ideomics

オブジェクト思考ブロギング

信頼のレッスン

“個”の誕生―キリスト教教理をつくった人びと

“個”の誕生―キリスト教教理をつくった人びと

「自己の心の奥深くへ沈潜することが、すべての自己の意識、記憶、思考、意志、感覚を統合する一なるもの、あのプロチヌスのはるかな「一者」につらなる真我の体験に至ることを、アウグスチヌス*1は私たちに具体的にかいま見せてくれた。」(坂口ふみ『<個>の誕生 ― キリスト教教理をつくった人びと』)

「「わたくしの思考、わたくしの意識、わたくしの心」としてそれは明らかに他と異なるのである。おきかえがきかず、唯一なのである。」(同書)*2

「アウグスチヌスやデカルトにあっては、この「内なる確実性」に準ずる、またはそれを超える信仰の確かさが、この問題を解決する鍵を与えたが、その信仰が次第に薄れたとき、この思考傾向は自閉的で原始的な自意識の孤立を生み出しかねなかった。」(同書)

「私が自己を意識し、自己自身となるのは、ただ自己を他者に対して、他者の通じて、そして他者の助けをかりて開示する時のみである。・・・彼の全存在は常に境界にあり、自己の内面を見ることは即ち他者の眼を見ること、あるいは他者の眼で見ることなのである。」(同書よりバフチン:孫引き)


自己を開示することは、一種の「信頼のレッスン」とも言える。自分の秘密や弱さを投げ出すって、相手に対して信頼のカードを切ってみること。その応答が信頼に足るものであれば、そこで安心し、信頼のカードを切るゲームを続けることができる。告解の伝統はまさに「信頼のレッスン」を重ねる営みとも言えるだろうか。そして、ある種の心理的実践は、告解という宗教的行事の衰退を埋めるように出てきたようにも見える。はじまりはユダヤ系の人物であったとしても。宗教組織的ではないけど、re-ligious(再結合的)。basic trustの再構築。


basic trustの再構築。親子関係という幼児期=古代の古代復興(ルネサンス)というと、ちょっとレトリックが行き過ぎかもだけど。しかし、子どもが親に身を投げ出す感じ(文字通り手を広げて身体をぶつけてくる)って、身体によう象徴的な表現だ。作家の自伝や私小説のように不特定多数にオープンにやれないこともないけど、秘密や弱さともなるとクローズドな環境が必要なことも多そう。『わたしだけの部屋』ならぬ「わたしたちだけの部屋」が必要になる。環境が揃えばオープンにできるのだろうが、かなり理想的な環境が必要になる。


そして、他者を通した自己開示によって、個体化=自我の確立が可能になるという考え方があるようだ。social self を獲得した後に psychological self が得られると。social self -> psychological selfのシェーマ。社交で生まれる自分と、内省的な自分の順序。すべての人に当てはまるわけではないのだろうし、どれくらい妥当なのか不明だし、正直ピンとこないけど、この順番の発想は結構コペルニクス的転回。内省性と社交性の相関。


実際、他人に興味のない人が、自分(一番身近な他者)にも興味がなくて、過去のこと全然覚えてないことがままあり、興味深い。他人とつながりたい欲求(valence)があるけど、他人への興味関心(valence)が相対的に乏しく、かつ社交的認知(cognition)がさほど高くない(ここはループ構造もある)と、valence, cognition間のズレで生きづらさが生まれる。ここで、自己開示をしていく中で、「信頼のレッスン」を行いつつ、social selfを獲得していく中で、psychological selfを獲得するという過程を想定してみる。これは現実的だろうか。

*1:アウグスティヌスの『告白』によって内省的な「個人」というものが生まれたという解釈もあるらしい。確かに自分の歴史を振り返り、それを自己開示する。「わたくし」を主語にした感情的な自己開示。それが歴史上初めてであるかはわからないが、象徴的な部分もあるのかもしれない。

*2:天上天下唯我独尊も同じような意味?

