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オブジェクト思考ブロギング

再神話

人権など、もはや当たり前と思われる概念。基本になりすぎてもはや技術とも言われない過去の技術に似ている。しかし技術と違って、実体として輪郭が明確ではない。だから、当たり前に思えても、実際は忘れられやすい。という特徴があるとしたら、輪郭を明確に与えれば良いのかもしれない。いわゆる科学技術と呼ばれるものも目に見えるからわかりやすい。目に見えないものは忘れ去られやすい。

 

概念の神霊化・キャラクター化。による可視化。神格化というと批判を許さない感じなので、 ダイモン (daimon) 、プネウマ (pneuma) 、スピリタス (spritus) の水準での概念の神霊・精霊・・・「人"間"的、あまりに人"間"的な。」*1・・・ つまり間をつなぐもの。

 

精神 (psyche)、精霊 (pnuema)、そして精神と精霊に共通する精という漢字に隠された神霊 (daimon)。日本語の漢字表現と元のギリシャ語を対応させてみる。精神は、まじめな言葉として取り入れられている。精霊になると、ファンタジーの次元でしか捉えられない。神霊になると、だいぶ怪しげな言葉になる。

 

しかし、これを古代・前近代として「怪しい」と切り捨てても良いものか。精霊 (pneuma) 概念や神霊 (daimon) 概念に、むしろ何か隠されているのではないか。例えば、精霊 (pneuma) とは、間をつなぐもの、つまり関係論の擬人表現ではないか*2。神霊 (daimon) とは、無意識の情念の擬人表現ではないか。ポケモン (pokemon) みたいなダイモン (daimon) が、我々や我と我の中に潜んでいるのではないか。。。いやむしろポケモンなる任天堂の商品とは、ダイモンのモダンな顕れではないだろうか。。。

 

神なき時代なモダンの後の、再神話・再神話化。post-moderinityがlost-modernityではなく、文字通りのpostであるように。pre-modernな概念は既に昔に神話になっているとしたら、modernな概念の再神話、つまり概念の神霊・精霊としてのキャラクター化。

 

「なぜなら、およそどのような場合にも、国家社会の最も重要な習わしや法にまで影響を与えることなしには、音楽・文芸の諸形式を変え動かすことはできないのだから。これはダモンも言っていることだし、ぼくもそう信じている。」(藤沢訳『ポリテイア(国家)』424C)

なぜなら、およそどのような場合にも、国家社会の最も重要な習わしや法にまで影響を与えることなしには、音楽・文芸の諸形式を変え動かすことはできないのだから。これはモダンなダモンも言っているような気がするし、ぼくもそう信じている。

 

ユスティティアみたいなキャラクターを用いて、ディズニーキャラクターなノリで、子どもに絵本みたいな話しを作ってみたいと思いつつも、自分の物語の才能のなさにちょっとがっかり。

ティンカーベル・・・人は皆、妖精を友として共に過ごすべきだ。

 

*1:"HumAnd, All Too HumAnd"

*2:関係論としての法や正義、権利を含め

市の民としての賢慮

加藤訳『統治二論』で、ロックはcivilとpoliticalを同義と捉えていたと解説にあり、なるほどと。ギリシャ語のpolisを、ラテン語にG翻訳するとcivitas。civilは日本語で市民とG翻訳され、市の民、市場の民。翻訳は翻案としても、込められた意味が面白い*1

 

just-ice as fair-ness
fairという言葉は、市場のフェア(デパートのフェアなんか)や祭りを由来とし、市自体も祭りで集まるところから発祥という経緯が多いとして、
just-ice as [market-fair]-ness
just-ice as festival-ness
と変形してみる。
お祭りの集まりで一となる市での交換の衡平。

 

equityが、衡平と訳されつつ、株(権利)も指すのがずっと不思議で、ユスティティアの天秤って、なんか両替商の天秤っぽいなと思っていたけど、市場での交換は天秤での衡平がいる。運動で身体の平衡感覚が養われるように、市場で交換の衡平感覚が養われるところがあるのだろうか。逆に、市場に直接対峙する機会が乏しいと、交換の衡平を養う機会が少なくなりそう。

 

