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オブジェクト思考ブロギング

魂の不死について

人類全体というクラウドを想定すると、どんな人でも何らかの影響を与えている。どうやっても消し難く影響を残しまくっている人もいれば、全体からするとうっすらと、という人まで。そして、あらゆる人はそのクラウドから何かしら備給され続けている。

 

いわゆる生まれ変わりはさすがに信じるのは難しいけど、何かしら消し難いものを大なり小なり残しているという意味では、魂(psyche)の(そこそこの)不滅というのは、物質という水準はおいておいて、精神の水準では言える部分がありそう。正確には、不滅というより、生物学的死を越えた一定の持続というべきか。

 

ゴーストライター。文を書く。死者たちとともに書いている。死者たちに憑かれている。文を書く。みなゴーストライターになっている。そして、文に自分を埋葬している。選挙カー、この世界は死者たちの声で騒がしい。
ゴーストライター - ideomics

 

ブログ=blog=B-log=Be log.
ログ(記録)となれ。
ウェブログWeblog=We, B-log=We, be log.
我々よ、我と我よ、ログ(記録)となれ。

 

「<記録>こそは、自己との関係、あるいは自己の自己による力動の、ほんとうの名前である。・・・主体あるいは主体化としての歴史は、記録と名付けられる。」*1

 

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生物学的な覚醒水準の話と別に、自己とその他の区別という意味での「自意識」って、まったく自明ではないし、少なくとも幼少期はあまりはっきりしてなさそうな感じ。もちろん他人の内観はわからないけど。自他の区別は徐々についてくるが、一方で、大人になったからといって自動的に、ではない。「個」という意識は、より一層自明ではない。個人になるというのも十分難しい発達課題。

 

「今の所を私のためにも祈ってください、ソクラテスよ。友のものはすなわち、我が物でもありますからね。」 (藤沢訳『パイドロス』279C)

所有物という理解をすると、共有・共産的な発想にも見えるが、むしろ、自意識の未分化を感じる部分でもある。魂(psyche)の未分化。

*1:「<記憶>こそは、自己との関係、あるいは自己の自己による情動の、ほんとうの名前である。カントによれば、時間は、そのもとで精神が自己に影響するような形態であった。ちょうど、空間が、そのもとで精神が他のものに影響されるような形態であったように。・・・主体あるいは主体化としての時間は、記憶と名付けられる。」(ドゥルーズフーコー』から改変)

祭りごとのお約束

10月30日。いつも混んでる駅のハロウィン祭りが閑散としていた。大雨のせいだろう。祭りは天気次第。人の業をえた部分がある。神はサイコロを振らないという言葉があるけど、サイコロ(確率)こそが、神(超越的)なのではないか、決定論こそ人間的、あまりに人間的な考え方なのではないかと思うこともある。

大雨の中でも、ハロウィンに繰り出す人々。一年に一度、浮世の仮装を解いている。

 

神が紙となったとき、律法は法律となり、会社が社会となった。神と君の統治を倒置し、民の統治となり、なおさら紙は一層必要だった。東大に登第し、統治の等値な政策の製作を学んだ者が、紙を司る。統治が倒置されると、君はミッキーとなった。ミッキーを祀り奉る祭りごとが舞浜にできた。

 

皆で集まり、君のミッキーを祀り、祭りで奉る。皆でミッキーを待って、祭りを舞って、集まりごとが成り立った。集まる毎に暗黙の約束ができ、祭り事になり、祭り事に言葉の約束が加わり、新しい政になった。はじまりに約束がある。祭り事としての政は、祀り奉ることで、はじめて「集まりごと」が成り立った。東大に登第し政策を製作する者は、祭りごとが得意とは必ずしも限らない。

 

祭り事から生まれる政。それは、ディズニーリゾートで日々生まれている。開業とともにファストパスに向かって走り出すお父さんたちに、キャストたちが「走らないでくださ~い」と声をかけ、彼らが自ら足を止めるとき、そこには言葉の約束が生まれていたのだった。ディズニーリゾートは、祭りごとの始まりとともに、最古の政の始まりを告げている。

 

「祭りに参加できるかどうかということは大変大きなことなのです。ある町では被差別民は祭りに参加できないのです。職人も参加できないばあいが多いのですが、娼婦は参加できました。」(阿部謹也『西洋中世の男と女』)

 