愛着のレッスン

生まれて初めてiPhoneというものを所有したんですが、これは本当に素晴らしいですね。タッチパネルの官能性がすごいです。指で動かす度にゾクゾクします。まさにこんな感じ。


iPhoneの官能性:見た目の美しさだけでなく、こっちの動きに対して反応(response )があるという実感も大きそう。レスポンスがある!みたいな。call and responseに似ている。response + ability = responsibilityとしてのresponsibilityがある。機械でありながらダイアローグ的。極端なこと言えば、生命観ならぬ機械観が変わる。美的な官能性と触覚的な官能性。後者にはcall and responseなダイアローグの成分がある。


美しいもの、官能性の高いものに愛着を覚える。いや、愛着を覚えるものを美しいと言っているだけか。「可愛い」なんて表現はまさにトートロジーなわけだし。美しいもの、官能性に高いものに触れることは、愛着のレッスンと言っても良いのかもしれない。美術=愛着のレッスン。触覚美術の可能性*1


philosophia: sophiaが知として、philo-が愛着 (attachment) とすると*2、知を通して愛着を学ぶ訓練の過程とも言えるかもしれない。一般的には、philo-"sophia"と知の部分に中心があるが、"philo"-sophiaと愛着の部分に中心を置く。知という客体になりえるものに対し、愛着という主体的なものに中心を置く。美や官能と同様に、philosophiaも愛着のレッスンと考える。高等教育の世界では適当ではないだろうが、初等中等教育の世界ではそれが良いような気も。


しかし、愛着 (attachment) という表現、ロマン精神と合理思考の中間表現として絶妙だ。愛という言葉ほど感情をかき立てないし、機械の取り付けという機械論的な表現でもあり。原子間同士の接合としての分子とも通じるし。貨幣が水素結合的なのに対して愛着が共有結合的という感じがある。愛着の成分として、恋と愛があり、恋(乞い?)がanticipatory pleasure、愛がconsummatory pleasureとすると、日本語なの使い分けなかなか面白いし、分析的に見るフレームワークにもなる。。


愛という「人間的、あまりに人間的な」ロマン精神に浸かりながら思考の明晰さを保ち続けるのは難しい。善意や愛という言葉には思考を中断させるものがある。そこで安心して止まってしまう。反面、こういった表現にかなりネガティブな転移をもつ人も多い。道徳教育的なものへの反発かもしれない(まさに定義通りの転移)。「男子的、あまりに男子的な」反発。愛=博愛と極端な白黒思考をしてしまうと、それはほとんどの人には不可能。しかし周りを少し見てみれば、小さなレベルでは日常にありふれたものだ。Love actually is all around.


愛という感情には、一種キャピタルとしての性質がある。最初に蓄積があれば、「投資」と「回収」のサイクルが回っていくけど、最初の蓄積がないとその後も「貧しい」ことが多い。例外はあると思うけど。愛を「ソーシャルキャピタル」に繋げたりすると、安っぽく見えるけど、実際ソーシャルキャピタルを構成するものは愛着に他ならないように思える。安心して止まるのでもなく、反発して否定するのでもなく、分析的に見る必要性がありそうだ。


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「土着性、友愛(フィリア)、ドクサというのが、三つの根本的特徴であり、哲学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。哲学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(『批評と臨床』プラトンギリシャ人たち)

ドゥルーズによると、philosophiaは、知sophiaとの友愛(philia)であり、知の「友」であることらしい。賢者のように内面化されたものでもなく、科学のように無数のものと共有するものでもなく。所有するでもなく、完全に客体化するでもなく。距離はあるが結合的な。友とは固有名詞の関係であるように、固有名詞が伴う関係。賢者のように内面化されたものでもなく、科学のように無数のものと共有するものでもなく。所有するでもなく、完全に客体化するでもなく。距離はあるが結合的な。友とは固有名詞の関係であるように、固有名詞が伴う関係。

*1:俄然タンジブルビッツに興味が出てくる

*2:実際は親和性とかに近いらしく、解釈の要素も大きいかもだけど

人と人間 - human being and human inter-being

ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)

ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)

ディオゲネス『哲学者列伝』をちら読み。逸話としても面白いけど、形式にも興味が湧く。個々人(哲学者)の話を個人ごとに章立ててたくさん並べているが、個人Aの話に別章の主人公であるBやCが出てきて、HTMLで言うところのハイパーリンク的な構造(ネットワーク)になっている。言うなればウィキペディアのようなネットワーク構造。映画で言うと群像劇に近い形式。