「市場、とりわけ市場での日々の交換は、衡平の精神的習性の一部をすべての市の民の精神に植えつけるのに役立つ。まさにこの習性こそ、人民を、臣民ではなく市民として、もっともよく自由に備えさせるものにほかならない。」*2

 

市場(しじょう)というと堅い漢字だけど、市場(いちば)というと楽しげな感じ。実際、活気のある市場って、祭りっぽい。混沌な祭りで一となり、市から生まれる均衡の秩序。(オリンピックに代表される)競技の公平も、協議の公平を培う訓練でもあるのだろうか。

 

市場 (market) をG翻訳するとギリシャ語ではagora・・・集会とか広場を除いてより純粋に市場を意味する単語はなかったのかな。このあたりは、ラテン、アングロサクソンと本格的に追加される非ギリシャ的要素の大きなもののひとつなのだろうか。oikos-nomos(economy, 家政:ギリシャ語)というより、ius-prudentia (juris-prudence, 正義・権利の/という賢慮:ラテン語) の衡平に並行する、あるいはその一部としてのmercis-prudentia(取引の/という賢慮)みたいな。

 

「実は、iusとlexの区別はローマ法の最大の特徴であると言ってもよいであろう。古代ローマでは、すでにたくさんの「法律」(lex, leges)が制定されており、問題が起こったときに適用されていたが、もっと大切にされたのは、ケース・バイ・ケースで当事者の権利(ius)を正義(iustitia)に適った方法で見出すということであった。」(ホセ・ヨンパルト『教会法とは何だろうか』)

 

「メイン「市民法が考慮する単位として、個人は着実に家族に取って代わった。・・・我々は、これら全ての関係が個人の自由な合意に由来するような社会秩序の段階に向かって、着実に進んできたように思われる。」「進歩的社会の展開はこれまで、身分から契約への展開であった」」」(スタイン『ローマ法とヨーロッパ』)

 

アングロサクソンに至り、最たるものは国家・共同体からの自由か。今となってはアングロサクソンは世界の中心にいる感じだけど、かつては辺境の民として、ギリシャ・ローマから遠いものと自他ともに捉えられていたとすると(?)、ブリテン島の人々のギリシャ・ローマへの眼差しに面白さを感じる。何重かに翻訳=翻案だけど。。。

 

 

完訳 統治二論 (岩波文庫)

完訳 統治二論 (岩波文庫)

 

 

*1:フランス語のbourgeoisは、城壁 (bourg) の中に住む都市住民という意味らしい

*2:陪審制、とりわけ民事陪審制は、判事の精神的習性の一部をすべての市民の精神に植えつけるのに役立つ。まさにこの習性こそ、人民をもっともよく自由に備えさせるものにほかならない。」(松本訳『アメリカのデモクラシー』第1巻第2部第8章)を改変

三本の枝

 

西方の三博士が、東方の島国に三本の木の枝をもたらした。東方の島国に住む人々は、この三本の枝をどう使っていいかわからなかったが、その地に育っている木に接ぎ木をしてみることにした。

 

一人目が運んだ枝からは、頑丈な樹木がまっすぐに伸びた。そこからたくさんの材木ができ、人々は雨風にさらされることがなくなった。神はその枝と材木を見て、よしとされた。

 

二人目が運んだ枝からは、葉が生い茂り、赤々とした果実がなった。人々は飢えることがなくなり、病に悩むことも少なくなった。神はその枝と果実を見て、よしとされた。

 

三人目が運んだ枝からは、大輪の花が咲き、芳しい香りがあたりに広がった。この華やかな花はやがて散ってしまった。神はその枝と枯れた花を見て、・・・それもまたよし、とされた。

 

ある男が、枯れた花の中に一粒の種を見つけ、それを家に持ち帰った。種を蒔き、水をやったが、この木は育つのに時間がかかった。仲間の男たちは、「育てるのは女の仕事だ。女にやらせておけ。」と、狩りに出かけたが、男は毎日水をやって、虫を除き、周りの草をむしった。

 

この木からは、やがて大輪の花が咲き、芳しい香りがあたりに広がった。女も男も、この花の華と香りに飽きることがなかった。この木の種からも、やがて堅い樹木が育ち材木ができた。この木の種からも、やがて葉が茂り青々とした果実ができた。

