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オブジェクト思考ブロギング

翼ある言葉

人はみな初めに天使からこぼれ落ちて生まれてくる。
柔らかく光る肌にその痕跡を残している。
その乳香は芳しく、地上のものとは思えない。
彼らもやがて毛が生え、血を出し、欲にまみれる。
ヒトであることを思い出し、楽園を失う。
アダムはイブの血を知り、イブはアダムを肉を知り、楽園を失った。

 

ヒトの内臓から出る生暖かい息はやがて声となり、
その声から翼ある言葉が生まれることになった。
人は、この翼をもって、天上に向かう羽を得る。
天使の翼は失ってしまったが、翼ある言葉で人は天上に向かう。
天上に向かう翼ある言葉は、天井を突き抜け、オイコスの重力を追い越す。

 

大学とは、天使と動物をつなぐ梯子である。
天を仰ぎ人間 (human) ばかり見ていると、地に這うヒト (Homo sapiens) を忘れ、2つ足の動物が天使にしか見えなくなる。これを法学者と呼ぶ。彼らは動物の内臓や血肉の生温かさを知らない。地に這うヒト (Homo sapiens) ばかり見ていると、天に跳ぼうとする人間 (human) の翼を忘れ、動物の内臓と血肉しか見えなくなる。これを医学者と呼ぶ。彼らは翼ある言葉が飛ぶ先を知らない。

 

大学 (uni-versus) とは、二人の対抗弁論 (versus) と一人の審判からなる法廷である。二人の女神たちが、かたやポリスと旧約と自由市民を、かたやオイコスと新約と奴隷を、それぞれ観客につけて法廷の闘争を戦う。言葉においてかたや雄弁である。証拠 (evidence) においてかたや雄弁である。論理においてかたや雄弁である。情念においてかたや雄弁である。年老いた神学は哲学に審判の席をゆずり、この人もまた定年退職とととも科学にその席をゆずった。

アレイオス・パゴス

アイスキュロス『オレステイア』三部作の最後の舞台、アレイオス・パゴスは裁判の場所として法廷演劇の舞台ともなる。実際のアレイオス・パゴスは最高権威の位置づけだったのようだが、『アテナイ人の国制』によると、古拙からソロンまで司法のニュアンスが結構強そうな印象を受ける*1。そして、この名前は戦いの神アレース(というか彼が被告になる神々最初の裁判?)に由来しており、かなり古くからあるらしい。アイスキュロス『オレステイア』三部作として表現された最高権威アレイオス・パゴス=裁判所の設立譚は、なんらかの歴史の神話的な伝承だったのだろうか。

 

「アレイオス・パゴスの会議は法律の擁護者で役人が法に従い治めるように監視していた。不法な目に遭った者は、どの法が犯されているかを示してアレイオス・パゴスの会議に弾劾を提起し得た。」(村上訳『アテナイ人の国制』第四章)
「ソロンは各部族から百人ずつ、都合四百人から成る評議会をつくり、アレイオス・パゴスの会議を、従来も国制の監視者であったように法律擁護の任に当たらせた。」(同第八章)

 

アレイオスパゴスの権力が弱まり民主的な方向に移行する際も、何かしらの法廷舞台への参加が重要だったよう。

「官職に関する点は以上のようであった。ソロンの制度では次の三点が最も民主的に見える。第一に、そして最も重大なのは身体を質にとって金を貸すことの禁止であり、次には何人でも欲する者は不正を加えられている人々のために償いを求めることのできる点で、第三には法廷への審理の回付であり、<これにより>大衆は最も勢力を得たといわれる。なぜならば民衆は投票権を握ったとき国制の主となるからである。」(村上訳『アテナイ人の国制』第九章)

 

時代を遡ると、『イーリアス』18歌のヘパイストスの盾のところで、二人の男の係争が描かれている。古拙の時代のギリシャにあった裁判(闘争)の形式というのは興味ひかれるものがある。感覚的には、オリンピックの競争と審判による決定に近い。

「またほかの場所では多数の人間が集会場に集まっている。ここでは係争が起こっており、殺された男の補償をめぐって、二人の男が言い争っている。・・・双方は仲裁者の最低による結着を望み、民衆はそれぞれに味方し、二派に分れて声援を送り、触れ役たちが出て制止にかかる。長老たちは・・・次々に立ち上がっては、代わる代わる己れの裁定を述べる。場の中央には黄金二タラントンが置いてあり、これは最も公正な裁定を下した者に与えられる。」(松平訳『イリアス』第十八歌)

