ideomics

オブジェクト思考ブロギング

自我と自己の対話としての個人:最小単位の再結合性 (re-lig-iosity)

個人 (individual)を、自分-自分関係=自我-自己関係と捉える。自意識(自我)と内なる他者(自己)との関係として。自我と自己・・・自我による自己への愛着・信頼・信仰、その応答としての自己から自我への愛着・信頼。自我と自己の対話としての個人individual・・・分割できないものでありながら、分割できるもの・・・自我と自己の分離と再結合 (re-ligation = re-ligion)。


ふと振りかえると、自分自身(自己)が自分(自我、自意識)にとって未知で、よくわからないものに思えてくる。カフカ『変身』では虫に変わってしまったが、そこまでいかなくても、よくわからない異物感が生じることがある。自意識による統治を重んじるか、他者の受容(未知の受容)を重んじるか、という好みの差はあれど*1

「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」(アウグスティヌス『告白』)


自信の「信」の意味を考える。自信の信を、信頼 (trust) や信仰 (faith) に解釈して、自信=self-trust/self-faithとして、信=愛とすると、自信=自愛。自分自身を愛すること。self-confidenceのfidere=faith。「信」が、信頼を超えた信仰に近いものだとすると、自信=自尊心=自己肯定感の背景として、自己に対して信仰的な感覚があるということにもなる。自信=自愛。としても問題はいかに自分を愛することができるか?

「自己愛については何ひとつ語られていなかったように見える。しかし、『隣人をあなた自身のように愛せよ』と言われているとき、同時にあなたの自分への愛が除外されているのではない。」
「神を愛する人は自分自身を愛さないでいることは出来ないからである。むしろ神を愛する人だけが自分自身を愛しうるのである。」(アウグスティヌス

「狭い意味での個人(偉人)には伝記が、主体には自伝が、自我には告白が対応する」
「単に自分が何を行い、感じ、考えてきたかということだけでは、自伝となっても告白にはならない。・・・そのことをまさにいま自分がどう感じ、どう考えているのか、それをこそ告白は語ろうとする。」(富松『アウグスティヌス <私>のはじまり』)


内省・・・自分自身と対話すること。対話のレッスン。内なる未知な他者と対話するレッスン。自分自身にアタッチメントを感じるレッスン。自己肯定感を育むにはどうしたら良いか?とよく聞かれて、いや俺が知りたいよ、と思いつつしばらく考えていたが、ひとつのアプローチではありそう。大人の内省能力が子供のアタッチメントレベルを高度に予測する、という話を読んだが*2、内省によってアタッチメントの練習をしている部分があるのかもしれない。


『告白』という形で過去の自分自身(今の自分から見ると他者)に対して、今の自分が何らかの関係を築こうとするのも似ている作業だ。自分自身に自意識から見た他者を感じるとき、信頼関係の原型になるような関係性が想定できる。自信=自愛として、自愛の一種としての自分の体への愛着作業を行うこと。ヨガみたく体にコンシャスになりながら動かしてみる、感覚を得てみる作業も意味がありそうだ。


当事者研究の「自分が自分の統治者になる」というのは、一般化する方向で面白い。障害disorderも一般化すれば、誰でも当てはまるわけだし。統治・支配への欲求をどれだけ「自分」とその「研究」に向かわせることができるか。自分=他者とすれば、その身近な他者の統治にフォーカスすることで、一種の対話を行うことになる。

*1:前者志向の人は禅に、後者志向の人は老荘に惹かれる印象だけど、まぁ印象

*2:『子どものこころの発達を支えるもの - アタッチメントと神経科学、そして精神分析の出会うところ』より

霊と魂:ビットからスピリットへ

近しい人の遺体に接する。当たり前に生きていたはずの身体(肉体)の中に、psyche(息・魂)を感じられなくなったとき、身体とは独立した非物質的なpneuma/spiritus(息・霊)を想定するようになる。実際、本とか絵とかで精神が伝わっていく人もいる。そこまで個人名が明らかでなくても、漂うspiritusは数多い。情報(精神)とメディア(身体)の関係の中で。身近な死の体験の頻度と霊性は関係してそうだが、そうだとすると、現代では(幸いにも)少ないが、「霊性」が一般的な医療とは反する部分があることになる。非医療的な意味での臨床性(床に臨むこと)の純度が高い、という意味での「臨床性」は高いのだが。


