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オブジェクト思考ブロギング

自分の声を見つけなければならない

 

カズオ・イシグロが、「作家は自分の声voiceを見つけなければならない」とどこかで書いていたのは、文体というと陳腐だからお洒落に言ってみただけかと思っていたが、文字通りの「声voice」なのだろうと最近思うようになった。

 

物語と小説。前者は「語る」ものなので、基本的に声になる。「語り」であれば、独語でもない限りだいたい相手がいて、大なり小なり対話的になる。書字にする過程は孤独であるけれど、その孤独さにかまけて自己完結してしまうと、物「語り」にはならないから、常に発声するように、声を出していかないといけないということか。

 

話し言葉と書き言葉 - ideomics

 

「声」のある文章やちょっとした言葉を「読む」と、「聞いた」ような感覚が生じる。和歌によって恋愛的な関わりができていた時代があるというのもわかるような気もする。和歌とか、声voiceの特徴的な形としての唄なり歌が、書字化したものだし。チャット的、対話的。ゆえに、相手がすぐそこにいるように感じられる。

 

文を読みながら、それが声として、まるでその人が隣にいて息づかいと体温付でしゃべっているような実体まで感じられたら。まるで『ゴースト/ニューヨークの幻』のように。あるいは、書き手のファントムが立ち上がるような。書き手と話をしている(共にいる)ように感じられる。「共にある」ことを仮想的に実現できる。という意味で、「幽霊がいる」という状態は、感覚的なリアリティとしてはありだし、むしろ目指すべきかもしれない。「声」を通したファントム発生装置としてのエクリチュール、あるいは、自分自身を複製可能にすること*1

 

あるいは、書字=外発的、声=内発的という考え方もできるかもしれない。書字ベースに勉強していくのは価値のあることだが、デジタル性が高く標準化された書字をベースに考えると、どうしても外発的かつ表面的なコピペのようにも思えてしまう。身体から発せられる声がないというのは、おそらく内発的な意志や広大な無意識の領域が生かし切れていないことではないだろうか、と。声は書字よりも複製しにくいという意味で、自分の中心に近い。

 

子供が外で多いに唄いながら歩くのだけど、仮に日常的に唄うことが幼少期のデフォルトだとすると、それがいつからか閉鎖されることで、マインドセットやメンタルに影響があるんだろうか、と時々気になる。声には、(書字にはない)音感があるという意味で、大なり小なり唄の要素があるとすると、唄わなくなることが、声=自分の内発性の消失に繋がるような気もしなくもない*2

 

標準語という書き言葉ベースの人工言語で生育した身からすると、話し言葉性の高く音感のある自然言語としての関西弁が羨ましくなることがある。ベッドタウンで標準語とともに育った自分には、良くも悪くも、音感のある土着の声voiceがない。

 

声によって物語ること。声を失った/声を持っていない人間が、声を取り戻す/手に入れる。子供に物語りを読み聞かせる。自分自身の声を引き出すとはどういうことか。あるいは、他者の声を引き出すとは。物語の産婆術。

*1:[という意味では、AIってのは、文学の次の形なのかも。Web葬 - one world cemetery - ideomics

*2:古代復興よろしく、幼児期をひとつの理想と捉えて、その「復興renaissance」を考えるのは、ひとつのアプローチかも。『失われた唄を求めて』みたいな。集団・土地に対して歴史家であるように、個人に対して歴史家であるとはどういうことか。他にも、子どもが言葉を覚えてきて、こちらも色々な物の名前(「くつ」とか)を教えたりするけど、一種の罪悪感がある。というのも、子どもがしげしげと葉を眺めて遊んでるのに、「葉」などと言葉=バッファーをはさむのは何か邪魔してる気がするから。実際、物の認識が言葉だけになると、一瞬見て「あぁ葉ね」って、ほとんど何も見なくなる作用もある。病気の"診断"や、生物の現象の観察もそうだけど、フレームワークは時間を節約してくれる代わりに、やっぱりガラス板のように邪魔ではある。何も言わずしばらく葉を眺めたり噛んだりしてもらってる方が実は「教育的」なんじゃないか・・・でも、最終的には認識の解像度上げる作用もあるしな・・・と逡巡する。自然科学の研究者で、幼児期の言語発達が遅かった人もいたりするが、言語のない世界で現象と直にふれあう時間の長さが適応的な方向に活かされたケースかもしれない、と思うことがある。もちろんわからないんだけど。