「humanismとは何か」という所でぐるぐるしているが、まずは"人一般human"というより"個人individual"という特徴が気になる。

「個有」名詞 - ideomics

神や魔物や集団やマスではなく、あくまでも生きている個人、固有名詞を持った個人に注目する*1。固有名詞を各章のタイトルにして、複数個人の小伝記・批評を並べるという形式になっている。それが、ハイパーリンク的なネットワーク構造になっている。個人individual/humanと個人のネットワークとしての人間human inter-beingの表象にも見える。


人間という日本語。「間」という漢字を活かすと、なかなか英語に相当する言葉を見つけにくい。
人存在(人一般) human being
とすると、
人間存在(人間) human inter-being
という感じだろうか。とりあえずinter-を入れた表現にしてみる*2


小説などの物語も当然ヒト同士のソーシャルネットワークがあり、その展開の話が多い。この『列伝』は、そのぐちゃぐちゃした混沌を一度分割 (divide)し、それ以上分割できない単位としての「個人 = in-dividual」を取り出し、個人同士を再構成・再結合してネットワークとする。「列伝」という形式の表象性*3。ミュトスとロゴス、カオスとコスモスの間。


(規範的なニュアンスも含めて言えば)
「人間 (human inter-being) は再結合的 (re-ligious)*4
と言えるだろうか。認識の上でも実践の上でも。再結合的 (re-ligious) ・・・一度切断した方がよくつながることもある。個人としての「個有」名詞で呼び合うこと。個人が個人を認知し認知されることで人間になる、という個人から人間への存在論ontology*5


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ソクラテスは、哲学者の政治的機能はこの種の公的世界を確立するのに手を貸すことだと、信じていたふしがある。その公共世界は友情による理解の上に構築され、そこではいかなる統治者も不要なのである。

アリストテレスは次のように結論する。コミュニティの絆と思しきものは正義ではなく(プラトンは『国家』においてそう主張しているのだが)、友情である。アリストテレスにとって、友情は正義よりも重要なのである。」

アレント『政治の約束』)

「政治は人間の複数性 (plurality) という事実に基づいている。神は人 (man) を創造したが、人間 (men) は人間的にして地上的な所産であり、人間本性の所産なのである。哲学と神学が関心を持つのはつねに人一般であり、あらゆる科学的思考にとって、存在するのは人一般だけなのである。」

「政治の目的は「人」というよりも、人と人の"間"に生起して人を超えて持続する「間=世界」なのである。」

アレント『政治の約束』翻訳一部改変)

inter-viewは直訳すれば間・視界。まさしく間=世界。

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Seikkula J. et al.
"Postmodern society and social networks: open and anticipation dialogues in network meetings" (Family Process 2003)
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1545-5300.2003.42201.x/abstract

では"network-centered"という言葉が使われている。human-centered, person-centeredという言葉と対比できそうだ。humanismに対比するなら、"networkism"。題名の通りポストモダンという文脈で語っている。ダイアローグという1対1の関係を拡張して、ポリフォニー(ポリローグ)という関係をsocial networkという言葉で語る。socialとsocietal/societyという言葉の使い分けも含めて面白い。

*1:遅れてきた古典ギリシャ復興(ルネサンス)としての近代オリンピックでも、国別のメダル数という考え方には否定的で、個人の栄誉であることが記されている。:http://www.joc.or.jp/olympism/education/20090201.html

*2:ティク・ナット・ハン氏の用語だと、個体レベルでの"mindfulness"に対し集団レベルでの"inter-being"という言葉があるようだ。前者ができれば自ずから後者が達成されるわけではないとしたら(そういうケースも多そうだが)、その間には何があるのだろう、と気になる。

*3:列伝みたいな形式は、それこそヴァザーリ『美術家列伝』とか他にもあるようだけど、次に思い浮かんだのは渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』。当時は内容的に面白いとしか思わなかったけど、列伝という形式自体に思い入れがあったのかなとも思う。

