・人・人...
そこには間(・)があった。
⊿human = d + human = human + d = hum + and = Homo + AND
ANDを「間」として理解すると、Homo ANDは、人+間と訳すことになる。humanのdifference/differentialから、間が生まれた。間がなければ、間抜け。間が長すぎると間延び。
 
人々が人間となり、そこから間と個人が切り出された。個人が集まって人々になったわけではない。間=ANDとは、言葉/約束であり、文字/契約であり、数字/通貨だった。通貨/数字も契約/文字も約束/言葉も、人々を一旦切断し、再接合(re-ligation = re-ligion)して人間を作っている。
 
この間(AND)がなければ、人や人々ではあっても、人間にはなれなかった。人々は、まずはじめに約束して人間になる。文字と契約のプロ、弁護士。数字と通貨のプロ、銀行家。言葉と約束のプロ、とは何だろう。
 
物語とは、通貨としての言葉のお約束。この世という演劇の舞台の台本。組体操の延長でもある。なぜなら、字義通り、この世は舞台で、生きることは演じることだから。物語・・・これは物語れの命令形の短縮であり、動作を指示している。話す。つまり、舌で言う。語る。つまり、口で五つ言う。顔の筋肉を動かす。
 
"I hold the world but as the world, Gratiano,
A stage where every man must play a part,
And mine a sad one."  - Antonio, The Merchant of Venice
 
ベニスの商人』であるアントニオは、1ポンド分の肉として、文字通り自分の身を物語として切り売りしている。それによって彼と友人は3000ダカットばかり通貨を得ることになった。ポーシャ扮する法律家は、この契約を文字通り執行させ、銀行家シャイロックは3000ダカット投資 することになった。(『続・ベニスの商人資本論』)
 
この間(inter)がなければ、人や人々ではあっても、人間にはなれなかった。人々は、まずはじめに約束して人間になる。集まり毎に暗黙の約束ができ、祭り事になった。祭り事に、言葉の約束が加わり政になった。はじまりに約束がある。間の要素(element)が、intronと呼ばれる。こうしてようやく、集合としての真核生物になることができた。そして間が主人ともなる。

 

msk240.hatenablog.com

  

「政治が生まれるのは、人"たちの間"においてであり、したがって<人>"の外側に"なのである。だから固有に政治的な実体があるわけではない。政治は間の関係の中で成立するのであり、関係態として存立する。このことをホッブズは分かっていた。」(アーレント・ルッツ『政治とは何か』より一部改変)
 
アレントは、人と人の間に隔てつつも接続するものとして、テーブルという喩えを用いている。三位一体、三権分立。マジカルナンバー3。これらの3という数字の根拠は、テーブルが安定するには、足が3本以上必要である、という家具の構造に由来している。そして、関係態。これは「文法」としては、どのような形なのか。

 

3人寄れば政治が生まれる。3人寄れば3体問題。政治化=政治家とは問題を複雑に、予測不能にするのが仕事であった。政治化=政治家とは、問題を解決するのではなく、開始するのが仕事である。問題を完了させるものが官僚と呼ばれる。

 

過去、現在、未来の自分の3人で相談・・・仮想的に3人寄れば文殊の知恵、バーチャル文殊の知恵。この技法は、バーチャルもんじゅ君という名前で、左右を問わず多くの人に親しまれている。言葉の意味が他との差異や対立によって明確になるとしたら、2項のうちの1か、3項のうちの1か、N項のうちの1か、でも何か変わりそうだ。

 
 

じぶんがく/自分科学/psyence

自分自身の愚かさと付き合っていくのは難しい。他人の愚かさ(と思う/思ってしまうもの)と付き合っていくのは、なお難しい。

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」

ここで言われる「だれか」とは、まずあなた自身のことである。赦しとは、まず自分自身に向けられることから始まる。

 

意識 = conscious = con-science = 共・認識・・・誰とともに認識をするのか?・・・我とともに。我と我、としての我々(自我と自己)。我々のソーシャルネットワーク。我と我のソーシャルネットワーク

