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オブジェクト思考ブロギング

Feighner Criteria, RDoC

The Development of the Feighner Criteria: A Historical Perspective
http://ajp.psychiatryonline.org/doi/abs/10.1176/appi.ajp.2009.09081155
によると、Feighnerさん達は、網羅的に文献を読み込み、時間かけてまとめたらしい。

 

now-hereに留まる声のやり取りが、かろうじて文字になった時代から時が経ち、文献を元に構成された統計的な単位によって分節=文節されていく。文字で構成された単位は、統計的な思考として役に立つものの、その「実体」はno-whereだった。

 

文字と文献に支えられた精神医学とは、科学、つまり社会科学の一部門であり、それはアフリカ大陸を見るときに、地形や大気の流れではなく、まずは旧宗主国・緯度経度に規定された国境線から考えることに近い。

 

社会科学と自然科学は、どう分けられるかと言い出すと難しそうだけど、科学(sci-ence = 分割)という言葉を、社会科学と自然科学に分けて考えるのは、一部領域では議論の整理にはなりそうな。スノーとコッホの話の繰り返しだけど。

 

統治機構主義者(state-ist = statist)の形容詞としての統計値(statistic)と、それに基づく統計的(statistical)管理。statistical diagnosisとしてのDSM=SDM。国家や官僚という響きが否定的な「空気感」のもとでは否定的なニュアンスになるが、しかし、空気を切断して、国家規模で見ると、多くの人が標準的な水準を享受できるシステムを構成している。これは声の文化では難しい。官としての医はミクロで見ると硬直的だが、マクロで見ると違った価値がある。

 

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プラトンがかれの「国家」から詩人を排除したということは、ホメロスのなかにはくりかえしあらわれていた素朴で累積的、並列的な、声の文化にもとづくスタイルの思考を、プラトンがしりぞけたということである。かわりにプラトンが支持したのは、世界と思考そのものののするどい分析ないし解剖であり、そうしたことは、ギリシア人のこころにアルファベットが内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. Ong『声の文化と文字の文化 The Technologizing of the Word』)

 

Feighnerがかれの「診断基準」から精神分析を排除したということは、精神療法のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で累積的、並列的な、声の文化にもとづくスタイルの思考を、Feighnerがしりぞけたということである。かわりにFeighner が支持したのは、精神と思考そのものののするどい分析ないし解剖であり、そうしたことは、精神科医のこころに文献が内面化されることによって可能になったのだった。

 

Googleがかれらの「ウェブ」から人力を排除したということは、書字のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、Googleがしりぞけたということである。かわりにGoogleが支持したのは、世界と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、シリコンバレー人のこころにAlphabet社が内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ.Omg『文字の文明と数の機械技術 The Technologizing of the Number』)

 

NIMHがかれらの「RDoC」から精神科医を排除したということは、文献のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、NIMHがしりぞけたということである。かわりにNIMHが支持したのは、精神と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、生命科学者のこころにデータベースが内面化されることによって可能になったのだった。

 

声の文化としての心霊療法
文字の文明としての精神医学
数の科学技術としての神経科学