祭りの後の後の祭り
司法が立法に先立つのはなぜか?
なぜなら、人は後知恵の動物であるから。
先の知恵は、不死の神々のものであり、
死すべき人は、後の知恵があるだけでも、
よしとしなくてはならない。
なぜなら、ヒトであるだけでは、
その後の知恵さえもないのだから。
エピメテウスにもたらされたヒトの力は、
祭りの後の知恵として、政をはじめて人となる。
立法の前に司法があり、裁きは常に後の知恵としてくだされる。
プロメテウスが、かろうじてもたらした火の技術は、
科学ともなり、先の知恵ともなったが、
プロメテウスの伝えきれなかったものが、天上に多く残されている。
ゼウスが裁きを担っている一方で、
ヘーラーは結婚を担っている。
この二神が、オリュンポスの中心の夫婦であるということは、
裁きと結婚が、何らかの形で並んでいるということだろう。
その答えを、人が知るにはまだ早いが、
ただ『ラス・メニーナス』の鏡だけが、その先の答えを忍ばせている。
先の知恵もつプロメーテウスによれば、
アイギスもつゼウスもまた、その子どもに地位を奪いとられるという。
彼は裁きを知恵をもって、父なるクロノスの暴力にうちかったが、
彼もまた専横とは無関係ではなかった。
アイギスもつゼウスの子である、梟の目のアテーナーは、
『イーリアス』では、父に従いおとなしくもしていたが、
その後に何を行ったのか。
より純粋な裁きは誰のもとにあるのか。
ギリシャ人たちは、その先の口をつぐんでいる。