 

イーリアス』は怒りを主題として、口の討論の形で始まり、血の闘争の形で終わる。怒りにまかせたアレースの血の狂乱を踏みとどまるも、最後までは舌戦の接戦で戦い切れなかった。古拙の時代には口論を徹底できなかったとも、血の闘争でなければ盛り上がりに欠けるとも言える。

 

クリリンのことかー!!」と怒ったところで、弁護士に相談してフリーザの告訴を検討されても、文明の香りこそすれ盛り上がりにかける。ましてフリーザと外交的な交渉を始められたら、文化の香りこそすれもはやドラゴンボールとは言えない。これはサイヤ人に限らず、人間になりきれぬヒトの限界であるかもしれない。しかし、アテーネーの制止として顕されたアキレウスの血の闘争を一旦抑える葛藤には心うつものがある。「アガメムノンがこういうと、ペレウスの子は怒りがこみ上げ、毛深い胸の内では、心が二途に思い迷った。――鋭利の剣を腰より抜いて傍らの者たちを追い払い、アトレウスの子を討ち果すか、あるいは怒りを鎮め、はやる心を制すべきかと。かく心の中、胸の内に思いめぐらしつつ、あわや大太刀の鞘を払おうとした時、アテネが天空から舞い降りてきた。・・・「わたしはそなたがもし素直にわたしのいうことを聴いてくれるのなら、なんとかその腹立ちをおさめさせたいと願って空から降ってきた。・・・」「腹は煮えくりかえる想いではありますが、女神よ、お二方のお言葉には従わねばなりません。・・・」」(松平訳『イリアス』第1歌)

血の闘争を知の闘争とするにはしばらく時間がかかるが、ヒトにおいて不可能なことではない。

 

欲望と情念と愚鈍さにまみれたヒトにとって、予定調和の政治社会は天使のものに過ぎない。血を求めるこの動物が天上に昇る未知の道は、血の闘争を知の闘争に求める法廷闘争にある。法廷闘争とは、スポーツでもあり、また演劇でもある。スポーツとは演劇のひとつであるのか。演劇とはスポーツのひとつであるのか。ヒップホップもまた、血の闘争から知の闘争に至るムーシケーの業のひとつであるのか。

 

tragedy=tragodia=山羊・歌
英雄(heros)は皆死ぬ。運命に導かれて運命として死ぬ。
彼らは皆、犠牲の山羊 (scape-goat) として死んでいった。
犠牲の山羊 (sacrifice) として真で逝った。
彼らは皆、半神(heros)となり後の世まで歌われ続ける。
犠牲の山羊の肉と血として捧げられた。
我々はみな肉と血を好む。
犠牲の山羊の肉と血と歌を好む。

闘争の祭りで血祭りにあげる。
血のお祭りでアゲていく。
地のお祭りでアゲていく。
知のお祭りでアゲていく。

悲劇の誕生 - ideomics

 

 二大政党/正当/正統性は、法廷闘争に由来している。
法廷闘争もまた、二大政党/正当/正統性に由来している。*2

 

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文明 (civil-ization) の核心には法があり、法の核心には裁判があり、裁判の核心には法廷弁論がある。文明の革新にも法があり、法の革新にも裁判があり、裁判の革新にも法廷弁論がある。もしかすると、政治の成立の核心と革新にも裁判があるのかもしれない。

 

「これに対して正義[の徳]は国家的性格のものである。なぜなら、[法にもとづく]裁きは国家共同体の秩序であるが、裁きとは正しいことの判定をくだすことだからである。」(牛田訳『政治学』1253a)」

ἡ δὲ δικαιοσύνη πολιτικόν: ἡ γὰρ δίκη πολιτικῆς κοινωνίας τάξις ἐστίν, ἡ δὲ δικαιοσύνη τοῦ δικαίου κρίσις. (Ἀριστοτέλης, “Τα Πολιτικά”)

 

「結合して一つの団体をなし、彼らの間の争いを裁定し、犯罪者を処罰する権威を備えた共通の確固とした法と裁判所とに訴えることができる人々は、お互いに政治社会のうちにある。それに対して、そうした共通の訴えるべき場を地上にもたない人々は、依然として自然状態のうちにある。」(加藤訳『統治二論』後編政治的統治について第7章政治社会について (Of Political or Civil Society) 87)

 

裁判(法)的統治 (political or civil government) は、自由を重んじ、家政的統治 (economic government) は生命・安全を重んじる。事後の裁判は、自由を意味するが、個人の自立と自律を、責任を求める。そして、ヒトの知恵とは先立つものではなく、むしろ後知恵であるならば、事後の判断による規定を基底とするのが正しい。