 

神はその種と花と材木と果実を見て、これもまたよし、とされた。

 

神と紙とカミさん

かつて神に憑かれた人々は、神に疲れてきた。
神に仕えることに、疲れてきた。
喜び勇んで、新しいカミを迎え、紙を使うとともに、紙に憑かれた。

 

神が紙となったとき、律法は法律となり、会社が社会となった。神と君の統治を倒置し民の統治となり、なおさら紙は一層必要だった。東大に登第し、統治の等値に政策の製作を学んだ者が、紙を司った。法文の文法で社会の法治は進んだ。*1

 

文学(letters)は手紙たち(letters)から始まる。lettersはみな宛名を持っている。
投票用紙、それは宛名だけの手紙(letters)であり、手紙(letters)の最古の形を示している。

 

穴埋めペーパーテスト・事務書類・・・これらはscriptへと完成されるのを待っている、scriptの前のpre-script。これも一つのprescript-ion=処方箋であるならば、効用と副効用は個別に吟味されるはずだった。いや、紙自体が、文字を待つscriptの前のpre-scriptであったのかもしれない。これもまた一つのpre-script-ion=処方箋であるならば、効用と副効用は個別に吟味されるはずだった。

 

こうして、紙に憑かれた人間たちは、紙にも疲れてきた。
紙に仕えることに、疲れてきた。
紙幣にも疲弊した。
紙幣、それは宛名のない送り主だけの手紙であり、かろうじて文字を残している。数だけの手紙となり、手紙(letters)から文字たち(letters)を追い出そうと企んでいる。

 

神につかれた人々を嗤う時、お前もまた紙につかれている。
神と紙につかれた人々は気づいた。古来から未来に至るまで、カミさんに憑かれている。神と紙の時代にも、おカミさんがいた。憑かれていても、決して疲れてはいない。断じて疲れてなどいない。

 

「自己陶冶における結婚というこの主題系の、つまり一つの哲学全体が展開してきたようなこの主題系の逆説は、以上のとおりである。すなわちそこでは、女性=妻は最高度の他者として価値が付与されているが、しかし夫は、彼女を自己との統一単位を形作る者としても認識しなければならない。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆)

 

*1:しかし、会社の法治は放置されたところもあった。社会は市場化が進んだが、会社は私情化が進んだところもあった。

家庭の私法としての家政な司法

「dominium(※所有権概念)こそは、実は発達した「ローマ法」像の基礎に存するものである。」(木庭顕『新版ローマ法案内』第4章 所有権概念の登場とその帰結 P127)

子ども同士のおもちゃの喧嘩が絶えない。不思議なもので、人は他人が何かやってると羨ましくなって、自分も欲しくなるらしい。自分の子どもの喧嘩の処理を考えると、法というものへ、生活でのリアリティが湧いてくる。

 

dia-lec-ticsを拡張した不完全なtria-lec-ticsのシステム

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共生のための競争の作法として、いきなり「和をもって尊しとなす」のではなく、≠を保存しつつ、他方で=を成り立たせ、=を保存しつつ、他方で≠を成り立たせ続けるのが、おそらく大事っぽい。完全に素人だけど、明文の文明としての法律に先立つ、言葉の、言の葉による競争・闘争としての司法の体制というのが、「法」として重要なのかもと思ったり。子どもの集団的発達を見ていると、「法」においては司法の練習は立法の練習に先立つ(先だった方が良さげ)、という感じもするが、どうなんだろう。

 

「実は、iusとlexの区別はローマ法の最大の特徴であると言ってもよいであろう。古代ローマでは、すでにたくさんの「法律」(lex, leges)が制定されており、問題が起こったときに適用されていたが、もっと大切にされたのは、ケース・バイ・ケースで当事者の権利(ius)を正義(iustitia)に適った方法で見出すということであった。」(ホセ・ヨンパルト『教会法とは何だろうか』)

 

