子供とのコミュニケーション
この記事を読んで、『子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方大全』を買った。帯に「人間関係の原点である親と子のコミュニケーション」と書いてあって、はっとする。確かに、人間関係のひな形が創られるのって、親と子のコミュニケーションスタイルからかも。「大人」を見るときの視点としてもありかも、と。
コミュニケーションスタイルはメタ・メッセージなので、その文化的な伝達は無意識的になりがち。伝達させようにもコントロールしづらい。そもそもコミュニケーションスタイルにかぎらず、いわゆる「教育」一般の話として、意識的なレベルものって、<真似ぶ=学ぶ>という、双方で無意識的に行われてしまうものに比べると断然に小さい。文化資本はあたかも「自然に」身につけたもののように感じられるのも、「無意識的な伝達>意識的な伝達」だからだろう。と思って、子供を意識的に教育=操作しようという部分が消えてから、ふと力を抜いたあたりから、子供との時間が一段階楽に、若干心地よくなった。「教育欲」みたいな欲望が消えた、といったような。「ともに生きよう」という言葉にも別なリアリティが出てくる。
思えば、配偶者との関係含め、親密圏の人間関係って、activity(活動)というより、passivity(受動=受け止めること)なのかもしれない。子供もあれこれ望む方向に「教育」しようとしたら、うまくいかない上に関係もこじれていくけど、passiveであろう、適度に整流していこう、というスタンスになってから、だいぶ気が楽になった。もちろん、悪化した中耳炎の抗生剤飲ませるとか必要に応じて無理やりなことも結構あるんだが。
受動的というと、何もしない、という意味になりがちだけど、ちょっと違う。受動=受け止める、というのはそれなりにエネルギーを使う。半分動物・半分人間である乳幼児と「話す」ときって、身体的なアーキテクチャーが必要になる。大人同士だと言葉だけでやりとりできてしまうところが、言葉が単なる音声/雑音になりがちだから。
例えば、ひとつひとつの行動で目を合わせることが大人以上に必須な感じ。目を合わせるって、不思議な作用がある。視線自体が特別な意味合いを持っている。脳の処理構造でも、目・視線に特別な地位が与えられているというし。目を合わせると、自然と意識も調整されてしまう。対話dialogueという言葉が、おしゃべりとか話し合いとかその他類義語と違って何かしら特別な意味合いを持つとすると、「目を合わせること」がそれかもしれない*1。
ソクラテスは、書いた文字では思想は伝わらずと考え書字は残さず、弟子のプラトンがそれを書字にしたという話を聞いたが、ソクラテスは、思想や哲学はクライアントがあってこそ成り立つもの、インタラクティブにやってこそ成り立つものという発想だったのかもしれない。
子育てって、産婆とともに始まり、永遠に産婆的なのかも。
子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方 大全
- 作者: アデル・フェイバ,エレイン・マズリッシュ,三津乃・リーディ,中野早苗
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- 発売日: 2013/06/29
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*1:思考=自己内対話=「一者のなかの二者」同士の対話、とすると、文字・文章の形にしてみるなど、一旦外的な形にして「目を合わせた」方が、対話的になりやすいのかも。読書は、思考と(いわゆる)対話の中間的な活動なわけで。