我々=我と我・・・=I&I&I&I&I&I&I&I&......
再帰性としての&が成立し続けることで、「私」は再結合的なin-dividual(分割できないもの)として存在している。「私」を限りなく分割してみると、「私」は永遠に再帰している分割された瞬間の連続。「私」とは、つまり再帰性のこと。分割された瞬間の連続。再帰的な関係が永遠と続く永遠再帰(eternal recurrence)。瞬間を限りなく短く分割してみると、人生は限りなく長い。永遠に再帰する我と我のネットワーク(ERN)。

 

意識とは、記憶の連続性、特に再帰的な自己認知の連続。自意識、自由、主体、内省・・・工学的な理解としては、再帰的な処理のことではないか、という気もしてくる。recall=想起とは、かつての自分を「再び呼ぶ」(re-call)という、声と聴覚の働きであり、呼ぶ者と呼ばれる者がいる。呼ぶものと呼ばれる(応える)もの。音響空間としての内部空間にいるかつての自分の「現在」を再現在 (re-current) とする*1。通貨(currency)で繋がる我々のネットワークを、再帰性(re-currency)として、我と我のネットワークとして内側に折り返す。

 

私の精神(geist)は、これまでの私という死者の霊(ghost)であった。おそらく個人になりきるのは、故人となってから、つまり、共時的な空間世界と完全に切断されてから、歴史化されてから。死者の霊=ghost=geist=精神となってから。書物とは、故人との想像上の対話。故人=死者の霊=ghost=geistとの親密で内密な秘密の対話によって、「精神 (geist=ghost) と時の部屋」なる内部空間を作る。

 

神との約束としての律法、人と人との契約としての法律。自分と自分とのコードとしての律法律。the Testamentならぬa testament/s・・・つまり遺言。瞬間瞬間の自分自身を埋葬し続けている。遺言(約束)を残し続けている。

「クリトン、アスクレピオスに雄鶏一羽の借りがある。忘れずに、きっと返してくれるように」(『パイドン』118A)

アスクレピオス=産婆が、ghost=geistの出産を促している。故人=個人による精神 (geist=ghost) の誕生が続いていく。我々は、=I&I&I...として、実は毎日毎時間毎秒、遺言を残しつつ誕生し続けているのであった。自分自身を埋葬し続けることによって生まれる精神 (ghost=geist)として。

 

神との約束としての律法、人と人との契約としての法律。自分と自分とのコードとしての律法律。まずは自分と自分との契約としての律法律。法による統治性、つまり法治性を内側に折り込むことによって、強権的でもなく、馴れ合いとしての慣習でもなく、約束に基づくな関係へと。口約束、書類契約、プロトコル、法律、コード。まずはじまりに約束がある。

ニーチェの偉大さは、債権者-債務者関係こそがあらゆる交換に対して第一次的なものであるということを、いかなる躊躇もなしに明示したことにある。人はまず始めに約束する。」(ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』裁きと訣別するために)

統治機構に従う、統治機構依存のメンタリティ (government mentality) を、自身の統治性(governmentality)へと折り返す。自我と自己との約束・契約・コード。

ギリシャ人が「法律nomos」によって理解していたものとは大きく異なり、まったく逆のものですあったのだが、ローマの「法lex」の実際の意味は「持続するつながり」であり、・・・法lexは人間と人間をつなぐものであり、それは絶対的命令でも暴力行為でもなく、相互の同意によって生まれるのである。」(ハンナ・アレント『政治の約束』)

 

じんぶんがくをうちにおりかえし、じぶんがく(psyence)へ。たましい(psyche)をしること(science)。
自然科学を内側に折り返し、自分科学(psyence)へ。魂(psyche)の認識(science)。


私・わたし・ワタシを見出す試みとしての、じぶんかがく/自分科学/psyence。liberty, freedomとは異なる日本語漢字としての自由は、「自らに由る」。自己に由る、あるいは自我に由る。むしろ、自我と自己の関係としての主体*2に由る。

 