*4:re-ligation = 再・結合

*5:人が人を認知し認知されることで人間になるように、文も文を認知(引用)し認知(引用)されることで文献になる。人から人間に、文から文献となる存在論ontology

「個有」名詞

原子 (atom) と個人 (individual) は、単語の語源として「それ以上分割できないもの」と似た意味であることはよく言われる。ファインマン (Richard Feynman) の

If, in some cataclysm, all of scientific knowledge were to be destroyed, and only one sentence passed on to the next generations of creatures, what statement would contain the most information in the fewest words? I believe it is the atomic hypothesis (or the atomic fact, or whatever you wish to call it) that all things are made of atoms.
The Feynman Lectures on Physics Vol. I Ch. 1: Atoms in Motion

をパロディ化するなら、

If, in some cataclysm, all of humanistic knowledge were to be destroyed, and only one sentence passed on to the next generations of creatures, what statement would contain the most information in the fewest words? I believe it is the "individual" hypothesis (or the "individual" fact, or whatever you wish to call it) that all societies are composed of individuals.
(Richard Feynwoman)

といったところか。


原子のように個人を根源的なの構成単位として考えること。よりディープな世界では素粒子が云々とか、原子を更に細かく見ている(全然わからんが)し、個人についても更に細かく見るアプローチが理論的にはよりディープだとは思いつつも*1、原子と同様個人を単位として考える。個人という「理論」あるいは「仮説」。近代社会の重要な過程。しかしなかなか貫徹できない『未完の近代』。


ヒトを個人として捉える。互いを個人としての固有名詞で呼ぶ。固有名詞ならぬ「個有」名詞として。職位や職能、家族名詞(誰々のパパとか何代目XXXなど)ではなく、「個有」の名詞として。対等ではなくても、同一平面に並ぶことができる・・・イソノミア的と言えるだろうか。


法が「書かれたもの」「明文化されたもの」、文字ができあがっているものだとして、ノモスが声の伝達による暗黙のルールとする。「個有」名詞の記憶にダンバー数という限界がありうる。「イソノミアiso-nomia」は、個人レベルではダンバー数的な数の限界があるかもしれない。しかし、その重なりと捉えると社会レベルでは理論的には無限になる可能性もある。


小学校の校長をされている人の話を聞く機会があったが、「我々の世界では、全員の顔と名前が互いにわかる300人くらいが丁度良い数とされています」と述べていて、まさにダンバー数じゃんと面白かった。どの範囲でコンセンサスなのかわからないけど、直感的にも前思春期くらいまでそういうイメージだったのもあり。「もしも世界が300人の村だったら」という想像は、ダンバー数の限界問題を解けない。一方で、「もしも世界が(互いに移動可能性のある)多数の300人単位の集団で構成されているなら」というのは、現実に接続する中間的な世界への想像として興味深い。


ダンバー数以下の顔と名前が一致する関係を社交的 (social)な関係、ダンバー数以上でそれができなくなる関係を社会的 (societal)な関係と定義してみる。
・ヒトを「個有」名詞で捉えること(認識)social science*2
・ヒトを集合としてカテゴリカルに捉えること(認識)societal science


「個有」名詞を得ることで、人が個人となる存在論ontology。


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曖昧な記憶だが、古代ギリシャ貨幣経済であり、貨幣経済により個人主義が芽生えた、といった話を岩井克人博士がしていた記憶がある・・・個人 (individual)を集団から分割して (divide) 切り出す作用としての貨幣。共同体を切断し、別な関係でくっつける。分子で言うと、共有結合というレベルではないだろう・・・水素結合か分子間力くらいか?貨幣がなかったら、人は共同体でどれだけ息が詰まり窒息するだろうか。再結合的re-ligiousな媒介物としての貨幣。

*1:精神医学における行動の位置づけ - ideomics参照

*2:もちろん固有名詞で考えるのが常に良いとは限らない。例えば、科学的・理性的に議論したい時に、個人名・固有名詞を持ち出すのは、対自然の話が対人的な話に変換され、社交認知の感情回路が不要に活性化されてしまう可能性がある。人物名に-ist/ism, -rianとつけるタイプの議論はこの可能性/危険性がある。自然科学における人物名の排除はこの危険性の回避のためのひとつのテクニックかもしれない。対人・社交認知social cognitionは当然必要なモジュールだけど、オンオフを形式的な認知からコントロールすることで、感情・情動価値valenceをある程度コントロールできる可能性がある。