ディズニーランドの入場制限は6, 7万人。この数字は、古代ポリスの市民の数を根拠に決められている。

 

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お約束は、楽しいことから始まる。言葉、あるいは歌から始まる。

 

宇多田ヒカル。私情を詩情と市場にのせて、歌が光り響き渡った。その光と音で、日本語とにほんごに、alphabetと奇妙な発声が発生した。日本語は4つの文字を持ち、にほんごはLとRが少しわかった。彼女の名前は動詞となり、国家の骨格を形作った。

 

「なぜなら、およそどのような場合にも、国家社会の最も重要な習わしや法にまで影響を与えることなしには、音楽・文芸の諸形式を変え動かすことはできないのだから。これはダモンも言っていることだし、ぼくもそう信じている。」(藤沢訳『ポリテイア(国家)』424C)

 

『ポリテイア(国家)』の対話篇は、女神ベンディスのお祭りの帰り道から始まっている。お祭りの帰り道、何人かで話し合う。祭りの後に集まりごと。祭りの後に政。

 

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「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」
戦いとは他の手段をもってする祭りごとの継続である。

 

血祭りにあげる、血のお祭りでアゲていく。
それはおそらく、(道徳的な理性とは別に)ヒトの否定しがたい部分があるのだろう。

 

二大政党性は、トロイア戦争に由来している。
トロイア戦争もまた、二大政党性に由来している。

 

戦いをお祭りに。オリンピック。スーパーボウル日本シリーズチャンピオンズカップ
味の素スタジアムの収容観客人数は5万人。この数字もまた、古代ポリスの市民の数を根拠に決められている。

 

democracyを民主主義と訳す。民が主となり、主義と思いをぶつけあう祭りごと。democracyを民衆統治と訳す。統治について考える。ヒトの思いや主義と統治の間には、一定の留保で一部に保留がある。間に、紙と法がある。バヴロックによると、『ポリテイア』は政府論というより教育論だと。著者の実践(アカデメイア)含め、言われてみればそりゃそうだという感じだけど、『国家』という統治機構寄りのタイトルだと忘れてしまいやすい。政治。政と治。祭りごとと統治。その間、あるいは直線の外に点を打つもの。

政治:政(祭り事)と治(統治) - ideomics

 

日と月の明かり

photography(写真術)ができた頃、scientistという言葉が生まれたらしい。

「「科学者(サイエンティスト)」という新造語と、それを自然科学を実践する者のみに限定する使い方は、1830年代および1840年代以降に出てきたものである。その用語をしっかり確立したという功績は、通常、哲学者で科学史家のウィリアム・ヒューエルのものとされており、彼は1840年出版の著書『機能的科学の哲学』でこの語を用いている。」(スノー『二つの文化と科学革命』)

 

写真と絵画。photographyができてから、絵画は自らを一層探すことになった。scientistができてから、言語も自らを一層探すことになった。言語も、言と語も、自ら、言い、そして、語りたい。

 

photo-graph=光画。自然の光という鉛筆で描かせしめる。人が描くのではなく、自然が描いている。光が差し込んでいる。洞窟の電灯で写真を撮っている?・・・それは真に写しているものなのか?真を写しているものなのか?

 

明証。明るい証し。日と月による明かし。日と月が照らす。日と月に慣れ過ぎてしまうと、新月の夜に動けない。実はネオンサインの光でも動けない。空間に広がる音を聴く。赤外線スコープがなくても、なんとか大丈夫。

 

洞窟の闇に沈みたくなる…太陽が眩しかったから。月の光があった。それは日の反射光(reflection)ではあったけど、日の光ほどは眩しくはない。月の光のreflection。これで洞窟から出られる。

 

日のリズムと月のリズム。エロースの導きで、月の満ち欠けを識る。月のリズムを識る。エロースの導きで、月の明るさを識る。月明かり。それなら肉眼でも見れそうだ。・・・月が綺麗ですね。太陽光。レンズ職人がいた。光学顕微鏡を覗くとき、あなたもまた光に覗かれている。

 

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哲学は、真理を追究する営みとしてだと、現代では厳しいものがあるけど、個の発達、群れからの一旦のデタッチメントという発達課題的な位置づけという心理面では大きそう。

 

「全世界は哲学する者たちにとって流謫の地である。・・・
祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。」(サンヴィクトールのフーゴー)
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/ff14151c9c9d94fe526fa7e704fe06d2

