ideomics

オブジェクト思考ブロギング

神と紙とカミさん

かつて神に憑かれた人々は、神に疲れてきた。
神に仕えることに、疲れてきた。
喜び勇んで、新しいカミを迎え、紙を使うとともに、紙に憑かれた。

 

神が紙となったとき、律法は法律となり、会社が社会となった。神と君の統治を倒置し民の統治となり、なおさら紙は一層必要だった。東大に登第し、統治の等値に政策の製作を学んだ者が、紙を司った。法文の文法で社会の法治は進んだ。*1

 

文学(letters)は手紙たち(letters)から始まる。lettersはみな宛名を持っている。
投票用紙、それは宛名だけの手紙(letters)であり、手紙(letters)の最古の形を示している。

 

穴埋めペーパーテスト・事務書類・・・これらはscriptへと完成されるのを待っている、scriptの前のpre-script。これも一つのprescript-ion=処方箋であるならば、効用と副効用は個別に吟味されるはずだった。いや、紙自体が、文字を待つscriptの前のpre-scriptであったのかもしれない。これもまた一つのpre-script-ion=処方箋であるならば、効用と副効用は個別に吟味されるはずだった。

 

こうして、紙に憑かれた人間たちは、紙にも疲れてきた。
紙に仕えることに、疲れてきた。
紙幣にも疲弊した。
紙幣、それは宛名のない送り主だけの手紙であり、かろうじて文字を残している。数だけの手紙となり、手紙(letters)から文字たち(letters)を追い出そうと企んでいる。

 

神につかれた人々を嗤う時、お前もまた紙につかれている。
神と紙につかれた人々は気づいた。古来から未来に至るまで、カミさんに憑かれている。神と紙の時代にも、おカミさんがいた。憑かれていても、決して疲れてはいない。断じて疲れてなどいない。

 

「自己陶冶における結婚というこの主題系の、つまり一つの哲学全体が展開してきたようなこの主題系の逆説は、以上のとおりである。すなわちそこでは、女性=妻は最高度の他者として価値が付与されているが、しかし夫は、彼女を自己との統一単位を形作る者としても認識しなければならない。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆)

 

*1:しかし、会社の法治は放置されたところもあった。社会は市場化が進んだが、会社は私情化が進んだところもあった。

家庭の私法としての家政な司法

「dominium(※所有権概念)こそは、実は発達した「ローマ法」像の基礎に存するものである。」(木庭顕『新版ローマ法案内』第4章 所有権概念の登場とその帰結 P127)

子ども同士のおもちゃの喧嘩が絶えない。不思議なもので、人は他人が何かやってると羨ましくなって、自分も欲しくなるらしい。自分の子どもの喧嘩の処理を考えると、法というものへ、生活でのリアリティが湧いてくる。

 

dia-lec-ticsを拡張した不完全なtria-lec-ticsのシステム

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共生のための競争の作法として、いきなり「和をもって尊しとなす」のではなく、≠を保存しつつ、他方で=を成り立たせ、=を保存しつつ、他方で≠を成り立たせ続けるのが、おそらく大事っぽい。完全に素人だけど、明文の文明としての法律に先立つ、言葉の、言の葉による競争・闘争としての司法の体制というのが、「法」として重要なのかもと思ったり。子どもの集団的発達を見ていると、「法」においては司法の練習は立法の練習に先立つ(先だった方が良さげ)、という感じもするが、どうなんだろう。

 

「実は、iusとlexの区別はローマ法の最大の特徴であると言ってもよいであろう。古代ローマでは、すでにたくさんの「法律」(lex, leges)が制定されており、問題が起こったときに適用されていたが、もっと大切にされたのは、ケース・バイ・ケースで当事者の権利(ius)を正義(iustitia)に適った方法で見出すということであった。」(ホセ・ヨンパルト『教会法とは何だろうか』)

 

ルールを決めておいて従わせる、というより、争いから均衡・衡平 (just) が生じる方向に調整 (ad-just) する。「ルールだから」と上から降ってくるよりは、主体化しやすいという印象はある。法の「主体化」がテーマとすると、司法システムから入るのは結構大事かも。面白いことに、このシステム取り入れてから、もめごとが起こると、言い分聞いて衡平に判断しろと圧力かけてくる。夫婦のちょっとした諍い(朝の忙しい時間にコーヒー飲んでてクレーム入れられるとか)に、子どもが同じような介入してくる。