 

司法が立法に先立つのはなぜか?
なぜなら、人は後知恵の動物であるから。
先の知恵は、不死の神々のものであり、
死すべき人は、後の知恵があるだけでも、
よしとしなくてはならない。
ヒトであるだけでは、
その後の知恵さえもないのだから。
プロメーテウスの知恵はヒトには届かず、
ただ火と技術の力にほのかにやどる。
エピメーテウスにもたらされたヒトの力は、
祭り事に集まる毎の後知恵で、政をはじめて人となる。

 

「近代イギリスにおける議会のモデルが中世ヨーロッパにおける領主の下級裁判権(16世紀の歴史家シャルル・ロヮゾーのいう「村の裁判所」)であることは、モンテスキューがこれをヨーロッパにおける「一つの一般的な政治システム」と呼んでいることからも明らかである。これが「政治システム」であるというのは、その原型が「ゲルマン人の慣行と慣習法」つまリゲルマン人の裁判集会(政治集会)mallus, Dingにあり、この手続を領主が「纂奪」したとされてきたものであり、そこからより「一般的」なものに発展したとみなされるからに他ならない。」(アダム・スミス『法学講義』における私法と公法 : モンテスキューと講義体系の転回問題*3

*1:名前だけの共通かもしれないが、少なくとも現代ギリシャでは最高裁に当たるらしい

*2:「政治に固有なる概念は、敵、味方という区別である。この区別は、人間の行為と動機に政治的意味を付与するものである。」(シュミット『政治的なるもののの概念』)

*3:https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6189&item_no=1&page_id=13&block_id=21

誓約の制約

古の賢者たちは、かつてのローマについてこう伝えている。
エトルリアには技術において、ギリシャには学芸において、ガリアには体格において、カルタゴには商売において劣るが、神々への敬虔さにおいてローマは他の国々のどこにも負けない」と。しかし、ローマの神々とは、彼らだけに限られるものではない。彼らの敬虔さとは、神々の前でなされる誓いの神聖さであり、誓いに殉じるローマの気質を伝えているのではないだろうか。

 

「レークスは、レゲレlegere(もともとは「述べる」、ギリシア語のレゲインlegeinを参照)から派生しており、法律ラテン語では「制定法」(公的なレークス、レークス・プーブリカ lex publica)だけでなく「私的な言明による法定立」(私的なレークス、レークス・プリウァータ lex privata)も意味した。古拙な時代では、レークス・マンキピオー・ディクタは「言明」(ヌンクパティオnuncupatio)とも言われた。・・・十二表法 (6,1) は、以下の通り定めていた。「ある者が拘束行為または握取行為を行なおうとするときは、舌で言明したことが有効な法となる。」(ウルリッヒ・マンテ『ローマ法の歴史』P40)

 

神々の前で誓いの言葉を声に出すことは、
神々に委託した神託の言葉として、
紙々に委託した信託の文字よりも重い。
なぜなら、神々は紙々に勝るものであり、
息と声は、文字よりもその人の内臓から来るものであるから。
神々の法廷は、紙々の法典に先んじる。
神託は、 神々から託されたものではなく、 神々に託すものとなる。
oralityとはoracleからくるものであり、神託 (Oracle) は太陽 (Sun) さえも飲み込む。

 

「こうしてすべての人々の心が敬虔の念で満たされると、法律や罰則に対する恐怖にかわって、信義と誓約が市民を支配した。ローマ人がみな、この王を唯一の範例のようにして美風を確立すると、近隣諸国の人々も・・・敬意を持って接してくるようになった。」(リウィウス『ローマ建国以来の歴史』第1巻21)

 

"lex rex"
神との契約でもなく、神々から託されたものでもなく、神々に託すもの・・・私たちもその残り香をかすかに知っている。結婚式には、教会だけには収まらない神託の残り香がある。確かに役所に届ける紙は政府の助けを呼ぶ。しかし、人々は誓いの言葉をより重んじている。神々の法廷は、紙々の法典に先んじる、と。実のところ、教会式とはローマの神々の香りを伝える法廷の儀式なのではないだろうか。

 

法廷に響く声は、polisとcivitasを囲む城壁に響き渡った。その声は山々にこだましたが、やがて空の中に消え去り、風の音だけが今は聞こえる。かろうじて残された文字たちのささやき声が、その後に法と呼ばれ、今も法廷にこだまする。教会式にもこだまする。風の音からささやき声を聴く人々がいる。こだまでしょうか。いいえ、だれでも。