 

cogitoも、何かしら「思考」としかとりあえずは言えないものが「在る」、それがひとまず「私」の出発点である、と。脱世間としての思考=体験=私。

 

真理を知るには、
自然言語でごちゃごちゃ思弁するよりは、
自然科学でがちゃがちゃ実験した方が良い。
心理を知るには、
しかし、どうだろう。

 

そして、やがて月の光を識る。

「人間はどうしても物自体を認識することはできないのです。・・・ですからカントは伝統的な意味での真理の基準に依拠するかぎり、人間は真理には絶対に到達できないと考えたのです。・・・・・・しかし、カントはここで真理を認識できなという懐疑論をもちだすのではなく、真理の考え方を変えることを提案するのです。そしてカントが提案したのは、認識の客観的な実在性という概念でした。・・・・・このコペルニクス的転回を経たことで、真理の概念はもはや対象と認識の一致という古典的な観点から考えられるのではなく、人間の認識が他者と了解しあうことのできる間主観的で共同的なものとなるのはどのようにしてか、という新たな問いに変わっているのです。」(中山元自由の哲学者カント』)

 

ブリリアントカット

胸像で反射(reflection)された視線は内省(reflection)となる。
人々は、視線を自らに向けるために、仏像を作った。
仏像を覗くとき、お前もまた仏像に覗かれている。

 

鏡像で反射(reflection)された視線も当然、内省(reflection)となる。
人々は、視線を自らに向けるために、鏡を作った。
鏡を覗くとき、そこに映った私とは、ほんの少しのずれがある。

 

視線が折り返される。胸像が、そして鏡像が視線を反射する。記録に残る限り、ローマのマルティアという女性・・・画家の娘らしい・・・が初めて自画像を描いたとか。この頃、初めて鏡が作られた。(伝聞、プリニウス『博物誌』)

 

恋人たちが婚約の徴としてブリリアンカットのダイヤモンドを贈るとき、様々に咲き乱れる反射光(reflection)は、様々に咲き乱れる内省(reflection)を意味している。それは、その後の家庭を作る過程で、様々に咲き乱れる複雑な内省が生じることを、光学的に顕しているのだった。

 

「人は自分の家を治めるように、しかも国家のなかで自分の役目を果たすように、自分自身を治めなければならないのだから、・・・自分自身の取締りを確実に実施すること、自分の家の管理を行うこと、国家の統治に参与すること、これらは同じ型の三つの実践なのである。・・・クセノフォンの『家庭管理(オイコノミコス)』が明示するのは、これら三つの≪技術≫のあいだの連続性と異質同形性であり、また、個人の生活におけるこれら三つの営みの時間的な継起でもある。」(フーコー『快楽の活用』)

 

ピカソは、絵画を絵画のままブリリアントカットすることを思いついた。彼は絵画と結婚することを約束したのだった(後に浮気する)。しかし、ダイヤモンドのブリリアンカットはまったく容易ではない。言語をブリリアントカットできる職人は数少ない。ブリリアンカットには58面いるらしい。言語を58面にカットし複雑な反射=内省を生み出す。。。そんなことが、しかし、可能なのだろうか。。。

政治:政(祭り事)と治(統治)

政治。政と治。政(祭り事)と治(統治)の一体性とは何なのか、そもそも一体であるべきか。

 

「政治は今や統治の行動にかかわる空間となってしまい、社会の自由な生産を高め、私的領域での個人の安全を保証することが目的となる。・・・重要なのは、可能な限り必要な範囲で、統治という国家的空間を制限して、その外側では自由が可能になるようにすることなのである。」(アーレント・ルッツ『政治とは何か』)

 

集まりごとが祭り事になり、政が生まれた。政が祭り事になり、集まりごとが生まれた。皆で集まり、神と君を祀り、祭りで奉る。集まり毎に暗黙の約束ができ、祭り事になった。祭り事に、言葉の約束が加わり政になった。祭り事としての政は、祀り奉ることで、はじめて「集まりごと」が成り立った。

 

総書記。それは、総てを書き記す者が、統治者であることを示している。それは「政=お祭りごと=パーティ=政党」を司る者ではない。紙による統治(literacy)のみがあり、神を祭る政(orality)はなかった。神は死んだ。総書記を指さしながら。

 