 

陪審制、とりわけ民事陪審制は、判事の精神的習性の一部をすべての市民の精神に植えつけるのに役立つ。まさにこの習性こそ、人民をもっともよく自由に備えさせるものにほかならない。」(松本訳『アメリカのデモクラシー』第1巻第2部第8章)

 

「法律家は利益と生まれでは人民に、習性と趣味では貴族に属する。彼はこの両者の自然の結び目、二つをつなぐ環のごときものである。・・・法律家精神と民主的精神とのこの混合なくして、民主主義が社会を長く統治しうるとは思わない・・・」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第1巻第2部第8章P174)

 

魂の救いは最高の法なり (Salus animarum suprema lex) をもじると、最高の法は魂の救いなり、といった感じか。・・・すいませんが、ラテン語はできません。just-iceはちょうど氷になる温度。セルシウスはかつて、1気圧な日常生活においてそれを零度と定義とした。彼は、水のように不可欠な液体を固体に、そして個体へと固めることを、just-iceと呼んでいた・・・というわけではないようだ。

 

ディズニーランドの入場制限

ディズニーランドを探していたら・・・ここにあった。浮世が、この土地が、ディズニーランドそのものだった。ディズニーランドで仮装する。浮世の土地で仮装する*1。ディズニーランドが仮想する。都市空間 (polis) が仮想する。内なる世界を住まい(テリトリー, oikos)として、浮世を舞台、演劇の舞台=都市空間とする。雅な都は舞台装置、テーマパーク。ハレの世界として特別な演技を*2。ディズニーランドは、祭り事の始まりとともに、政の始まりを告げている。

 

"I hold the world but as the world, Donald,
A stage where every man must play a part,
And mine a merry one."
- Mickey, The Merchant of Disney"*3

 

ミッキーが君になった。君もミッキーになった。マウスが奉られている。マウスに仮装している。何かが転倒されている。内は外になり、外は内になる。君となったミッキーの商いで、君も飽きない。。。がしかし、ディズニーランドには入場制限があった。

 

ディズニーランドの入場制限は6, 7万人。この数字は、古代ポリスの市民数を元に決められている。
味の素スタジアムの収容観客人数は5万人。この数字もまた、古代ポリスの市民数を元に決められている。

 

ソクラテスのサンバ術 - ideomics

ソクラテスのSamba術で、みなもっと踊っていたかった。がしかし、n>k (アリストテレスによれば一望できる範囲、プラトンによれば数千世帯) となり、ポリスに人が収まらなくなった。劇場の城壁はなくなり、平らに広がった。ポリスの術 (politics) から行政国家の術 (statics) になった。ポリスの舞台から、舞踏の武闘は去り、部党の武闘が残った。

 

「声の文化の…その多くは、ことばによる演じ語りにおいて、その生活スタイルにおいてさえ、文字に慣れた人々の目から見ると異常に闘技的であるように見える。」(オング『声の文化と文字の文化』)

 

stateの術、statics
stateを信じるstatist
statistの術、statistics
新たな闘鶏として統計が生まれた。

 

staticsにおいては、個人の名前ではなくカテゴリーで代表され、こうしてstatisticsの対象になる。politicsの延長ではあるもの切断面がある。投票用紙は宛名だけの最古の手紙であり、かろうじて個人への名刺として、固有の名詞が保存されている。

 

言葉による闘争・競争。数字による闘争・競争。統計による闘鶏の術。evidence(証拠・証言)という文字は、法廷闘争・弁論モデルをevidentにし、文明を明文にしているようにも思える。しかし、clinicalな場でcriticalになるのは、いろんな方向に難所がある。極端なことを言えば、カテゴリーで語る場合は、スパッとstatを出し、スカッとstatで語らなければならないが、しかし、それはかなり厳しい要求だ。