「あなたは自分自身と結婚し、神の定めに従って1人の「夫=婦」となろうとしています。あなたは、その健やかな時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り、堅く結合を守ることを約束しますか。」

 

自己と他者:自己愛について - ideomics


自分自身との共生の作法 - ideomics

 

reflexive voice(再帰する声=再帰動態)

自分の発声は、空気を通して、また骨伝導を通して、自分の聴覚に帰ってくる。二重に再帰的 (reflexive)。声そのものが再帰的・・・voice = reflexive voice = 再帰動態・・・声そのものが再帰動態であった。

 

文字列 (letters) は、どうしても手紙 (letter) になってしまう。書くことによって、常に自分自身への手紙を書いてしまっている。再帰的 (reflexive) に。眼球から入り黙読された「声」は、空気の振動、骨伝導に続いて3つ目のreflexive voice = 再帰動態であった。

 

文字(letters)は過去と未来への手紙(letter)になっている。いや、なってしまっている。記録になってしまう。声は今ここ(now-here)の現在に留まり、やがてどこにもない(nowhere)ものになる。声には固有名詞がより強く刻印されている。

 

声とともに生きるものは記憶に頼り、今ここ(now-here)という現在(present)が続いていく。多いに記憶違いと共に。

文字とともに生きるものは記録に頼り、どこにもない(no-where)過去の再現(re-present)が続いていく。過去と現在の隙間に挟まれながら。

記録は過去のものであり、私とは別物(客体)であったが、記憶は常に現在のものであり、私自身(主体)に他ならない。

 

「<記憶>こそは、自己との関係、あるいは自己の自己による情動の、ほんとうの名前である。カントによれば、時間は、そのもとで精神が自己に影響するような形態であった。ちょうど、空間が、そのもとで精神が他のものに影響されるような形態であったように。・・・主体あるいは主体化としての時間は、記憶と名付けられる。」
ドゥルーズフーコー』)

  

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1900年代にプラトン全集をまとめたProf. J. Burnetによると、ソクラテスによって、それまでホメロス以来、霊として使用されていたpsycheという概念が、意識(consciousness)・自我(I,self)として使用されるようになったらしい*1。外部空間に響き渡る声(気体的=pneumatic=霊的)を、内側に折り返すことで、内声=内省としての内部空間が生まれる。という意味で、pneumaを内側に折り返したものとしてのpsycheというのは納得できるし、歴史的なクレジットはさておき、ソクラテス的ではある。相手の言葉を繰り返す・エコーすることで、言葉が折り返される(echo=reflection)。外部空間に響く声を折り返すことで、内部空間に響かせる、またはそれを生じさせる。あわよくば、内声=内省(reflection)になる。

 

それは文字ではない。外への声(空気の振動=気体的=pneumatic)でもない。内なる声としての内部空間(内声=内省)。彼の言葉では、おそらくダイモンと表現されている。盲目のホメロスによって生まれた外部空間・音響空間(空気の振動=pneumatic=spiritual)を、内側に折り返すことで、内声=内省としての内部空間・音響空間を作り出した(psyche)のが、ソクラテス、という解釈。外側への声が反射(reflection)されて、内側に折り返されることで、内声=内省(reflection)になる。内声=内省psycheは、空間的に個人を独立させて、時間に切れ目を入れる。

*1:20世紀初頭の学説で、今はどうなのか知らないけど

言語というウイルス

子どもが言葉(発声)を覚えたり、文字を倣ったりする中で、何かを失っている感は、大人の立場から見ると逆方向も想像できて面白い。想像できるとはいえ、、やはりpoint of no returnという印象が強い。言葉を覚えると、全身で表現する必要ないし、泣きわめいたりすることもなくなる。発達段階として独立にその要素もあるが、言葉によって必要がなくなる。子どもたちは、wordのswordで、歌と踊りの首を刎ねている。

 