神の声の神託(oracle)による政(orality)から、投票用紙(letter)の信託による統治(literacy)へ。投票用紙、それは宛名だけの手紙であり、手紙(letter)の最古の形を示している。コピー機、それは紙と文字の繁殖のためのベッドであり、人間たちは出産の手助けを行っている。子どもたちは、紙と文字の助産術として文字を学んでいる。

 

我々の祭りごとを司っていた祭司は、仕事がなくなってしまった。悲しかった。
我々の祭りごとを司っていた祭司は、内側に引きこもった。苦しかった。
我々の祭りごとを司っていた祭司は、ひっくり返って司祭となった。びっくりした。
司祭と一緒に祭りも内側に折り返され、我と我の政となった。こうして少しは救いになった。

 

十分に発達した祭司は、司祭と区別がつかない。
十分に発達した司祭は、祭司と区別がつかない。

 

「ヨーロッパで個人が人格をもつものとしてはっきり登場するのは11,12世紀頃といわれています。・・・個人が成立するきっかけが12世紀のさまざまな状況のなかでも特に告解にあったということは、かなりはっきりと認められていることなのです。」(阿部謹也『西洋中世の男と女』)

 

カトリックは「書物の宗教ではありません」(『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』)と書きつつも、このカテキズム要約という書物全体が問答形式というのは、形式として興味惹かれる。整理された対話体としての問答体という文章形式。

 

プラトンがやがて対話体を捨てたとき、彼はソクラテスに二杯目の毒杯を注いでいた。そして、アリストテレスが見てくれの修辞につながるあらゆるものを散文から一掃して、書物の精神に倣い世界から引きこもって暮らす人々のための独白場所へとそれらの書物を変えることに最終的に成功したとき、このソクラテス的空間の対話的性格もまた消滅してしまったのである。・・・アカデメイア崩壊から十数世紀間、その責務を何とか果たしていたのは間違いなくカトリック教会だったのである。*1

 

「ナジアンゾスのグレゴリオスは、<魂の指導>を技術のうちの技術(テクネー・テクノーン)と呼びます。この表現が重要なのは、それまでは政治家の技、政治の技術こそが「技術のうちの技術」、ロイヤルアートとみなされていたからです。・・・・・・しかし、四世紀から十七世紀にかけては、ヨーロッパでは「テクネー・テクノーン」という表現は、もっとも重要な臨床的な技術である<魂の指導>を指すものとして使われています。」(フーコー『真理とディスクール』)

 

祭司がひっくり返って司祭となり、それとともに、我々の祭りごとも内側に折り返され、我と我の政となった。こうして少しは救いになった。そして、統治機構依存の精神性(government mentality)は、精神の統治性(governmentality)となりたがっている。

 

ソクラテスの裁判においては、ほかならぬ「政治」という理念が、まったく新たな姿で輝き出す。・・・それ(戦争・選挙・統治行為)とはまったく逆に、「善き生」をめぐって人々と対話をかわし、吟味によって不知を明らかにするソクラテスの営みこそが、ポリス・アテナイに対する真に公的な、政治的な活動である。・・・大衆を前にした政治演説や権力行使のような派手さも威力もない、ごく私的でささやかな営みに見えて、実は、もっとも根源的で強力な公的営為であった。・・・この意味で、ソクラテスにおいて、はじめて真に「政治」が実現している。」(納富信留プラトン 哲学者とは何か』)*2

 

十分に発達した戯曲は、対話篇と区別がつかない。

十分に発達した対話篇は、戯曲と区別がつかない。

 

政党=パーティの起源は、むしろクラブで歌い踊るパーティにあった。ハウスやヒップホップが、政党の正当かつ正統な起源であり後継者でもある。紙と文字で書かれた書物たちも、本当はレコードと同じようにdeejayingされたいのだ。書物たちはレコードたちが羨ましい。書物たちも、本当は歌い踊りたい。

 

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ホメロスの定形表現では、彼の社会で知られていたような法と歴史と宗教と技術のいずれもが言い表された。したがって、ホメロスの芸術は、それ以来一度もありえないほど重要であり、機能的なものであった。彼の芸術は教育と統治にたいしてある種の支配権を享受したのであり、そして、この支配権は、政治的権力がアルファベットを読み書きする能力を意のままにしうるようになるやいなや失われてしまうのである。」(エリック・ハヴロック『プラトン序説』)

 