*1:人生には二通りの生き方しかない。ひとつは、コスプレなど何もないと思って生きること。もうひとつは、あらゆるものがコスプレだと思って生きること。(伝アインシュタインの名言を、迷言に改変)

*2:political correctnessは、theatrical correctnessと理解するのがおそらく、一番無難だろう。

*3:I hold the world but as the world, Gratiano, A stage where every man must play a part, And mine a sad one. - Antonio, The Merchant of Venice

ソクラテスのサンバ術

宮を囲んで子どものように友と共に舞い踊り、みな宮の子になった。
宮の子が祭りごとに集まるごとに、都の政になった。
都が1となり、都が市になり、市が都となり、市もまた1となり、都市になった。

 

現実的には非対称だが、祝祭で水平化する:
2のまま2を1とする過程と学ぶ課程を、問答の術 (dialec-tics) とし、
3のまま3を1とする過程と学ぶ課程を、三位の術 (tri...-tics) とし、
・・・
nのままnを1とする過程と学ぶ課程を、政の術 (poli-tics) と、仮定する*1

 

X=A1=A2=...=An
であるが、同時に、
A1≠A2......A1≠An,
A2≠A3...A2≠An,
...
..
An-1≠An
Xが最大の創意工夫 (invention) であり、互い同士の融合は「なく」、個別を保証しつつ、Xとのみの一体化。

 

自らをN分割して、NのままNを1とする過程と学ぶ課程を、個人(in-dividual)の術と呼べるだろうが、ただし、now-hereの自分は、今やno-whereな過去の自分に対して特権的であり、完全に同格とはいえない。ここでもX=identityが最大の創意工夫。共時の論理においては無理に見えるが、正直まだよくわかっていないが、とりあえず経時のズレを表しているのか、というところでごまかす。

 

無知(不知)の知。ヒト/人/人間としての知力(sophia, s1, s2,...sn)の差は大きくあるけれど、自然や宇宙全体に想定される無限の知(Sophia, S)に対すると、sk (1≦k≦n) がどんなに大きくても、Sに比べると0に近い。という意味で水平化され、0を中心として一体化する。カーニバル化される瞬間がある。

 

s1, s2,...snが、差異あるものの皆0に限りなく近づくカーニバル。ソクラテスの振り付けで踊るサンバ(Samba)術。現代では南アメリカの都市部に最もよく伝わっており、日本語では産婆術の当て字でよく知られている。彼は、dia-lec-ticsをnに拡張することで、既にpoli(poly)-ticsの踊りの振り付けもしていたのだった。祭り事で政。ダヴィドの絵画は、ソクラテスの最期を描いたように見えるが、踊りの振り付けをしているようにも見える。

 

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「ぼくの考えでは、アテナイ人の中で、真の意味での政=祭り事の技術に手をつけているのは、ぼく一人だけとはあえて言わないとしても、その数少ない人たちの中の一人であり、しかも現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政=祭り事の仕事を行っているのだと思っている。」(加来訳『ゴルギアス』521D改変)

 

*************

 

uni-versitas (versus)
対立を一に。ヨンパルト『教会法とは何だろうか』によると、persona juridicaが法人にあたるが、universitasという語も使われるらしい。大学論というのは、法人論も含んでいるのだろう。

 

「「法人」という制度は、教会法では国家法上の法人よりも古い歴史を持ち、またこの制度については相当の議論があった(例えば、何人で一つの法人が設立され得るか、・・・)。」(ヨンパルト『教会法とは何だろうか』)

 

「法人は、bona fidesに基づく信用を用済みとし、それに伴う厄介なコストを省くためのものであると考えられた形跡がある。これもまた所有権モデルの優越という歴史的事象の一環である。・・・しかし法人はその成り立ちからしてbona fidesの上にのみ組み立てうるという初歩は見失われている。まして、元来bona fidesを裏打ちしていた政治システムの要素を大規模に復元しなければならないという問題は意識されない。法人理論に内在する神学的基礎を復元するだけで、たちまちそのような課題は意識されるであろうに。」(木庭顕『新板ローマ法案内』)

 