 

"la mort de l’homme"

"la mort de l’homme"
ある外科医の息子のかけ声が、sapiensを覆うhomoの皮膚にメスを入れる。隠れていたsapiensがhomo=hommeの皮を破る。hommeの皮を被ったsapiensが、その皮を破り外へ出る。

 

朝起きて鏡を見る。
鏡を見て、自らを知る。
鏡を見て、自らを識る。

 

女たちが
鑑となる神の先に、
鏡にある髪の先まで、
自らを一層識るようになったとき、
sapiensもまた、また新たな皮を見つけることになった。

 

新しいぶどう酒は新しい皮袋に、と昔の人は伝えている。だれも古いぶどう酒を新しい皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋を腐らせる。そしてぶどう酒も皮袋もむだになる。新しい皮袋には新しいぶどう酒を入れるものである。そうすれば、皮袋もぶどう酒も腐ることがない。

 

五つの皮袋のぶどう酒を、五千人に分けたとき、皮袋に残ったぶどう酒は十二袋になった。七つの皮袋のぶどう酒を、四千人に分けたときには、皮袋に集めたぶどう酒は七袋になった。ぶどう酒は注ぐほど、皮袋もぶどう酒も増えるものだと、我々は知っている。

 

男は女に美を望む、と人は言う。
半分正しく、半分間違っている。
男たちは、本当は美を恐れてもいる。
美による魅力もまた実力のひとつであり
暴力のごとき支配ともなる。
人々は、有り余る力がもつ支配を恐れている。

 

美による魅力とはその名の通り力の一つであり、
暴力と同様に、支配の手段ともなる。
知は力なり。Knowledge is power.
美は力なり。Beauty is power.
本当はみなそのことを知っている。

 

アレクサンドリア図書館


かつてのアレクサンドリア図書館には、ψυχῆς ἰατρείον (psyche - iatreion) と掲げられていたらしい。書物・図書館とは、魂の診療所である、と。

 

これは、書物にある情報そのものが癒しの機能を持つというよりは、書物に向き合う過程が診療所の診察のように機能している、と考えるところだろうか。書物の知識とは、書物から得られる知を識ること。識ることを、内面化・主体化として、かつ自分と知の関係を再帰的に認めることとすると(認知=cognition vs 認識=re-cognition)、書物という鏡の知を通して、自らも識ること。

 

さらにさかのぼり古拙の時代には、ψυχῆ (psyche) とは息であり、死んだときに飛び出るものとして考えられたものであったらしい。「生者-死者=」の演算として導かれる。「生者-死者=」の演算として導かれたものの診療所*1。書物が棚に並ぶ時、彼らは死者の位牌として、生者を見つめることになる。生者は死者に見つめられることになる。不死の神々は死ぬことはない。人々は、死んで紙々となる。

 

ψυχῆς ἰατρείον (psyche - iatreion)・・・死者たちの魂の診療所。死者たちも、自分たちの声を聞いてほしい。その声を聞く人が訪れる。アレクサンドリアの図書館は、「彼らの魂」の診療所となる。紙をのぞくとき、お前も紙にのぞかれている。紙紙の鏡の先からのぞかれている。アレクサンドリア図書館・・・この建物は死者たちの声で騒がしい。生者が紙に向かい、死者の声を聞くとき、鏡の先に自らと死者の声を聴くことななる。こだまでしょうか。いいえ、だれでも。

 

*1:現代の医学では、死とは一種の境界線を引くものでもある。医学に対しては一線を超えたもの。数に対する無限∞に近いものがある。数を扱う算数と、数を超えたものも扱う数学の差がある。アレクサンドリア図書館=ψυχῆς ἰατρείον (psyche - iatreion) は、医学に対して無限の扱いの問いを投げかけている。

法=DNAの生き物

 

「我々の組織のDNAが・・・」といった言葉にはレトリック以上のものがある。ただし、DNAという比喩を使うには、複製可能な形で保存され、また複製され続ける必要がある。例えば、文字による法。組織 (organ-ization) が、組織 (tissue) や、器官 (organ) のようにDNAを持つならば、それはもう生きている物となっている。組織や器官を超えて、自立した個体となるならば、もはや生き物の一種になる。

 