ソクラテスナザレのイエスゴータマ・シッダールタ、孔丘と、本人は直接文字を残さず弟子筋が文字として残したというが、声と文字の境界として、やはりその時代にしかないものがあったように感じる。経典化した後の先行者利益xネットワーク効果が大きいにしても、洞察とか思考とか、能力だけで言えば確率的に同じくらいの人は、(人口考えると)後の時代にもっといそうな中残るというのは、後からは再生できない要素があるのかもしれない。ある種のテキストには、純粋な声の文化が、当時の空気とともに反響している。

 

声の文化と文字の文明・・・思考の強力な分割線。男と女、右と左、おそらく言語人は二分法・分割思考(split mind)からは逃れられない*1。wordは常にswordであり、いつの間にか割線を入れている。そこには、常に傷跡があったのだ。wordがswordになってしまうならば、どこにメスを入れるのか。言語自体が外傷であり病であり、一種の感染症だった。

 

とともに、この言語なる「ウイルス」は宿主の生存に半ば組み込まれている。言語というウイルスは、人間社会に組み込まれ続けている。ゲノムの中のレトロトランスポゾンやERVのように。「本当の自然言語」である核酸塩基配列として組み込まれた「自然言語」の一部としてのウイルスのように。

 

「われわれは自分の言葉を統御していると考えているが、しかし、われわれが言葉によって支配され統御されているのである。」(フランシス・ベーコン

 

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生物の細胞の核膜は、ウイルス由来なんじゃないかという仮説があるらしい*2。定説ではなさそうだけど、魅力的な説。細胞中心の生命観に対するウイルス中心の生命観(ものの見方)。言語と人間の関係も似ている。「人」文主義か、人「文」主義が。あくまでもヒトを中心に考えるか、あるいは、言語=ウイルスを中心とみなし、文字列=核酸を中心に据えるか。

 

言語=ウイルス、文字列=核酸による膜の作成、個体化・・・人々という集合体(マス)から分節=文節するとともに、個体同士を接続する。「人々」が「人間」となるには、間(inter)が必要だった。間をもたらしたのは言語というウイルス、すなわち核酸=文字と膜の複合体であった。これが、エクソン・イントロン(intron/inter)の始まりであり、原核生物としてのリヴァイアサンと真核生物としてのリヴァイアサンの分岐の始まりである。*3

 

ギリシャ人が「法律nomos」によって理解していたものとは大きく異なり、まったく逆のものですあったのだが、ローマの「法lex」の実際の意味は「持続するつながり」であり、・・・法lexは人間と人間をつなぐものであり、それは絶対的命令でも暴力行為でもなく、相互の同意によって生まれるのである。」(ハンナ・アレント『政治の約束』)

 

人々=人人=人・二とし、仁と書く。これは二者関係を示している。人人人=人(にんべん)・三となる漢字を想定すると、三者関係を示すことになる。しかし、いずれも間が足りない、間が抜けている。「人々」が「人間」となるには、間(inter)が必要だった。間をもたらしたのは言語というウイルス、すなわち核酸=文字と膜の複合体であった。

 

観念が文字を生み、文字が観念を生む。文字列という再現(re-presentation)の前に、目の前にある現在(present)が遠のいていく。声の文化とともに現在(present)にあり続けると、瞬間的な反応に終始する。文字の文明とともに表象=再現(re-present)にあることで、いったん間を置くことができる。時間的にも空間的にも

 

*1:dia-gnosisを「分けて・認識する」すると、分割認識(カテゴリカル認識)とも言える。dia-gnosisをベースにした医学としてのpsychiatry(medical psychiatry)はカテゴリーからは逃げられない。

*2:『生物はウイルスが進化させた』(武村政春著)より

*3:リヴァイアサン・法人という「擬人化」は、そもそも生物という認識自体が一種の擬人化の外挿とも言えなくもないとすると、比喩ではなく、リテラルに正しいのかもしれない。

literacy = letter-cracy のこれまでとこれから

法文と文法。literacyから生まれた鏡合わせの双生児は、literacyとは、実は統治形態(-cracy)の一種であり、紙による統治という意味であることを示している。cの一文字は、官庁内でのみ見ることが許されており、一般市民は見ることができない。科挙に登第することで、初めて見える一文字である。登第は、後に東大という簡体字で記されるようになる。