*1:ただし、政の術 (poli-tics) のnは上限があるかもしれない。上限を超えると、統治機構(state)の術(sta-tics)になる可能性が高い。

Mamma-l, All Too Mamma-l

ドゥルーズによると、philo-sophiaとは、知(sophia)との友愛 (philia) らしい。敵と書いてトモと呼び、友と書いてライバルと読む。そんな距離感。一方で、sophiaとerosな関係があり、主体化・一体化(主体性と主観性)としての知との性愛関係、eros-sophiaがある。re-ligion=再結合、主体と一体化 (eros) =主体化がある。対極として、critique, science、いずれも語源に切断があり、客体化=脱主体化の運動。オブジェクト指向な思考の志向で切断する。客体化と主体化の往復、ピストン運動としてのphilo-sophia

 

cognition(認知、知る)
re-cognition(認識、識る)
re-を再帰性とする。再帰的な認知としての認識。自分の細胞を取り出し、より原初に近く多能な細胞へと脱分化させ、それを別方向に再分化して、自分に移植し返す。文を書く、自らと切り離す。ぺりぺりはがす。textをtextureとして、ぺりぺりはがし、裁断・裁縫を経て衣服とし、着脱可能な衣服として改めて着こなす。

 

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mommy=mammaは、おそらく主体化されすぎている。属人的に主体にはりつけられている。mummyはピラミッド=墓に奥深く隠されており、それを明かすと呪いがかかる。mommyを深く知ることは禁じられている。こうして我々の社会が成り立っている。

 

インセスト禁忌は純粋に文化に根ざすのでも、純粋に自然に根ざすのでもない。・・・それのおかげで、またそれによって、とりわけそれにおいて自然から文化への移行が達成される根本的手続き、これがインセスト禁忌なのである。」
「どんな婚姻もゆえに自然と文化、血族性と姻族性との劇的な出会いなのである。」
「社会状態が親族規則と婚姻規則を必要とさせるのではない。それらの規則がほかならぬ社会状態なのである。」
レヴィ=ストロース『親族の基本構造』)

 

"Mamma-l, All Too Mamma-l"...哺乳類=母的な、あまりに哺乳類=母的な、我々の社会とその『家族の基本構造』。。。それを識ったものは、罰を受け、イオカステの息子のように、自ら両目を潰すことになるだろう。

 

しかし、mommyはもう疲れたよ。mummyになってもう永久に眠ってしまいたいよ。。。このmammal-ism(<哺乳類=母性>主義)と『家族の基本構造』は、critiqueと技術化が必要だった。mommyの細胞を取り出し、より原初に近く多能な細胞へと脱分化させ、再分化させる。網膜のtextureをtextとして、主体からぺりぺりはがし、textのtextileの裁断・裁縫を経て、衣服を仕立てる。

 

客体化された、技術化された技術(techne/art, technologizing)としてのmaternityの主体化。既にmaternityは様々に技術化されており、これらの技術は、当然ながらこれまで継承・進歩し続けてきたし、これからもそうだろう。とはいえ、おそらく価値に対してクレジットは全く足りておらず、これはmommyへのクレジット不足と関係はありそうだ。producerは映画のエンドロールの筆頭に出てくるが、re-producerはエンドロールに載ることがほとんどない。productivityについてたくさん語られても、re-productivityに語られることは、より少ない。

ソクラテスメソッド

ソクラテスメソッド。それは、相手(子ども)を、ソクラテスとみなすことであり、教員や大人がソクラテスを気取るという意味ではない。だいたい私たちは、ソクラテスより、グラウコンやトラシュマコスにより近い。石工を営むこの小さなソクラテスたちが、我々から我と我を削り出す。既知のものが未知となり、無知をさらけ出し、先の不知を想う。思わず黙り、沈黙の息が流れる。

 

「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」(アウグスティヌス『告白』)

 

子ども。子を供とするのではなく、むしろ子と共に。学ぶと教えるの転倒、カーニヴァル・・・水平化・・・いやむしろ不安定化。お祭り。祝祭日は、休日ではない。祝いと祭りの日だった。学ぶと教えるの政。*1

 

「ぼくの考えでは、アテナイ人の中で、真の意味での政治の技術に手をつけているのは、ぼく一人だけとはあえて言わないとしても、その数少ない人たちの中の一人であり、しかも現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政治の仕事を行っているのだと思っている。」(加来訳『ゴルギアス』521D)

