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オブジェクト思考ブロギング

身体感覚を基盤に心地よさを追求してできあがっているもの

地中海の都市をアフリカや西アジアも含めて(コルドバマラケシュダマスクスベネチア)、主に建築的な視点から案内。「やっぱり地中海都市全体が、ヒューマン・スケールの良さを持っている」が要約か。

「だんだん文明が進歩すると、自分の身体の感覚とかそういうものを忘れちゃって。ところが、特に地中海圏には、身体感覚を基盤に心地よさを追求してできあがっている空間というのがあって、だから、本当に眠っていた自分たちの身体感覚が蘇させられる。・・・ヨーロッパの町っていうのは、それこそルネサンス以後、目で見た格好よさとか秩序ばっかりになって。」

「そうですね、視覚の世界になっちゃってね。」

地中海の良さって、気候とか歴史とかあるけど、身体感覚を基盤に心地よさを追求していくというこの「行動原理」というのは、普遍的なものでもありうるし、「行動公理」になりうるのかもしれない。


メディアの発達で、建築含めますます視覚的になっていくけど、その中でどう身体的なものを集団的な営みとして残していくか。ヒューマン・スケール。共通感覚はあるはずだし。というのも、視覚や言語の方がメディアに乗って影響力が桁違いになるけど、最終的な心地よさに占める割合は、その増幅された影響力ほどではないとすると、最終的な自分の心地よさを確保するには、このメディアでの増幅バイアスはある程度折り込んでおいた方が良いと思うので。


活版印刷以降をマスメディアと呼ぶとすると、マスメディア以前以後の「身体性」の変質が大きく、以後はより言語的に、写真以降はより視覚的に、という方向性で身体性内部でのバランスが変わっていったのかも。augmented realityといったりもするけど、augmentされる部分はかなりいびつで不均衡。言語や視覚に著しくバイアスがかかるとすると、非視覚の身体感覚をaugmentするなり、感覚をいわば成長させるなりするのとか、身体感覚基盤の心地よさを達成するというテクノロジーの課題設定はありうるかもしれない。今のメディア特性を前提にするなら、視覚性、記号性、情報量(蘊蓄量)に優れたものが淘汰に残りやすいけど、メディア特性が変わればまた違うかしら。


地中海世界からオランダ、イギリスって覇権の移動は、封建主義→資本主義って思ってたけど、感覚への入力への覇権が、身体的なものからマスメディア的なものへと移っていく中で、地中海世界は前者に過剰適応していたものという気もしてきた。ルター聖書とカソリック反撃彫刻といった感じで。国家単位や文明レベルでの、イノベーションのジレンマ・進化における過剰適応というか。

中庭というのは半屋外だということが大きいと思うんですけれども、時間がゆったりしているんですね。・・・やっぱり圧迫されていないということが大きいんじゃないか。部屋の中とは違う、上が開いているわけですし。


生きる術としてのphysical arts - ideomics

むりやり繋げるとすると、汝自身のphysicalな状態を知ること、physical arts:広い意味でのヘルスケアにとっても、身体感覚というのは大事なんじゃないかと。というのも、やはり血圧とか血糖といった数値だけじゃなくて、むしろ自分の実感に則してやっていく方が長続きもしそうだし、最終的にはそれが一番の目的な気もするから。


あるいは、一種の現状の医学批判的な文脈に変換するとすると、平均寿命や血圧、血糖など、「数値化」できるものに対する、QOLといった概念になるのかもしれない。平均寿命や血圧、血糖など「数値化」できるものはわかりやすく、かつメディアに乗って広まりやすい分、それが目標・目的として追求されることが多いが、一方で、身体感覚に根付くようなメディアに乗りにくいものは、マクロ的な議論をするときは意識からこぼれ落ちやすいし、目標や目的として設定しにくい。QOLのような概念をどう捉えていくかという部分と重なるものもある(対面でコミュニケーションすれば自ずからわかるものだけど)。


ただ、それにどうアプローチするかは難しすぎ。QOLのような感覚をどうにか今のメディアに乗っけられるようなものにするか(特に数値化)という試みの一方で、どうにかこういった身体感覚を乗っけられるメディア・伝達手段・文化を持ちうるかといった問題設定もありうるのかも。



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2013年11月28日追記:

家入一真、佐々木俊尚、湯川鶴章、イケダハヤト…なぜ今、オピニオンリーダーたちは「宗教」に注目するのか : まだ東京で消耗してるの?

宗教は、ぼくらに身体性を取り戻させる力を持っています。・・・宗教が教える重要なもののひとつは、「この世の中には、お前の脳みそで理解できないものがある」という真理だと考えます。・・・実は、自分自身の身体についてはよく理解していないじゃないか!という新鮮な驚きが、そこにはあります。

宗教を身体性から捉える見方が面白かった。