We "Other Frankensteins"

街中には英語由来のアルファベットが溢れている。教科書的には日本語の書字は3種類(漢字、ひらがな、カタカナ)だけど、現実にはalphabetもかなり多い(ほとんど英語由来)。自分も含めて多くの人は英語をうまく使えない。けど英語由来の言葉やアルファベットは使う。考えてみれば、漢字なるものも漢(中国)から見れば適当そのものだろうし、ひらがなは元ギャル文字だし、カタカナは位置づけよくわからんし、元からめちゃくちゃな混交。4種の体系と言っても良さそう。


「やまとことば」(ひらがな)で表現されるものは主体の情緒を表している。英語(alphabet)は科学的対象としての客体の性質。その中間に漢字(江戸時代までの先進国としての中華の文字)を位置づける。中間あるいは直線の外に打つ。生活用語(ひらがな)、人文用語(漢字)、科学用語(alphabet)として。


オラリティがかろうじて文字になったひらがなから、書字的、あまりに書字的な中華由来の漢字とそれに伴う官僚制。alphabetは実は、26+進法の数字として導入されている。その姿は、二進法の化身としてのある種の言語に示されている。語るとは、口で五つ言うことであり、文字ではいけない。四つでも六つでもいけない。声の中心は言語でなく、音にある。漢字は音読みと訓読みに、オラリティの名残りを留めている。ある種のアルファベットの文字列には、そもそも発音などというものがない。


J-popの歌詞に英語が入り交じるのって、現代日本のリアリティをよく表象している。英語(ヨーロッパ→アングロサクソン文明)がそれなりに入っているけど、それなりというレベルだよね、という。最近英単語をめちゃくちゃな使い方している反省もありつつ、考えてみれば「漢字」含め日本語の書字自体がめちゃくちゃな体系じゃないかと思った。


ゲノムにおけるレトロトランスポゾン、細胞におけるミトコンドリア葉緑体、個体におけるマイクロバイオーム。「異物」の混交、キメラとしての生き物。We, other Frankensteins. 気持ち悪い快感がある。

ハロウィン: 狩猟採集と農耕

ハロウィンって、ケルトの収穫祭だか死者との交流だったらしいけど、キリスト教文明に押されたケルト文化(文明?)が、部分的な形でなぜか日本にまで「残存」しているのちょっと面白い。現生人類の中のネアンデルタールゲノムみたいだ。三位一体の聖霊という話は、キリスト教の土着化のための戦略的レトリックだと思っていたけど、ケルトとか聖霊側の立場に立つとシミュレーションしてみると、敗者の生存戦略とも思えてくる。


どこかでケルト=森、ローマ=石、という対比がされていたが、象徴的な言い方から説明的にすると、狩猟採集と農耕の関係だろうか。実際はケルトだって農耕やってるだろうけど、ひとつの対比として。狩猟採集では森は恵みだが、農耕では邪魔になる。森の扱いが真逆になる。農耕では、森というより生やす(はやす)もの=林、になる。コントロールするものになる。宗教的にはアニミズム一神教で対比されるけど、狩猟採集と農耕の対比が唯物論的な基盤とえいるか。


昔はまったくハロウィン興味なかったけど、子どもが魔女だゴーストだと盛り上がってると、結構楽しいじゃんと変わる。今までは西洋人でもクリスチャンでもないのにローマ/キリスト教的な見方をしてたのかも、ケルトからの見方もあるんじゃないかと思うようになった。ケルト・ローマが狩猟採集・農耕で綺麗に分けられるわけないけど、狩猟採集で自然の恵みを享受していると、自然崇拝・アニミズムに寄り、農耕で自然を制御しようとすると、自己努力・規律に寄る、というのはありそうだ。


子育てって、文明の中にある「自然」への反応と似ている。子どものどうにもならない感じって、「自然」に似ている。コントロール欲求があるときにうまくいかないと怒りが出てくる。コントロール欲求がそこまで強くなくても、意図通りいかないと悲しくなる。「自然」と考えて、それを享受すると考えると、アニミズム的に考えると、少し楽になる。むしろ楽しくなる(時間に余裕があれば)。「自然」への反応・・・能動性activityと受動性passivity。