「古代においては、いずれにせよ純粋に政治的なものにかかわっていえば、こうやって言葉に描かれてつくられた像の中で最大のものは、トロイ戦争であった。ギリシア人はこの戦いの勝者のうちに、ローマ人はその敗者のうちに、自分たちの祖先を見て取った。」(アーレント・ルッツ『政治とは何か』)

 

古代末期においては、いずれにせよ純粋に政治的なものにかかわっていえば、こうやって言葉に描かれてつくられた像の中で最大のものは、ナザレのイエスであった。キリスト者たちは、その絶対的な敗者のうちに、自分たちの祖先を見て取った。栄華を誇った国家が滅びていく中、カトリック教会が残った。

 

*1:宗教改革が見てくれの外観につながるあらゆるものを教会から一掃して、福音書の精神に倣い世界から引きこもって暮らす人々のための集会場所へとそれらの教会を変えることに最終的に成功したとき、この教会的空間の公的性格もまた消滅してしまったからである。・・・ローマ帝国崩壊から数世紀間、その責務を何とか果たしていたのは間違いなくカトリック教会だったのである。」(アレント『政治の約束』)

*2:日本語で『国家』、英語で"The Republic"とされる"Politeia"は、実際の意味は国制や国体だけでなく、ポリスの共同体というニュアンスのよう。アリストテレスとラテンのRes publicaを経由し、近代の味付けを経て、統治を意味するようになったのだろうか。翻訳と解釈の過程でおそらく失われたものも大きい。https://en.wikipedia.org/wiki/Politeia

TV or not TV ?

映画は孤独に向き合う。映画館で電灯(全体に広がる光)を消して、作品と個人として向き合う。互いの顔は見えない。照明は、画面とその中の役者や風景にだけ。客はおしゃべりはできない。雑音は許されない。

 

TVは複数人で見る。TVよりむしろ互いに向き合う。リビングで電灯をつけて、互いの顔を見て共にする。照明は画面と視聴者の両方に当たっている。おしゃべりはよくあること。TV自体がむしろ信号と同時に雑音(雑談)でもある。

 

BGM (background music) ならぬ BGM (background movie) として映画を流そうとしたことがあったけど、気が散漫になるだけで良くなかった。TVはむしろ集中するのが辛い。冗長で密度がないから。ほとんどが信号というより雑音のような番組も多い。雑音と信号は区別しがたい。理性的で比率的(ratio-nal)なsignal/noise ratio (S/N ratio)に対する、非理性的で非比率的(ir-ratio-nal)なsignal/noise ir-ratio。その分、背景として優れている。前景になるのは家族や共時的な集団。

 

映画とTVドラマの違い。映画が時間の、シークエンスの芸術であるのに対して、TVドラマの方が、まさにdramaであって演劇的、つまり空間的な成分が多いようにも感じる。実際人間関係が主体だし。TVドラマ『東京タラレバ娘』で映画好き男性と、主人公倫子(TVドラマ脚本家)が、"Sex And The City"についての好みで食い違うところがあって、映画 vs TVドラマの差が面白かった。一種のメタドラマ。

 

実際には、アクション映画やデート用の映画など、いくらでも中間的なものが多いけど、シェーマ的に言えば、前者が絵画のシークエンスで、後者は演劇的・空間的・社交的=社交空間なのかも、と。綺麗に分かれるわけないし、昔の演劇の延長としての映画なんかは、むしろドラマ的なんだろうとは思いつつ。倫子が、「ドラマってちゃらいって思われてるけど、現場はみんな本当に本気でやってるんだよね。みんなでやるって一体感があって。脚本はその設計図なんだけど、その設計図を書きたくて、脚本家になろうと思った」みたいな趣旨の発言があり、建築家の比喩(設計図)が使われている*1橋田壽賀子氏のTVドラマは、キッチンで作業している主婦が画面見なくても話が追えるようにscriptが「設計」されていたと聞くけど、確かに空間的な「設計」になるんだな。とキッチンで洗い物してると思う。音と光を伝える精霊たち(spirit)の空間設計としてのscript。ブラウン管の厚みの中には、舞台が隠されている。

 

作品として完成された音楽や映画には、始まりと終わりがある。絵画のように額縁=枠(frame)がある。個体=固体として独立した境界がある。枠組み(framework)によって、骨組み(framework)が生まれる(外骨格)。ラジオとTVには始まりも終わりもない。だらだら続く。流体的。自覚的でないと、TVは表象(re-presentation)ではなく、同時的な現在(present)の上演(presentation)のように思えてしまう。共時的にだらだらと一緒に過ごしてしまう。時間の切断がない。

 
映画は小説の延長として、孤独に向き合い、我と我のソーシャルネットワークを形作っている。

TVは演劇の延長として、皆で向き合い、我々のソーシャルネットワークを形作っている。

 

TV, or not TV - that is the question.

