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オブジェクト思考ブロギング

再生産のコストと価値

 

再生産(出産・子育て・教育)は、どのくらいのコストがかかり、どのくらいの価値を生み出しているのか。かなり間違っている気もするが、以下試論的に。

 

「子供が欲しいけど持てない」の理由として、まず経済的な理由が挙げられるが、実際にどの程度かかっているのか。公的な支出(税金から教育として使われる分)や家庭からの支出ベース(いわゆる教育費)はそのまま金額としてわかりやすいが、実際には支出になっていない家庭内労働(女が多く担う傾向にある)も含めると、ヒト一人を「再生産する」には、確かにかなりのコストがかかっている。

 

家庭内労働をコスト換算するのはなかなか難しい。貨幣の形で換算するとして、一番ストレートな原価積み上げ式なら、家庭内の子育て労働分をプロ換算して素人プレミアム(1.0未満)をかけるか、バルクで概算するなら児童養護施設コスト(一人1億弱くらいだとか)に少人数プレミアムをかけるか、といったところか。

 

労働市場として考えると数字はかなり流動的になる。やりたい人がたくさんいる市場(デザイン系とか芸能とか)では安く買い叩かれがちなので、内的なモチベーションが高いヒトが多いと、労働コストは落ちる。再生産を積極的にしたいというヒトが多いとすると、場合によって、コストはゼロとかマイナスになる。「再生産=やりたい人が自主的にやるもの」という規範の中では、趣味と同様にコストはゼロないしマイナス。しかし、出生率の変遷を見ると、この考え方が通用しなくなっているような感じもする。

 

一方で、再生産が生み出す「価値」とはどうだろう。価値は非常に主観的なものなので、究極的には一人一人異なるわけだが、コンセンサスを求めるとしたら、まずは「貨幣的な価値=価格」を求めるところから始めるのが無難そうだ。一旦倫理的な発想を横に置いて、再生産のプロダクト(=子供)を商品とみなしてみる。子供=金融商品的に見なすとすると、「そのプロダクトが稼ぐ分-そのプロダクトの維持費(生活費)」を収益として、それをDCF的に計算することで、再生産直後の商品価格が求められる。まったく再生産活動の対象にされてない子供(現代にはほぼ存在しないし、あったとしても生存確率が低く、生存してもマイナスの可能性が高い)の「商品価格」との差が、再生産活動全体の生み出す貨幣的な価値と言えるだろうか。

 

もちろん、価値=価格ではないので、あくまでも価値の一側面を表現したものだし、価格といっても、ほとんどの場合、外部経済を折り込んだものではないので、そこを折り込もうとするとより複雑な議論になる。この場合、再生産のクオリティが変わることで、その社会のメンバーシップも大きく変わるため、一般の商品とは違うレベルで、外部経済が生じることは確かだろう。ヒトである以上、外部経済は正にも負にも大きく振れる。

 

「子育ての喜び」というのは、商品価値的な議論からすると、むしろ価値を上げる方向に作用している可能性が高い。ホテルの従業員でも、作業に喜びを見出し楽しくやっている人の作業の方が価値が高まりやすい(=サービスの値段を上げやすい)のと似ている。一方で、喜びがあまりに大きく、趣味としても成り立つレベルであるとすると、労働市場的なコスト議論では、コストをかけずに労働の担い手を募集することができるという意味で、コストにはマイナス方向に働くことになる。やり手の企業家よろしく、再生産においては、この「喜び」を強調することで、コストをかけずに担い手を調達しつつ、価値を高めてきた側面もありそうだ。(悪く言えば、ブラック企業的な手法だが。)

 

大ざっぱには、貨幣的な価値≧コストが成り立たないと、貨幣的な意味でサステナブルではなくなる。貨幣的な価値<コストだと、趣味的な活動になり、それだけでは持続可能性がなくなる。貨幣的なIN/OUTは、臓器における循環血漿量IN/OUTと同様に、保たれていないと持続できない。と同時に、この循環がなくなると、そもそも人類自体が生存しえない。近年の再生産の難しさのひとつは、労働市場の性質から、高い貨幣的な価値を求められる分、コストも上がりやすいということがある(低コストで低価値でよければ、ハードルは相対的に低い)。高い価値を出しつつ、コストを下げられるとしたら、それは大きな効用をもたらす。

 

経済全体で見ても、経済活動が人口動態(労働できる人の数)と教育レベル(人材の質)に支えられているとすると、再生産は、経済の下部構造として捉えても良いのかもしれない。金融経済、実体経済に対する第3の層、更に深層の層としての再生産。ヒト・カネ・モノという言い方があるが、これに対応して、人的経済・金融経済・実体(商品)経済という分け方もできそうだ。人的経済が最深層であるとすれば、これが持続的に回らないと、商品経済や金融経済も回らない。商品経済や金融経済を支える人的経済を回していく活動としての再生産の重要性。これまで再生産は、自発的な動機、言うなれば趣味的な動機に任されていた部分が大きいけれど、インフラ投資的な側面にも光を当てても良いのかもしれない。教育とか子育てといったネーミングより、次世代投資とか投資面を前面に出した呼び方にした方が良いのだろうか。Next-generation investment, 略してNGI*1

 

そして、貨幣であれ何であれ「数字化」には大きな意味がある。上記の議論は、再生産の市場化を促進するという意味ではなく(市場化を否定する意図もないが)、数値化にも意味を見出している。

 

ひとつは、明晰に議論するために。仮に、出生率の低下に表象されるような再生産の縮小が課題であるとするならば、再生産のインセンティブ構造やコスト構造の理解は必須で、大和言葉的ではない明晰な表現のコンセンサスを作っていく必要がある。社会の進歩とともに必要教育水準が上がる分、コストや価値の議論はどんどん複雑になるし、再生産活動のボトルネックにもなりがちなコストの議論。

 

もうひとつには、↑とも重なるが、プレゼンス*2を上げるため。見えないものは忘れられやすいし、頭の中から存在が消えていく。可視化・見える化とはパワーであり、特に数字化は可視化の極北として、最もパワフルだ*3。主観的・官能的な話を連ねても、同好会以上の輪には広がりにくいので、仮に議論をスケールさせていくのであれば、コンパクトな形式化、特に数字化は手堅い手段だ*4

 

一人一人の主体の内観として生じる「価値」と、客体的な表現としての「価格」が異なるのは、再生産の議論に限らず、あらゆるモノやコトに常にあるので、リアリティが十分に反映されないは再生産に限った話ではないだろうと思う。(逆に、価値=価格という思想が、拝金主義と定義しても良いかもしれない)。「価格」に限らず、例えばIQ, PANSSなどの心理系の数値化もそうだ。「数字」が、当事者にとってリアリティの欠けることは常だけれど、それはスケーラビリティと表裏一体。正確に言うと、リアリティに極限まで近づける数字化が必要なわけだが*5

 

 

謝辞:との議論をベースにしている。

*1:別名massively parallel investing

*2:軍事戦略的な意味合いでの

*3:インフォグラフィックというものもあるが、個人的にはデザインの記憶が残りやすく、他が捨象されやすいので、シンプルな数字が一番だと思う

*4:一方で、官能的な話をしていくために濃厚な同好会が必要なことも多い。同好会的なものを否定しているわけではない。というか個人的には小さなコミュニティの方が好みだ。

*5:話し言葉と書き言葉 - ideomics参照