ideomics

オブジェクト思考ブロギング

handmadeという神話

ワーク・ライフ・コンフリクトというコミュニティに参加している。今更言うまでもなく、子育てとキャリアをどう両立させていくかは多くの人にとって考えなくてはならない課題だし、ソリューションを出していかなければならない。


女性の教育レベル上昇及びそれに伴う自己実現への欲求、社会保障費の増大、家電の進歩による家事労働の軽減なんかを背景にして、今後共働きはあえて言葉にする必要もない標準になっていくと考えている。しかし、子育てに手がかかるのは、時代が変わってもなかなか変わりようもないだろうし、特に幼少期に関しては、あと10年しても、何かが劇的に変わるとも思えない。幼少期を中心とした子育てを、共働きの家庭でどうやっていくかは、かなり重要な課題。


自分も含めて多くの人は、「子どもに時間をたくさん使わなければならないのではないか」「誰かに任せるなんて、責任の放棄では」と思っているが、これは仮説としてどうなんだろうか。直感的には納得の言説だが、果てして実際には?

我々の親世代では、母=専業主婦がスタンダードだったので、どうしても母=専業主婦をひとつの普遍的な形とみなしてしまいますが、歴史的にはある時代ある地域の一つの特殊な形なのかもしれません。もっと貧しい地域では、農業などの仕事を家族総出でやってて、仕事と並行しながらだろうし、逆にイギリスの貴族みたいに、そもそも家事はおろか子育ても自らタッチしない文化もあったでしょう。いわゆるエリート層は、小さい頃はナニーについてもらい、小学校から全寮制で親元を離れて、と聞きます。


じゃあそういった形が失敗かというと、そんなことはないでしょうし、むしろイギリスのエリート教育なんかは、模範ともなり得る形とも思います。女の人生として専業主婦が如何という議論からちょっと離れて、子どもが育つ上で母が専業主婦であることの如何という視点のみで話を展開するならば、あんまり親とべったりじゃない方が、かえって強く育つんじゃないかと思うこともあります。実際、自分も含めて同年代の我々は世話されすぎてて、(平均的には)かなり軟弱に、甘くなっているんじゃないかと思ったり(自戒をこめてです)。日本でも中高が寮生活というところは若干ありますが、失敗という印象はあまりないように思います(トヨタがイギリスを範としてつくった海陽学園は評判どうなんでしょうか>教育関係の方々)。

という意見を投げてみたが、これは、教育に関する大事な問いであるように思う。我々はhandmadeが愛情の最良の形であるという信仰を持っていて、それはかなり正しいと思われるが、現実という制約が色々ある世界において、100%信仰にコミットするのはどうだろう。


現実的には、保育関係をビジネス(人によってはビジネスという響きに嫌悪感があろうが)として発達させていくのが、落としどころではないかと思える。介護に関しても同様の信仰があったが、結果としては、今のようなシステムで全体の福利が上昇した印象を持っている。これまで家の仕事とされていたものが社会化されることで、共通の言語や議論の俎上に乗り、(プラクティスの上でも学問の上でも)発展が見込めるようになれば、かえって、そっちの方が良かったということになるかもしれない。

ナニーや全寮制といった話が出てきましたが、この部分では日本も今後発展の余地があるように思います。法律で保育者の責任の範囲をしっかり定義することがまずは何よりも大事ですが、ビジネスとしても成長の可能性がある。例えば、駅ビルの利用にしても、商業施設は飽和傾向にあるし、そもそもターミナル駅以外では、なかなか作りづらいでしょうけど、保育園や(広義の)塾産業あたりは、駅ビルデベロッパーのターゲットとして有望な気がします(このあたりはビジネス周りの方々のご意見をぜひ拝聴したいところです)。


理想を言えば、介護システムを整備したように、社会保障としてシステム化できれば良いし、更に言えば高齢者医療に過剰に回っている分の一部でも、そっちに回せるといいように思います。在宅介護ならぬ在宅保育なんかも視野に入れて、ナニーというプロフェッショナルを育成するにはという観点も議論できれば面白いですね。その他介護システムのアナロジーは有用かもしれません(ちなみに介護保険システムは当初「『家族のやるべき崇高な仕事』を他人に任せてもいいのか!」という批判が多かったし、かなり反対もありましたが、結果としては、予算不足を除いてかなり満足度の高いシステムになっているという印象です。)。保育者の責任の範囲をしっかり定義された上で、弁護士、税理士、医師のように開業できるようになればいいなと思ったりもします。

という意見なんだが、この辺は皆さんどう考えているのだろうか。