文字となった文と法こそが、複製可能なリヴァイアサンのDNAであり、生きたリヴァイサンの中で複製され続けている。死んだ生き物の中では複製されることがない。これもまた、生死ある生き物の一種だった。とりわけ、法権利としての正義、あるいは、正義としての法権利が、この生き物の中心にある。これは、文でもあり法でもある。法でもあり文でもある。

 

ἡ δὲ δικαιοσύνη πολιτικόν: ἡ γὰρ δίκη πολιτικῆς κοινωνίας τάξις ἐστίν, ἡ δὲ δικαιοσύνη τοῦ δικαίου κρίσις. (Ἀριστοτέλης, “Τα Πολιτικά”, 1253a)
「これに対して正義[の徳]は国家(ポリス)的性格のものである。なぜなら、[法にもとづく]裁きは国家(ポリス)共同体の秩序であるが、裁きとは正しいことの判定をくだすことだからである。」(牛田訳『政治学』第1巻第2章1253a)

 

ここを字義通りに読むと、裁判=正義がポリスという共同体の核心であり、ポリスとは裁判=正義の共同体ということになる。ポリスの術 (politics) というのは、裁判=正義の術を中心に据えることになる。 実際アリストテレスによると、市民の定義には、裁判への参加が含まれる*1

 

裁判はともすると「共同体」の秩序の破壊として忌み嫌われる。しかし、FIFAワールドカップのような武闘の舞踏による、正義(ディケー)の奉納という祭り事、神への奉納というマツリゴトと考えると、政(まつりごと、ポリスの術)に先立つもの、ポリスを作り出すものとは言えないだろうか。法律を中心にみると、立法は司法に先立つが、裁判=正義(ディケー)を中心にみると、司法は立法に先立つ*2

 

正義の奉納という祭り事=マツリゴト=政への参加。。。現代の感覚からすると、市民による裁判というのはかなり違和感がある。人民裁判というと、ともすると魔女狩り的な狂気を意味したりするから。裁判自体の決定だけを考えるなら、専門家に任せた方が良い。しかし、社会全体への効用を考えるならば、市民参加は大きなメリットもあるのだろう。局所最適解と全体最適解との違い。ただし、裁判からのresilienceを前提として。

陪審制、とりわけ民事陪審制は、判事の精神的習性の一部をすべての市民の精神に植えつけるのに役立つ。まさにこの習性こそ、人民をもっともよく自由に備えさせるものにほかならない。」(トクヴィル・松本訳『アメリカのデモクラシー』第1巻第2部第8章P187)

家庭の私法としての家政な司法 - ideomics
祭りの後の後の祭り - ideomics

 

アイスキュロス『オレステイア三部作』も、ポリスの存在を前提にその中での法廷の誕生を描くもの*3というよりは、むしろ、正義=裁判(ディケー)を奉納する場としての法廷(祭りの場)の成立が、(規範的な古典古代の)ポリスを成立させているということを描いているのかもしれない。そして、法廷が議会のモデルになる。アテナイの立法も、新しい法と古い法の2項対立としての法廷闘争という形式で展開されたらしい*4。政党としての二大政党制ではないが、まさにGrand-oldに対するBrand-newの法廷闘争モデル。

 

裁判の始まりは怒り。恐れで逃走せず、怒りで闘争する。血の武闘を、知の舞踏とし、復讐の女神(エリーニュエス)が慈しみの女神になり、懲罰の女神(ディケー)が正義の女神(ディケー)になる。アキレウスの怒りが、ポリスの始まりを告げ、オレステスアテーナーによりポリスが共同体として成り立つ。

 

μῆνιν ἄειδε θεὰ Πηληϊάδεω Ἀχιλῆος
怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウス

二大正当/正統/正闘/政党性は、イーリアスに由来している。
イーリアスもまた、二大正当/正統/正闘/政党性に由来している。

 

怒りの言語化というのは、いかに暴力的であっても、古拙の暴力そのものからは一歩前進している。懲罰のディケーが、法廷のディケーに変容し、血の武闘から知の舞踏に変容すると、さらに一歩前進する。裁判以前(pre-justice)なものが、裁判(justice)へと進む。プラトンソクラテス解釈も、まさに法廷弁論(『ソクラテスの弁明』)から始まっている。始まりは、裁判=正義(ディケー)をめぐる解釈でもある。(ただし、後に独自の正義の定義となる)*5

 

「動物のなかで人間だけが言葉をもつ。・・・人間に独自な言葉は、利と不利を、したがってまた正と不正を表示するためにある。・・・人間がそれら[善と悪、正と不正など]を共有することが家や国家を作るからである。」(牛田訳『政治学』第1巻第2章1253a)