ルールを決めておいて従わせる、というより、争いから均衡・衡平 (just) が生じる方向に調整 (ad-just) する。「ルールだから」と上から降ってくるよりは、主体化しやすいという印象はある。法の「主体化」がテーマとすると、司法システムから入るのは結構大事かも。面白いことに、このシステム取り入れてから、もめごとが起こると、言い分聞いて衡平に判断しろと圧力かけてくる。夫婦のちょっとした諍い*1に、子どもが同じような介入してくる。

 

陪審制、とりわけ民事陪審制は、判事の精神的習性の一部をすべての市民の精神に植えつけるのに役立つ。まさにこの習性こそ、人民をもっともよく自由に備えさせるものにほかならない。」(松本訳『アメリカのデモクラシー』第1巻第2部第8章)

 

「法律家は利益と生まれでは人民に、習性と趣味では貴族に属する。彼はこの両者の自然の結び目、二つをつなぐ環のごときものである。・・・法律家精神と民主的精神とのこの混合なくして、民主主義が社会を長く統治しうるとは思わない・・・」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第1巻第2部第8章P174)

 

魂の救いは最高の法なり (Salus animarum suprema lex) をもじると、最高の法は魂の救いなり、といった感じか*2

 

just-iceはちょうど氷になる温度。セルシウスはかつて、1気圧な日常生活においてそれを零度と定義とした。彼は、水のように不可欠な液体を固体に、そして個体へと固めることを、just-iceと呼んでいた・・・というわけではないようだ。

*1:朝の忙しい時間にコーヒー飲んでてクレーム入れられるとか

*2:・・・すいませんが、ラテン語はできません。

ディズニーランドの入場制限

ディズニーランドを探していたら・・・ここにあった。浮世が、この土地が、ディズニーランドそのものだった。ディズニーランドで仮装する。浮世の土地で仮装する*1。ディズニーランドが仮想する。都市空間 (polis) が仮想する。内なる世界を住まい(テリトリー, oikos)として、浮世を舞台、演劇の舞台=都市空間とする。雅な都は舞台装置、テーマパーク。ハレの世界として特別な演技を*2。ディズニーランドは、祭り事の始まりとともに、政の始まりを告げている。

 

"I hold the world but as the world, Donald,
A stage where every man must play a part,
And mine a merry one."
- Mickey, The Merchant of Disney"*3

 

ミッキーが君になった。君もミッキーになった。マウスが奉られている。マウスに仮装している。何かが転倒されている。内は外になり、外は内になる。君となったミッキーの商いで、君も飽きない。。。がしかし、ディズニーランドには入場制限があった。

 

ディズニーランドの入場制限は6, 7万人。この数字は、古代ポリスの市民数を元に決められている。
味の素スタジアムの収容観客人数は5万人。この数字もまた、古代ポリスの市民数を元に決められている。

 

ソクラテスのサンバ術 - ideomics

ソクラテスのSamba術で、みなもっと踊っていたかった。がしかし、n>k (アリストテレスによれば一望できる範囲、プラトンによれば数千世帯) となり、ポリスに人が収まらなくなった。劇場の城壁はなくなり、平らに広がった。ポリスの術 (politics) から行政国家の術 (statics) になった。ポリスの舞台から、舞踏の武闘は去り、部党の武闘が残った。

 

「声の文化の…その多くは、ことばによる演じ語りにおいて、その生活スタイルにおいてさえ、文字に慣れた人々の目から見ると異常に闘技的であるように見える。」(オング『声の文化と文字の文化』)

 

stateの術、statics
stateを信じるstatist
statistの術、statistics
新たな闘鶏として統計が生まれた。

 

staticsにおいては、個人の名前ではなくカテゴリーで代表され、こうしてstatisticsの対象になる。politicsの延長ではあるもの切断面がある。投票用紙は宛名だけの最古の手紙であり、かろうじて個人への名刺として、固有の名詞が保存されている。

 

言葉による闘争・競争。数字による闘争・競争。統計による闘鶏の術。evidence(証拠・証言)という文字は、法廷闘争・弁論モデルをevidentにし、文明を明文にしているようにも思える。しかし、clinicalな場でcriticalになるのは、いろんな方向に難所がある。極端なことを言えば、カテゴリーで語る場合は、スパッとstatを出し、スカッとstatで語らなければならないが、しかし、それはかなり厳しい要求だ。

