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ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

多個体生物としてのリヴァイアサン

カフカ『城』は、シンプルに官僚制度批判と捉えていたが、むしろヒトを超えた非ヒトな生き物の存在への戦慄(おののき)、「新種再発見」のsense of wonderを表現した作品と捉えることもできるのかと考えが変わってきた。非ヒトというより、ヒトという個体が集合体となった多個体生物としてのリヴァイアサン


神経回路を構成する神経の最小数は数百前後で、知る限りセンチュウの302個が最小。ある種の神経細胞→神経回路の相転移とも言える現象がありそうだが、ヒト個体でもこの数である種の断絶があるのかどうかは興味深い。神経細胞とは階層が異なるし、単なるアナロジーだけど、個人的にはダンバー数と近いのが気になる。現代社会で言えば、中小企業と大企業の境界。


英語のlegal entityに「人」のニュアンスはなさそうだけど、300超えたあたりで「相転移」を起こして生き物(多個体生物)として考えられるとすると、日本語の法人という言葉もあながち悪くないんじゃないと思える。一種の擬人法。ただし「人」というウェットな印象の擬人論よりは、リヴァイアサンという別な生き物として捉えた方が良いだろう。


互いを名前(固有名詞)で考えられるダンバー数以下の関係を超えると、どうしてもカテゴリカルな人の捉え方にシフトする。個々の処理能力に依存するが、カテゴリカルな捉え方になると、傾向があたかも白黒はっきりした特徴であるように捉えられる。「差別」と言われる現象も、認知の限界(ヒト自体によるもの、個々人で差があるもの)による部分が大きいとすると、ダンバー数以下の社交的socialな関係と、ダンバー数以上の社会的societalな関係の断絶の捉え方を考えることが何らかの寄与になりそうではある。


ダンバー数以下の固有名詞での関係 (social) とそれを超えた数での関係 (societal) というのは、分子を個別に扱う時の考え方と、マスとして扱う時の考え方(熱力学・統計力学)に喩えられるか。数としては前者の方が少ないのに、なぜか後者の方がメカニカルに処理できる部分が出てくる。ダンバー数を超えると、どうしても統計的に個人を処理しないといけなくなる/処理できるようになってくる(「統計力学」として考えるようになる)。マスとしての挙動は別な単位(生き物)になる。まさに「リヴァイアサン」(society) が出現する。「リヴァイアサン」は一つ一つの個体(人間)には非ずという意味で、人間とは別な生き物=非人間的な生き物として考えられる。


「現代人は弱くなった」的な話、何をもって弱いと言うかなど色々問題あるけど、生存の淘汰圧が緩くなった分、個体レベルでは「弱者」が増えているというのは十分ありえる。昔はもっと若い頃に死んでしまうことが多かったと聞く。ここで細胞からの類推を導入してみる。ヒトを構成する細胞を一個一個とり出すと、おそらく単一細胞で生きている微生物よりも「弱い」。一方で、ヒトのような多細胞生物として機能する「強さ」もある。多細胞生物としての強さと単一細胞としての弱さのトレードオフ。個体レベルでの生存力や強度を高めるアプローチと、集団・多個体レベルでの生存力や強度を高めるアプローチとの対比。


集団レベルでのアプローチでは、ダンバー数以下のsocialな関係とsocietalな関係で原理が異なりそうだ。メカニカルに社会的な (societal) 認知が優れていても、社交的な (social) 認知に優れているとは限らない。例えば家族。人数にしてみれば統計的には何てことない数なのに、ハンドリングしていくのは何よりも難しい。。。喩えるなら、単細胞生物が多細胞生物になる起源を味わうような困難さがある(もちろんそんな困難味わいようもないんだけど)。ヒトは多個体生物(リヴァイアサン)に向かって文化的進化の過程にある。と言ったら言い過ぎか。リヴァイアサンがどう「発生」「発達」していくか。


socialではなくダンバー数以上のsocietalなレベルで何らかの関係を作るとすると、媒介するものが必要になる(でなければ圧倒的カリスマが必要になる)。媒体としてどういったものが機能するか・・・法や貨幣がまず思い浮かぶ。法や貨幣が個体(ノード)と個体(ノード)の関係(エッジ)を作る。ダンバー数以下の社交socialな次元での考え方を、社会societalな次元にそのまま延長してしまうとあまりに理想論的な話になる。一方で、社会societalな次元でしか考えられないと*1、ドライな世界観や「万人に対する万人の闘争」という世界観に寄る/依る傾向が出てくる。実際、socialなしの世界というのはないので、両方とも片手落ち。


socialな次元で成り立つ暗黙知と、societalな次元で成り立つ形式知の違い。これがどちらかに寄りすぎると知の世界でも不具合が出てくる。社交的socialな話し言葉と社会的societalな書字*2アレント的な意味での「政治」と「統治」の違いも、社交socialな次元で成り立つ関係と、社会societalな次元で成り立つ関係という違いとして理解できるだろう*3。あるいは、男女間での親和性の差。ダンバー数的なものの個別計測は、WAISのように適応や生きやすさの参考資料になりそうだ。

私のダンバー数は530000です。ですが、あなたとフルパワーで戦う気はありませんので、ご心配なく

というのは冗談にしても、530000はあれでも、3000くらいならいそうだ。一種の天才。数理に異常な才能を持つ人がいるのとパラレルに、社交認知に異常な才能を持つというのはどういう感じなんだろか。


城 (新潮文庫)

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リヴァイアサン1 (光文社古典新訳文庫)

リヴァイアサン1 (光文社古典新訳文庫)

*1:自分含め社交性socialityが低めだとそうなりがち

*2:ただし、その境界を曖昧にするチャット的なフローの表現空間(SNS)がある。

*3:ハンナ・アレントにおける政治の意味 - ideomics