 

民が自らの人生の主人公であり、また自らの主人となり、自らを統治する。ことで、主義を主張するという、民主統治を前提にした民主主義。小さなソクラテスたちは、こう言った。親は子の鑑であり、子は親の鏡である。学ばせる?・・・あなたの姿が真似ばれている。あなたの姿がばれている。子どもを覗くとき、あなたもまた覗かれている。

 

reflexive voice(再帰する声=再帰動態) - ideomics

 

psycheとは息のこと。息するようにXXする。息がなければ生きがない。魂とは息であった。活きの良い粋な息であった。声とは息の特殊な形であり、あくまでも息の中に生きしている。沈黙もまた声の一つであり、より純粋な息(psyche)であった。というのは、20世紀になり、再び公に認められる。

 

「語りえないものについては、沈黙するほかない。」・・・その後、彼はこう思った。・・・[沈黙の中に、息があった。吐息の蒸気とリズムがあった。デンタルフロスをしておこう。]・・・けれど、一度格好つけてしまった手前、それを口に出すのは憚られた。

 

*1:とはいえ、非対称な関係だし、親権を、献身ではなく、人権として、真剣に考える必要もあるんだけど。

Bachelor of ErosからDoctor of Philia (Ph.D) に至る家庭の課程

婚姻とは最古の大学院であったと聞く。Bachelor of Erosを卒業し、次の課程としてDoctor of Philia (Ph.D) に至る家庭の過程に進学する。passion(情熱)に始まりPassion(受難)となるこの課程で、家庭の家政を学び続ける。Doctor of Philosophyを真似たのではない。Doctor of Philosophyが真似たのだ。最高の大学院かどうかは知らない。

 

「女房、妻であるひとりの女性との関係が、当方の生き方にとって本質的である場合、そして、人間存在とは夫婦としての個人であり、その自然はふたりで共有する生活の実践のなかで実現されるのであれば、人が樹立する自己との関係と他者にたいして作り出す関係とのあいだには、本質的かつ根本的な不調和はありえないだろう。夫婦であることの術は、自己の陶冶の一部である。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆)

 

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ゲノム上のtrioとしての父母子。母を抜き、子を反時計周りに移動させ、霊を招くtrinity(父子霊)。genesisとしてのgene結合を組み替えることで、再結合 (re-ligation) としてのtrinityが顕れる。自然 (physis/nature) のoikosともいえるtrioを組み替え、人為な技術 (techne/art) としてのoikos=再結合体 (re-ligion) が顕れる。

 

なぜ母は外されたのだろうか・・・教会そのものが花嫁であったから、姑が嫌われたのか。「母」が自然 (physis/nature) の所産とみなされたからなのだろうか。mammal(哺乳類/乳頭)のmammaとは、確かにそのように見える。哺乳類とは、名前から言って、母的である。しかし、それは系譜学者リンネに至る太古からの神話であったかもしれない。『母性という神話』・・・"L'Amour en plus"・・・それもまた、実は人為な技術 (techne/art) でもあったのだろう。

 

神父 (Father) が鏡を覗き込む。新婦 (virgin) が映っている。これは鏡像なのか虚像なのか。virginの鏡像=虚像は、Motherの何を隠しているのか・・・鏡像=虚像を覗く時、お前もまた鏡像=虚像に覗かれているのだ。。。

 

trinityの鏡像、ytinirt (trinity')・・・父子霊を鏡像として、母子霊。これは鏡像なのか虚像なのか・・・『ラ・ファミリア』の鏡には、父だけでなく母も写っている。『ラス・メニーナス』と呼ばれるようになり、鏡像が隠されることになった。自分たちの鏡像など、誰も見たくなかった。目の前の若い女の子たちしか、見たくなかった。

 

『ラス・メニーナス=ラ・ファミリア』 "Las Meninas = La Familia" - ideomics

 

"mort de l'homme"・・・hommeを単数形の男性(the man)と解すると、men, woman, women, そして二個体(あるいは多個体)としての一個人(individual)の可能性が浮かび上がってくる。