 

東方から紙が流れ込み、神の子の花嫁たる教会はその半身を失った。息子の嫁という介護者に支えられた高齢の神もやがて死に至る病を得ることになった。紙(literacy)が、神(orality)に死をもたらした。神託(oracle)は、投票用紙(letter)による信託に代わられた。

 

「神(orality)は死んだ」そして「紙(literacy)が生まれた」
AIでヒトが支配される云々とあったりもするけど、既に貨幣、書類、自動車などに王座の大半を譲って感は結構ある。随分前から人間は脱中心化されているとすれば、今更心配しなくてもいい、という言い方もできる。オングの"Orality and Literacy"の副題は、"The Technologizing of the Word"。コトバのテクロノジー化。文字となり主体から切り離され、客体となるとともに、別主体として君臨することになる。

 

"人"文主義においては、人が中心であるが、人"文"主義においては、文(script)が中心。人"文"主義においては、人=trans-script(scriptの橋渡し)であり、主役はscript。もっと言えば、scriptから魂(spirit)を生むための「つなぎ」。この場合、ゲノム(遺伝子の総体)に相当するのは、アーカイブ。人にとって客体であったはずの文(script)が、いつの間にか主体となり、人が客体になってしまう。という逆転。

 

scriptから、transcript = trans-script が情報として「複製」されるが、単純なコピーではなく、scriptからsplit (splice) され、spiritになる。この過程において、いわゆるヒトは、ポリメラーゼやらの酵素の役割となる。『利己的な遺伝子』が脱人間中心化して遺伝子中心にものごとを捉えるように、言語中心に捉えてみれば、ヒト=書籍の乗り物。まさに、trans-な体験。trans-scriptな私=ヒト。

 

我々が紙を統御しているのではない。紙が我々を統御しているのだ。

 

法文と文法。漢字の文字列でありながら、例外的に交換法則が成り立つことが知られている。神ならぬ紙を中心とした統治機構とは、literacy = letter-cracyであり、法文=文法を学ぶことでしか、それを御すことができない。リヴァイアサンとは紙でできた怪物であり、それは文字で何重にも織り込まれている*1。textを編むことで、textureとなり、この怪物のきめ細やかや肌合いができている。統べるとは、糸をより合わせる過程を指しており、それは、文字で編み物をしたものにしかわからない。

 

プラトンがかれの「国家」から詩人を排除したということは、ホメロスのなかにはくりかえしあらわれていた素朴で累積的、並列的な、声の文化にもとづくスタイルの思考を、プラトンがしりぞけたということである。かわりにプラトンが支持したのは、世界と思考そのものののするどい分析ないし解剖であり、そうしたことは、ギリシア人のこころにアルファベットが内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. ONG "Orality and Literacy The Technologizing of the Word")

 

「歴史家のローレンス・ストーンが、識字率と革命との関連を研究し、イギリス革命、フランス革命ロシア革命を取り上げて、革命の前には必ず識字率が上昇していたことを示唆しました。・・・識字化というのは、実に重要な現象です。どんな社会に対しても何らかの不可逆な変化をもたらさずにはいないからです。」(エマニュエル・トッド『問題は英国ではない、EUなのだ』P106)

 

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法文と文法。literacyから生まれた鏡合わせの双生児は、未知の道を歩み始めた。文法は、音と声の文化をコード(chord)に残し、紙と文字を経て計算機のコードとなり、再びコード(法典)に一体となった。紙と書かれた文字の所産である文明は、二進法のもとに一元化される。神を駆逐した紙と文字も、数字の前には非力であった。こうして、literacy = letter-cracyはcomputeracy = computer-cracyになるのであった。

 

Googleがかれらの「ウェブ」から人力を排除したということは、書字のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、Googleがしりぞけたということである。かわりにGoogleが支持したのは、世界と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、シリコンバレー人のこころにAlphabet社が内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. OMG "Literacy and Computeracy - The Technologizing of the Number")