*1:人生には二通りの生き方しかない。ひとつは、コスプレなど何もないと思って生きること。もうひとつは、あらゆるものがコスプレだと思って生きること。(伝アインシュタインの名言を、迷言に改変)

*2:political correctnessは、theatrical correctnessと理解するのがおそらく、一番無難だろう。

*3:I hold the world but as the world, Gratiano, A stage where every man must play a part, And mine a sad one. - Antonio, The Merchant of Venice

ソクラテスのサンバ術

宮を囲んで子どものように友と共に舞い踊り、みな宮の子になった。
宮の子が祭りごとに集まるごとに、都の政になった。
都が1となり、都が市になり、市が都となり、市もまた1となり、都と市は都市に1つになった。

 

現実的には非対称だが、祝祭で水平化する:
2のまま2を1とする過程と学ぶ課程を、問答の術 (dialec-tics) とし、
3のまま3を1とする過程と学ぶ課程を、三位の術 (tri...-tics) とし、
・・・
nのままnを1とする過程と学ぶ課程を、政の術 (poli-tics) と、仮定する*1

 

X=A1=A2=...=An
であるが、同時に、
A1≠A2......A1≠An,
A2≠A3...A2≠An,
...
..
An-1≠An
Xが最大の創意工夫 (invention) であり、互い同士の融合は「なく」、個別を保証しつつ、Xとのみの一体化。

 

自らをN分割して、NのままNを1とする過程と学ぶ課程を、個人(in-dividual)の術と呼べるだろうが、ただし、now-hereの自分は、今やno-whereな過去の自分に対して特権的であり、完全に同格とはいえない。ここでもX=identityが最大の創意工夫。共時の論理においては無理に見えるが、正直まだよくわかっていないが、とりあえず経時のズレを表しているのか、というところでごまかす。

 

無知(不知)の知。ヒト/人/人間としての知力(sophia, s1, s2,...sn)の差は大きくあるけれど、自然や宇宙全体に想定される無限の知(Sophia, S)に対すると、sk (1≦k≦n) がどんなに大きくても、Sに比べると0に近い。という意味で水平化され、0を中心として一体化する。カーニバル化される瞬間がある。

 

s1, s2,...snが、差異あるものの皆0に限りなく近づくカーニバル。ソクラテスの振り付けで踊るサンバ(Samba)術。現代では南アメリカの都市部に最もよく伝わっており、日本語では産婆術の当て字でよく知られている。彼は、dia-lec-ticsをnに拡張することで、既にpoli(poly)-ticsの踊りの振り付けもしていたのだった。祭り事で政。ソクラテスの最期は、踊りの振り付けをしているようにも見える。

 

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「ぼくの考えでは、アテナイ人の中で、真の意味での政=祭り事の技術に手をつけているのは、ぼく一人だけとはあえて言わないとしても、その数少ない人たちの中の一人であり、しかも現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政=祭り事の仕事を行っているのだと思っている。」(加来訳『ゴルギアス』521D改変)

 

*************

 

uni-versitas (versus)
対立を一に。ヨンパルト『教会法とは何だろうか』によると、persona juridicaが法人にあたるが、universitasという語も使われるらしい。大学論というのは、法人論も含んでいるのだろう。

 

「「法人」という制度は、教会法では国家法上の法人よりも古い歴史を持ち、またこの制度については相当の議論があった(例えば、何人で一つの法人が設立され得るか、・・・)。」(ヨンパルト『教会法とは何だろうか』)

 

「法人は、bona fidesに基づく信用を用済みとし、それに伴う厄介なコストを省くためのものであると考えられた形跡がある。これもまた所有権モデルの優越という歴史的事象の一環である。・・・しかし法人はその成り立ちからしてbona fidesの上にのみ組み立てうるという初歩は見失われている。まして、元来bona fidesを裏打ちしていた政治システムの要素を大規模に復元しなければならないという問題は意識されない。法人理論に内在する神学的基礎を復元するだけで、たちまちそのような課題は意識されるであろうに。」(木庭顕『新板ローマ法案内』)

 

*1:ただし、政の術 (poli-tics) のnは上限があるかもしれない。上限を超えると、統治機構(state)の術(sta-tics)になる可能性が高い。