ダンバー数の設定に支持的な話として、狩猟採集民族の集団を構成する人数があったと聞く。ダンバー数以下のsocialな関係として狩猟採集があったのに対して、農耕によりダンバー数以上のsocietalな関係が可能になった、あるいは要請された。狩猟採集集団がダンバー数以下で形成されやすいとすると、文字の必要性は少なく、声やウタがその分発達した。集団規模が大きくなるほど文字の必要性が上がる。と考える。文字:書字が活字になり、印刷時、映字(ディスプレイの文字)となるのは技術の進歩だけによるか。societalな関係に対してsocialな関係を考えようとするにあたって、狩猟採集集団の関係って興味深い。


ダンバー数で切断するsocialとsocietal。会社組織でも、ダンバー数以下の仲間companyと企業体corporation (語源も体?) を分けて考えたくなる。狩猟採集的なビジネスと、農耕的なビジネス。プロジェクトとライン。socialとsocietal。超越的で未知な「自然」の中で探索的にやるには適度な規模での声のコミュニケーションが必要。コントロールしていくには文字での管理。もちろん現代のテクノロジーは境界を曖昧にする。


U2アイルランドのバンドと知り、ちょい調べたら、ビートルズも国籍こそ英国であれ、アイルランドオリジンな人々らしい(ビートルズアイルランドで検索)。ハロウィン繋がりでケルト性に繋げるのはさすがにやり過ぎ感があるけど、声の文化伝承が背景にあったりするのかもしれない。声の文化と文字の文明。socialとsocietal。ロックという声の回復。


狩猟採集というと未開なイメージもあり、現代文明からは想像しにくいものがある。これを文化ではなく文明として捉えようとすると、かなり想像力いるし、ケルトとかジブリは良い補助線になりそう。「幾何学への意志」としての文明という位置づけとともに*1

インタグリオのティーセット - ideomics


そいや現代でも狩猟採集に相当する食べ物の捕り方があった。漁業。海はまだ「森」であり、「自然」である。(養殖とかあるけど)


と書いてきて、実際ケルトが狩猟採集の文化かどうかはかなり怪しい。思い込みなだけな可能性が高い。

*1:幾何学がgeo-metry(地面の測定)とすると、土地の測量が必要になるシステマティックな農耕という背景があって存在しえるともいえるか。

コミュニケーションの復興作業

自分は子育て偏差値30-40くらいだと思うんだけど、何が要因かと振りかえると、コミュニケーションが圧倒的に言語的linguisticなためだろう。言葉的verbalですらなく、文字に近い意味としての言語的linguistic。


コミュニケーションが:
身体的 bodily/physical
言葉的 verbal
言語(意味)的 linguistic/semantic
論理(構造)的 logical


おそらく発達としてはこの順で理解が進むのでこの順でやらないとコミュニケーションにならない。身体的bodilyなコミュニケーションの典型的な形としては性的な営みがあるが、子育ては、時系列的にはその後続であり、技術的にはその周辺という趣きがある。


子育ては、
身体的 bodily/physical
言葉的 verbal
なコミュニケーションの再生作業(復興)とも言える。コミュニケーションスタイルの教育効果(共発達効果)がある。仮に、身体的bodily/physical・言葉的verbalなコミュニケーションが集団の紐帯を形成する土壌としたら、子はかすがいという表現あるけど、家族レベルでなく集団レベルでもその効果がありうる。


認知cognitionを考えることで、結果的に情動価値valenceがついてくる、という考え方に従えば、
身体的 bodily/physical
言葉的 verbal
言語(意味)的 linguistic
論理(構造)的 logical
の区別をつけて、リテラシーliteracyに相当する形でスキル的に捉えることが、ある種の情動価値訓練には良さそう。前二者は、
身体的 bodily
表情的 facial
音声的 vocal
言葉的 verbal
くらいに分解できそうだが。


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声文化と賢者
文字文明と学者
文献と研究者
データと計算機