遺言と呼ばれるものが、財産分与の話だけであっては、確かにeconomic animalとしてanimaを終えることになってしまう。肉体からpsyche/animaが抜け出る前に、pneuma/spiritusとして「抽出」できないか・・・完全に心肺停止する前に、psyche(心)、pneuma(息、肺)を複製すること。psycheがpneuma/spiritusとなる「遺言」とは何だろう。


死に対するpre-ventionとpost-vention。言語、言葉、言霊。psyche/anima→pneuma/spiritusの産婆術。死に限った話ではない。瞬間瞬間に無限に分割すると考えれば、瞬間瞬間が比喩としての死になる。自分の意識の流れを時間軸に想定してみて、無限に切断することを想定してみると、生きてるんだか死んでいるんだか、よくわからない気分になる。情報(精神)とメディア(身体)の関係が転倒すると、身体とは精神の「単なるメディア」(交換可能なもの)というようにも思えてくる。


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もの主義者(ソマティカー)
魂主義者(プシュキカー)
霊主義者(プネウマティカー)
というオリゲネスの分類というのがあるそうな。元はナザレのイエス氏に対する解釈のあり方の意味のだようだが、一般化してフレームワークとして考えても面白い。魂(anima/psyche)と霊(spiritus/pneuma)を区別する。単なる衒学的な意味だけでなく、「たましい」を見る性能を、social cognitionと考えると、かなり現代的な意味を投影することができる。特性という継続的なものだけでなく、環境や状況に依存した「状態像」としても考えるこもできる*1

「霊は生かし、文字は殺す」

非文字での思想。絵画なり彫刻なり音楽なり色々あるけど、霊性重視の感性が美術と言われるものを培った培地cultureとも思えてくる。モノに魂(anima/psyche)を見ることがアニミズムとして、モノに魂を吹き込むことがアニメーションとすると、いわゆるアニメに対して3次元に存在するぬいぐるみ(遊び)という存在が面白い。鞄にぬいぐるみたくさんぶらさげてる人見ると、この人「霊性」(何かに魂を想定する心性・性能・能力)高いんじゃないかなーと思うことがある。魂を吹き込む作業に手慣れているというか。アニミズム(認識、理学的)→アニメーション(創作、工学的)。これに共通する「たましい」の認識をモノとは独立な純粋なものとして取り出したものとしての霊spiritという概念。この霊性をどれだけ機械や計算論に投影できるか。

アトムからビットへ
ビットからスピリットへ

論理値のカタマリが、ヒトにとっての精霊・魂のように振る舞えるか、というpneuma/spiritus, psyche/animaの課題。ビットがスピリットになるか。

*1:例えばリヴァイアサンに絡められたとき、ヒトはどうなるか?

Individual-Social-Societal framework

ヒトの「倫理」と言われるものを考えるにあたってのIndividual-Social-Societal (ISS) framework。関係の階層性があり、関係の階層によって考え方が変わるのではないかという前提をおいたフレームワーク。原子・分子・細胞小器官・細胞・組織(回路)・器官・個体など、階層が違うと話も変わる。階層の違いを意識するフレームワーク

個人(自分-自分関係):美学(正義感覚)
ソーシャル(社交関係):善(共同体的正義)
ソサエタル(社会的関係):公正(討議的正義)


個人 (individual)=自分-自分関係=自我-自己関係。自意識(自我)と内なる他者(自己)との関係。自意識による統治を重んじるか、他者の受容(未知の受容)を重んじるか、という好みの差はあれど*1。自我と自己・・・自我による自己への愛着・信頼・信仰、その応答としての自己から自我への愛着・信頼。自我と自己の対話としての個人individual・・・分割できないもの=分割できるもの・・・自我と自己の分離と再結合 (religation = re-ligion)。

「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」(アウグスティヌス『告白』)


宗教と呼ばれるものを教義・団体(内集団)に分割して考える。教義については超越的な話(広義の神話)を批判的に検討した上で、超越的なものを留保しつつ合理的な理解に持って行く。集団については、集団の再結合性(re-lig-iosity)について、「高分子」として結合の原理を分析する。個人・ソーシャル・ソサエタル。力点の置き方で、仏教キリスト教イスラム教や内部の宗派を並べたくなる誘惑があるけど、知らないことが多すぎるので、さすがに止めておく。