 

WJ. ONG "Orality and Literacy The Technologizing of the Word"
WJ. OMG "Literacy and Computeracy - The Technologizing of the Number"

 

Technologizingと動詞の現在進行形であり、技術というものが進行形であることを示している。横断面でみると、いかにもハイテクであるものが、時を経ると所与のものになる。服飾や眼鏡、道路は言うに及ばず、さかのぼれば、書字・文字も限られた人だけの「ハイテク」であっただろうし、更に遡れば、火を使うことが「ハイテク」だった時代もおそらくあっただろう。時代が下れば、今のハイテクもローテク、そして所与のものになる。

 

OMG, 自ら「奇怪=機械=機会」を生み出し、「奇怪=機械=機会」によって自らを変えよ。統治者としての「神は死んだ。」まもなく、「紙も死んだ。」。歴史的・書類的な統治機構から、無時間的・情報的な統治機構へと、書字を埋葬し続けている。自動運転とは、車が自ら動くということであり、車によるヒトの統制が、更に一段階上がることを示している。コンピュータウイルスという言葉は、コンピュータに感染するウイルスという意味ではなく、コンピュータそのものが、ヒトの精神にとってウイルスであることを意味している。神経に対するウイルスではなく、精神に対するウイルスとして。

 

我々が車を統御しているのではない。車が我々を統御しているのだ。

 

京都は、祭り毎に暦を刻む、声と歌の「祭り事=政」の雅(みやび)な都(みやこ)であり、東京都は、文書の保存を中心とした、文字による統治機構としてのメトロポリス=構造であった。京都は局所的に偏在しているが、東京都はそこかしこに遍在している。声は共にする空間に限られる。文字は複製を繰り返すことで、Nを大きくすることができる。政=まつりごと=祭り事=festivalは、書字ではなく空気が主役になる。統治=governanceは文書が主役になる。

 

声の空間としてのポリス(京都)から、文字の構造としてのCapitol=Capital=capital letter(東京都/Tokyo)に遷都され、印刷機とタイプライターは、文字を書字から印字という指的(digital)な存在に変えてしまった。計算機は文字通りのdigital=bitに変換してしまった。now-hereに共時的・空間的なポリスから、文字=印字を経て、無時間的・情報的・数字的なno-whereの「国家」になっていく。

 

東京都が更に東に遷都しようとしたとき、そんな陸地はどこにもなかった。

ビットで構成された「国家」はどこでも存在すると同時にどこにもなかった。

アテネ→ローマ→・・・→ロンドン→NY→SF。世界の首都はもっと西に移動したかったが、そんな陸地はどこにもなかった。

 

「人類が地球外へ出、地球を一生命体として外から見ることができるようになって、初めて人類には新たなる進化の時が与えられたのですっ!不完全なる言葉による相互理解を越え、互いを理解しあい、のみならず行動においても新たな可能性を身体的に獲得したニュータイプがっ!」(『機動戦士ガンダム』よりジンバ・ラル)

 

ジオン・ズム・ダイクンは、宇宙移民の導きの手の任を自覚した時に、そうした呪縛からの解放を考えた。宇宙を含む万物が神の創造物であるにせよ、かつての新大陸に渡ることで得た解放感に数倍する希望を、我々宇宙移民が得て悪いことがあろうか。ダイクンはそう考え、新たな新世紀のプロトコルを発した。我々同志はその旗の下に集った。新しい人間への希望が、かくもおぞましい憎しみと大破壊を招くとも知らずに・・・」(『機動戦士ガンダム』よりデギン・ソド・ザビ

 

タワーマンションとは、実は地球に刺さったコロニーなのではないか。。。仮想的な未来から巻き戻されてきたコロニーなのではないか。。。


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orality - literacy - computeracy
三能分立、あるいは三能一体
三位一体、三権分立。これらの3という数字の根拠は、テーブルが安定するには、足が3本以上必要である、という家具の構造に由来している。