*1:東京タラレバ娘』のように、マンガ表現を実写ドラマで再表現するというのは、日本のTV局が生んだ映像表現の一つかもしれない。表現形式が面白い。典型的なハリウッドの3D CGが実写と区別がつかないのを目指してるのに対して、むしろ実写を2Dする。一時的に2.5次元というべき状態になる。普段の実生活的な3次元状態との差がリズミカル。

『にほんご』安野 光雅・大岡 信・谷川 俊太郎・松居 直

 

にほんご (福音館の単行本)

にほんご (福音館の単行本)

 

 

子供が声出して読んでいるのを隣の部屋で聞く。音感が際立っている。谷川俊太郎氏 x 福音館書店で、そりゃハズレないでしょう、と思っていたけど、それどころではない。

 

昔々、ロダン美術館の『考える人』の前で、なんにも考えない人になってたら、いろんな国の人がたくさん通り過ぎ、いろんな国の言葉が、言語というより楽器の音の質感の違いのように聞こえてきたことがあった。いろんな国の言葉が、意味よりまず音になったとき、たまたま聞いた日本語が、外国語のように音になっていた。そうした「にほんご」は、極東の島国に生まれてもう何やったって文化的なものは仕方ないよな。。。みたいないじけた考えを一旦キャンセルする力があった。一旦ではあったけど。。。

 

「音とイメージが、イメージと音が自動機械のような精密さでうまくかみあい、その結果〈意味〉などというつまらぬものが入りこむ隙間が残されていないときにのみ、言語は言語そのものであるように思われた。イメージと言語が優先する。」ベンヤミンシュルレアリスム
(Twitter @w_benjamin_bot より孫引き)

 

言葉には3つの住所(address)がある。響き、綴り、意味。それぞれ異なるご近所さん(隣人)がいる。声=空気=pneuma=spritと、綴り=書字=scriptと、差異(split)としての意味。3つの空間のそれぞれの不動産。現実とは異なる空間に不動産を持つことで、誰でも「土地持ち」になれる*1。それぞれのご近所さんに向かって(ad-)、三つの衣装(dress)を使い分ける。住所(ad-dress)とは、隣人に向かう(ad-)衣装(dress)であった。汝の隣人を愛せよ。

 

シニフィアンシニフィエがずれていくことで、隙間=空間が生まれる。シニフィアンの音が反響する。記号(sign)が音響空間として設計(design)され、やがて音が響き渡ることで、意味から脱し、脱記号化(de-sign)される。

 

科学的な言説では、記号と意味は一対一対応に近づく方が望ましいが、建築的な作業としては、空間が広い方が心地よいことも多い。「煙に巻く」という表現があるけど、言葉によって「煙」を、つまり広がりのある空間を出現させようという意図なら、それは目的と言っても良い。固体のような液体のような気体のような空間的な煙。加湿器として機能しようとしている。もくもく。言葉とは、一種の加湿器でもあったのだ。翻訳という作業も、きっと一種の反響空間を作っている。

 

まだ言葉というものが不確かだった時代、言葉を操れること自体が、不可思議で精霊的(spiritual)な能力だったのかもしれない。ちょうど文字が現れ始めた時、書字・綴り(script/spell)を扱えることが魔術・呪文(spell)であったように。

 

こども(幼児~学童)の養育
子供(学童~思春期)の教育
こどもが、子どもとなり、子供になっていく。声の文化から、文字の文明へと移っていく。こどもには、まず声が大事。直線的に変化するのではなく、地層的に重なっていくのは言うまでもなく。

 

「ラファエルのように描くのに4年かかった。「こども」のように描くのに一生かかった。」(パブロ・ピカソ

 

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<本書あとがき抜粋の帯より>
・「読み」「書く」ことよりも、「話す」「聞く」ことを先行させています。
・言語を知識というよりも、自分と他人との間の関係をつくる行動のひとつとして、まずとらえています。

 

*1:3つの空間にいるそれぞれの不動産業者。不動産業者には土地測量(geo-metry)が必要だ。