自分の思春期青年期、共同体的な思想を強く嫌ってたけど、生まれの共同体から分離して、個人化→再結合性にいたるプロセスとして自然に思える。思想の個人的嗜好というよりは発達段階的な。若い頃に苦手だったものも、家族持って30過ぎて多少は理解できるようになった。かつての自分と総合して、発想の階層や発達の段階によるところだろう、と振りかえる。


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individual-social-societal frameworkの応用としての、individual-social-societal model (ISS model):bio-psycho-social modelからの展開のひとつとして。bio-psychoを明晰に理解しようとするRDoC的な流れと対応するpsycho-socialな部分に対してのアプローチ。整理できていないけど、ひとつの補助線として。診断:いわゆる自閉症と呼ばれる診断に対して、ゲノミクスでゲノム的な診断をつけようという動きが既にある。molecular diagnosisと呼ばれたりもするけど、RDoC的には、genetic diagnosisという方がわかりやすい。

マトリックスを展開していくと、
genetic Dx
molecular Dx
cellular Dx
cicuit Dx
physiological Dx
behavioral Dx


self-reportを接続点として、ISS modelを当てはめると
individual diagnosis
social(clinical) diagnosis
societal(statistical) diagnosis


society(社会)とsociality(社交関係):後者は、1人の個人を軸に考える範囲なので、one's socialityと固有のものになる。個人の数だけある固有名詞の関係。前者は不特定多数で、統計力学的な関係。統計的な関係では、ヒト/人/人間はカテゴリーとして還元される。統計処理できる形に還元される。例えば、statistical diagnosis。後知恵だけど、DSMはstatistical diagnosis manual (SDM)とあれば、より意義がわかりやすかったと思う。statistical diagnosis(カテゴリー)とclinical diagnosisは異なる。後者は、one's socialityの中で通用する形。individualについては考えが足りていないので保留。individual - social - societalの階層性を想定する。

*1:前者志向の人は禅に、後者志向の人は老荘に惹かれる印象だけど、まぁ印象

哺乳類の社会行動を支える分子的背景としてのオキシトシンとその作用メカニズム

(今から読み直すと微妙なところもあるが、とあるレポートを当時のまま転写。訂正指摘歓迎です)

 

オキシトシン(OXT) は、Cys-Tyr-Ile-Gln-Asn-Cys-Pro-Leu-Glyの9アミノ酸からなる分子である。視床下部視索上核と室傍核の大細胞神経分泌細胞で作られ、下垂体後葉における軸索末端から血液中に放出されるのに加え、扁桃体側坐核・分界条床核にも投射していると考えられている。OXTオキシトシン受容体(OXTR) に結合することで、受容体側の細胞機能の調節を行う。OXTRはヒトにおいては一種のみで、Mg2+を必要とする7回幕貫通型Gタンパク質共役受容体ロドプシン型:クラス1)である。OXTRは神経細胞に限らず乳腺平滑筋細胞や子宮筋など多様な組織・細胞に存在する。下垂体から分泌されるOXTは、血液脳関門を通過しないので、脳におけるOXTの働きは、OXT産生神経細胞からの直接的な投射によって発現する。OXTRは、脳では扁桃体視床下部腹内側、側坐核、および脳幹で発現しており、これらの領域はOXTの調整を受けていると考えられる。ゲノム領域としては、ヒトにおいてOXT遺伝子は20p13に、OXTR遺伝子が3p25にてコードされている(以上、文献1より)。

 

OXTの生理的役割としては、ほ乳類出産時の母体子宮収縮や、授乳期の母体乳汁分泌の促進がよく知られているが、行動科学的な視点においては、げっ歯類のペア形成や母子愛着形成、親しい個体の識別といった社会的な活動にも関わる。例えば、出産後OXTR拮抗薬を与えた雌ラットは、典型的な母性行動を示さない一方で、出産経験のない処女メスにOXT脳脊髄液注入をすると、他のメスの子供に向けて母性行動を始めるといった実験が知られている1。ヒトにおいても、同様の役割を果たしている可能性が十分に考えられ、さらに拡張して社会的(社交的)活動全般のneuromodulatorとしての役割の可能性が注目されている。

 