 

リヴァイアサンは眠りの中で、古代ポリスの夢をみる。朝目が覚めて、自分の姿を鏡で見る。自分の朝が始まる。自分の仕事に出かけなければならない。

ἐκ τούτων οὖν φανερὸν ὅτι τῶν φύσει ἡ πόλις ἐστί, καὶ ὅτι ὁ ἄνθρωπος φύσει πολιτικὸν ζῷον, (Αριστοτέλης, Πολιτικά 1253a)
かくて、以上から明らかに、ポリスは自然によるものの一つであり、そして人間は自然によってポリス的動物であり、リヴァイアサンも自然によるものの一つであり、そしてリヴァイアサンも自然によって法=正義(DNA)の生き物である。

*1:「ところで、市民はただ国内に住んでいるという事実によって市民なのではない。・・・さて、無条件的な意味の市民には、裁判と公職に参与すること以外にいかなる規定も与えられない。・・・われわれは、市民とはこのような仕方で公職に参画するものであると定めることにする。」(牛田訳『政治学』第3巻1275a)

*2:CiNii 論文 -  アダム・スミス『法学講義』における私法と公法 : モンテスキューと講義体系の転回問題 (田中克志先生退職記念号)によると、モンテスキューにせよ、スミスにせよ、自分たちの歴史から、政治の始まりとしての裁判を見たということらしい。ガリアやブリタニア近くの土地でも、裁判が政治に先立つ、と。

*3:現代人の投影

*4:http://assls.sakura.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/ooe-1.pdf

*5:正義の変遷 - ideomics

テアトロクラティア

 

悲劇の誕生 - ideomics

プラトンは『法律(ノモイ)』において、テアトロクラティア(観客支配・観客権力)を批判するが (701A) 、この戯曲家こそが、ソクラテスを主人公として観客の喝采による支配を試みているのだと我々は知っている。彼は、脚本家であると同時に、自身が観客の第1者となる*1。なんとテアトロクラティアな男だろう。彼は、神々から観客の地位を奪ったのだ。

 

役者の声はポリスとともに過ぎ去り、書かれた文字だけが残った。舞台に演じる役者たちはもういない。ただ観客だけが残されている。不死の神々も観劇から立ち去り、死すべき見物人だけが残された。見物人たちは話し合う。劇の感想、役者の魅力、脚本の出来、、、見物人たちは静かに話し合う。彼らは賢かったから。

 

アゴラの舞台から言葉だけが残り、やがて戯曲の文字になった。演じられた体と声はどこかになくなり、文字だけが残った。ソクラテスプラトンの戯曲は舞台で演じられることもなく、文字の戯曲として私たちに残されている。彼の『ポリテイア』とは、この残された戯曲たちだったのだ。ポリスは失われたが、『ポリテイア』は残った。彼らに残された文字たちは、自らの意思をもって整列し、やがて法文の文法と、文法の法文となった。ポリテイアの誕生である。

 

古代のポリスとは、舞台の上の言葉でもあり、言葉により作られた舞台そのものでもあった。ポリテイアとは、戯曲の上の言葉でもあり、言葉により作られた戯曲そのものになった。 母なるポリスは、産褥熱で命を失うことになった。彼女は誰よりも子どもたちを心配していた。残された父は、独り身で途方に暮れている。神ならぬ紙と文字で編まれた聖体ならぬ生体は、子どもからやがて大きな怪物となり、人々の生態を支配する。この子を心配していた母の姿はもういない。リヴァイアサンの誕生である。

 

この世界には、観客 (theoros) しかいなくなった。役者はどこかへいなくなった。観客 (theoros) の力 (kratos) があまりに強かったから。感想を観想する (theorein) 観客 (theoros) しかいなくなったこの世界に舞台はもういない。観想(テオーリア)的生活に、観劇はもういない。"vita activa"と言ったある女は、actするactorがいないことを嘆いている。観劇の好きなこの女は、役者たちをもっと見たかった。この女もまた、テアトロクラティア(観客支配・観客権力)を批判する。

*1:「対話篇におけるプラトンの不在は、描かれた対話と著者との根源的な距離をあらわしている。・・・対話に巻き込まれている時、人はその対話を見ることはできない。対話を書くこと、それを読むことが、対話を目の前におき、冷静な判断の対象とする。プラトンは対話から自らを消すことで、まさに、対話する自身を別の視点から見つめ直そうとしたのである。」(納富信留プラトン 哲学者とは何か』P22)