空海と密教美術展
だいぶ前になるが、東京国立博物館の「空海と密教美術展」は素晴らしすぎた。ほぼ国宝と重要文化財のみで構成されたなんとも希有な展示だったけど、ほんと国宝とかって何となく称号があるわけじゃないのね、と痛感。西洋においてキリスト教の宗教絵画や宗教彫刻から、徐々に現在言うところの美術や芸術に移行したとして、この仏像たちが同様の移行を遂げたら・・・と考えずにはいられない。会場の来た多くの人もそう思ったことだろう。
技術的には今の美大生でもっとレベル高い作品を作れる人もいることだろう。違いはどれだけ作品に本気かということかしら。きっと、熱意とやむにやまれない感情が芸術の永遠の公準であるに違いない。
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空海という個人の生き方も作品以上に興味を引く。美術としての良さもさることながら、空海の探究心がとても美しい。命がけで海を渡って、仏法を修める。ある程度功名心や野心もあったと思うけど、すごい知への探求心。師との邂逅。中国ですごいがんばった。それ見たら中国の師匠も周囲のこいつには伝えたいと思ったんだろう。国を超えた知の継承。すごく美しいシーンだ。
美しい。なぜならそこに愛があるから。愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ること*1。同じ方向を向く。真剣に同じものをおいかける。意識がシンクロする。意識が同期したような感覚。一種のエクスタシー。
だって知はエクスタシーだから。これほど多くの人が飲み込まれる。
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プチ卒業旅行として、友人4人で高野山に泊まった記憶が蘇る。寺に泊まった。朝起きると、お勤めの読経が響く。ろうろうとした声でなめらかなシークエンス。何言っているかわからないけど、音として心地よい。音楽が何かという難しいことはわからないが、これもきっと音楽だ。彫刻と同様に、バロックやグレゴリオが世俗的なものへと移行したように、読経が別な方向での発展があったら・・・と思ってしまう。