ideomics

オブジェクト思考ブロギング

生きる術としてのphysical arts

病気を治すのが医学。というのはそれなりに真としても、ほとんどの人にとって、そもそも病気なんかならなければならないに越したことはない。病気になった後に治す形の医学と並行して、そもそも病気にならないようにするという予防的なアプローチを追求しよう/したいという人やプロジェクトが増えてきている印象がある。


いわゆる一次予防・予防医学と呼ばれるアプローチが主体になるけれど、これをパブリック・ヘルスという文字通りの「パブリック=みんな」に対して行うものとして改めて考えるとしたら、どんな概念になるだろう。そして、ヘルス・健康という病気・疾患の対概念に依拠しない形で構想するとしたら、どんな概念になるだろう。という感じの話をこの前某会でした。コンテンツというよりレトリックの話として。


もともとヘルスケアに興味があったり中高年でもないと、なかなか「健康」とか「病気」って興味持ちにくい。というか、できればそのあたりを気にせずに生きていきたいところ*1。でも、いずれはみんな歳を取るし、どこかで避けて通れなくなる。じゃあ若者や仕事人にもアピールするような、もっと楽しく、日常的なノリでできるようなコンセプトはないだろうか。ヘルスケアと言われても、病気の概念がちらつくし。


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physical arts


病気<=>健康というフレームとはちょっと違う形での、身体のコントロール。機械をメンテナンス、チューニングしていくようなイメージでの身体の操作術。生きる術としてのphysical arts。直訳すれば健体術、もっと言えば、肉体技。保健体育と言ってしまえばそれまでだけど。よりよく生きる術としてのliberal artsとmartial artsがあるのなら、より基礎的な資本となる身体を磨いていく、長期的にメンテナンスしていく技芸があっても良さそうで、よりよく生きていく技芸としてのphysical arts*2。というパッケージがあったら、もう少し楽しく「健康」をやれそうな。


身体をメンテする、パワーアップさせていく。実践と知識の習得。運動だけでなく、摂食行動や姿勢、ワークロードを含めた行動全般のマネジメント。「○○を食べれば健康に」といった出回りやすい情報への批判的な解釈ができるリテラシー。そんな技芸。リベラルアーツが、一種のmetaphysicsとすれば、言うなればphysics。生きゆく身体のデザイン。栄養素といった分子レベルからの生体のエンジニアリング。レオナルドやミケランジェロが無機物を用いて身体をデザインしたように、有機物を用いて身体をデザイン/エンジニアリングする*3。できれば脳というフィジカルなモノのデザインもできたら良いに違いない。やり方わからないけど。



文字通りの「パブリック=みんな」に対して行うものとしたら、楽しめるもの、高度ではないものである必要はある。楽しくやれるってのは大事そう。Nikeのように。病気を治すとか健康維持ってのはあまり心躍る概念ではないが、いわゆる健康増進をもっとポジティブな体験にできないか。


「汝自身を知れ」:人文学が汝を知ることのひとつだとしたら、自分のphysicalな状態を知ることもまた汝を知ること。それは一種の認識の技術であり、変えていくのもまた技術。「汝自身を知れ」という言葉に対するの応答のひとつになるだろうか*4

physical arts三原則
1.楽しめる
2.基本誰にでもできる
3.病気といった概念を使用しない

みたいな。


とはいえ、何でもアリなわけでもないから、効果のあるもの、ないものは分ける必要があるし、基本的にはRCT (ランダム化対照試験)によるエビデンスを中心した構築が望ましい。ただ、これを言い始めると大規模なNが必要になり、保険医療レベルのエビデンスを求めると、栄養系や運動系など、ほとんど機能しなくなる。


例えば無害原則:明らかな害がないことが実証されればひとまずGO、としてある程度普及したらランダム化ないし近いデザインでの自然な形に添った検証という2ステップの流れのポリシーなど、ある程度違う戦術を明確化する必要はあるかもしれない。言うなれば、compromised evidence? 学問として進めるには2ステップ目が必要だが、でなければ、無害原則だけで良いかもしれない。あとは数十年の時の試練に委ねる。保険医療のように他人のお金を使うわけでもないので。


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というか、一般的ないわゆる医学自体も、「病気」「疾患」という概念がなしで結構やってけるんじゃないか、と思うことも*5。現象の認識→介入の必要性の判断→必要なら治療という流れで。「中間業者」である疾患という概念ってあんまりいらなくて、中抜きできるんじゃ。介入の対象とするかどうかの意思決定と、状態の記述を「完全に」分けるという意図。ひとつの思考実験として。


仮に色々な現象(症状)が共通のメカニズムで生じているなら、その上流のメカニズムを記述した方が妥当で、〇〇病という言葉はやや抽象的で観念的な、「実体のないカテゴリー」にも思える。というか、メカニズムと呼ばれているものも、因果関係がわからなければ、nmの単位(分子), umの単位(細胞), mmの単位(組織), cmの単位(臓器・人), mの単位(群れ), kmの単位(統計上の数字)という現象の記述の解像度が違うだけのこともあるかもしれない。


「病気」だとか「疾患」という概念が必要なければ、医学とは、単にHuman Biologyの一種なだけになるだろうか。ヒトという生き物の、多様性や外れ値の問題を取り扱うタイプのバイオロジー。医学というフォルダ名をHuman Biologyとフォルダ名を書き換えてみる。


もちろん、多様性といっても介入した方が良いものも多数あるに違いない。現象をある程度理解した上で、介入すべきかの判断をする。これは判断の基準は一点:対象者と周り/公共の利益になるかどうか。ここが反する場合に悩むけど*6、病気だから治すというのは一種のトートロジー。というのも、病気という概念自体、治すべきという異常という含みを持っているから。正常・異常という区分けは役立つことは案外少ないんじゃないか。


このあたりは、倫理的な意味というより、プラグマティックな、実践的な意味で。正常へと求心的にノーマライズする方向だけでなく、ある種の外れ値へと遠心的にトレーニングする方向も同時に捉えうるために。


*1:「文化vs医療」@ヘルスケア、あるいは"公衆"衛生の意味 - ideomics参照

*2:Google検索するとかなりヒットするが、普通名詞ではなさそう

*3:医X美:「レオナルド&ミケランジェロの解剖学」から「次の形」へ - ideomics

*4:いわば生政治の内面化なのかもしれないが、頑張れば後期フーコーのエクステンションとして人文的に論じることも可能かもしれない。ちなみにミシェル・フーコー氏は当時の外科医の息子らしい。

*5:保険医療といった社会的な仕組みは一旦置いておいて

*6:どちらを重んじるかで、臨床の視点と公衆の視点という差がありうる