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正義の変遷

『民主主義の源流 古代アテネの実験』によると、殺人事件は「民事」であって、当時の裁判の対象ではなく、親族の復讐に委ねられていたらしい。殺人に対する復讐は、親族の権利でもあり義務でもあった、というのは他にも見られる規範のようだ。特に名誉や雄々しさを求める文化だとむしろ義務の色彩が強く、復讐しないで矛をおさめることは怯懦で情けないこととされたのではないかと思ったり。正義の女神の一人とされるディケー(Δίκη)は、古拙の時代にはむしろ復讐(や懲罰)のニュアンスが強かったと、どこかで読んだ。後に、正義そして裁判を意味するディケーへ。

 

アイスキュロス『オレステイア三部作』では、エリーニュス(「復讐」の女神)が伴走し伴奏する復讐の連鎖が、アテーナーの計らいで「裁判」というイベントの形に制度化(封じ込め)される。イーリアスからの復讐の連鎖は、アテーナーの思慮により裁判の闘争に転換されている。アテーナーの思慮により、平和がもたされ、「復讐」の女神たちは、「慈しみ」の女神に変容する。

 

正義の女神は苦しむものに秤を傾ける ―古代・中世ヨーロッパ文学に描かれた配分的正義と交換的正義― (香田芳樹)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgg/152/0/152_8/_pdf

古代ギリシア語には二つの「正義」, Θέμις(Themis)と Δίκη(Dike)があったことが知られている。ともに女神の姿で描かれる正義は母子関係にあり,時系列的にテミスがより古い法(掟)を代表し,ディーケーがより若い正義であることを示している。これは「義しさ」に二つのあり方があるということである。・・・ディーケーは,テミスに代表される古い法体系への抗議であり,新しい秩序の提案である。」

 

時代はくだり、『ゴルギアス』では、司法・裁判が、医術とのアナロジーで捉えられている。正義は、復讐から裁判にかわり、魂の治癒として提案される。『ポリテイア』では、δίκη (dike) からδικαιοσύνη (dikaiosyne) へと、言葉も変わっていくようだ。

「すなわち、魂(プシュケー)のための技術は、これを政治術(ポリティケー)呼んでいるのですが、他方、身体のための技術には、そうすぐとは一つの名称をあたえることはできません。けれども、身体の世話をするという点では、それは一つのものであって、そのなかには二つの分があると言っているのです。つまり、その一つは体育術であり、もう一つは医術です。これに対して、政治術のなかで体育術に相当するものは立法術であり、また医術に相当するものは司法です。」(加来訳『ゴルギアス』464B)

 

魂の救いは、最高の法なり
Salus animarum suprema lex
最高の法は、魂の救いなり

 

文字通りの裁判 (dike) によってソクラテスが死ぬことになったので、裁判=正義というのは、プラトンにとってそのままでは納得し難い。一方で、その価値も認めざるをえないというところで、正義論としての展開と転回があったのかも。プラトン独自の正義の定義。

 

民主主義の源流 古代アテネの実験 (講談社学術文庫)

民主主義の源流 古代アテネの実験 (講談社学術文庫)

 
ギリシア悲劇〈1〉アイスキュロス (ちくま文庫)

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ゴルギアス (岩波文庫)

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