Fehrらは、信頼ゲーム(ヒト被験者Aが、知人関係にないヒト被験者Bに一定金額を渡し、BがAにその一部を返す際に3倍するというルールで、他人への信頼度を測定すると前提したゲーム)にて、Aに対しOXTを経鼻投与するとAからBに渡すお金が有意に大きくなると報告した2。AがBに渡すお金の増大は、信頼という因子だけでなく愛着などの概念でも説明しうるが、いずれにせよOXTには、血縁関係のない他人への信頼ないし愛着といった社会的行動を促進する効果があると考えられる。進化的には、哺乳類において胎生や授乳(まさに哺乳類という名義の由来)が成立した時期に、子宮収縮作用や乳汁分泌作用という意義で正の選択圧がかかり、子育てにおいて子への愛着形成を促進することが、母子ともに遺伝子を残す正の選択圧となり、母子の愛着形成から、非血縁の他個体への愛着形成に生理的な役割が広がったものと推察する。OXTという分子の役割の進化的な変遷は、愛着や信頼といった「人間らしい」とされるヒトの行動やその発達過程、生理的・病理的な意義を考える上でも重要になるかもしれない。実際、OXTR遺伝子の多型(rs53576: G to A, rs2254298: G to A)は、自閉症など社会活動障害のリスクとして有力なものの一つであり、OXT分子(誘導体)は、自閉症を始めとする社交行動の障害の治療薬として注目されている1

 

OXTが上記のような愛着形成などの社会的活動に関わる神経科学的なメカニズムとしては、情動系の調節分子として作用しているという考え方と、認知機能を調整しているという考え方などがある。Malenkaらは、マウスにOXTR拮抗剤を投与する実験によって社交行動が有意に減少すること(OXTが社交行動の促進に必要なこと)、(狂犬病ウイルスによる回路同定によって)視索上核ではなく室傍核から側坐核に直接的な軸索投射があることを確認した上で、OXT側坐核中型有棘神経細胞に対するプレシナプス性のLTD(プレシナプスからの神経伝達物質放出減少)を誘発することを示した3。上記の実験は、社交行動条件付けをベースとして、OXT/OXTR拮抗剤投与と側坐核の中型有棘神経細胞での興奮性シナプス後電位の測定による。側坐核中型有棘神経細胞に対するプレシナプスにOXTRが存在しており、ウイルスベクターを利用したOXTRのコンディショナルノックアウト実験によって、このプレシナプス性のOXTRが、OXTによる社交行動の促進に必要であることも示している。このプレシナプス性のOXTRは、セロトニン含有細胞と重複しており、OXTによるLTDは5HT1B受容体を要することなどから、セロトニン産生神経細胞に富む背側縫線核から側坐核に投射している軸索終末にあると考えられる。以上から、背側縫線核から側坐核に投射している軸索終末に存在するOXTRが、OXTによって活性化されると、5HT1B受容体のLTDが生じ、社交行動や社交行動の報酬を調節していると結論づけている。ヒトにおいてSLC6A4(セロトニントランスポーター)遺伝子とOXTR遺伝子が、ネガティブ感情のコントロールや子供の養育行動といった表現系において相互作用を示すことは、遺伝学的な研究から元々知られていたが、マウスモデルにてその分子的・神経回路的な基盤を示したということが意義深い。

 

Malenkaらは、報酬系という情動に分類される単位での調整メカニズムを報告しているが、一方で、社交関連の情報を選択する(例えば顔の情報を選択的に意識・記憶するなど)といった認知メカニズムを変化させることで、社交行動を促進するという考え方もある。その分子・神経科学的な基盤として、Tsienらは、OXTがfast-spiking 介在神経細胞を解して、海馬において錐体細胞の自発的なランダム様活動を抑制し、状況特異的なシナプス伝達を効率化することで、情報伝達のシグナル対ノイズ比を上げるというメカニズムを報告している4。fast-spiking 介在神経細胞は、(統合失調症において異常の報告が多い)パルブアルブミン陽性抑制性神経細胞であることを考えると、統合失調症における社交行動の障害を説明するメカニズムの候補とも言える。

 

報酬系を解して特定の行動を持続させるにせよ、認知メカニズムを変化させて特定の行動を持続させるにせよ、以上はシナプスを中心としたメカニズムである。シナプスを介したメカニズムは、特定の神経回路を増強(ないし減弱)させる回路特異性の高い仕組みであるが、一方でシナプス内のタンパク質ないしmRNAからのローカルな翻訳に依存しているため、生化学的な安定性は必ずしも高くないと考えられる。一方で、母子関係を始め、信頼や愛情などの社会行動は長期に続くものであり、より安定的な分子メカニズムも想定しうる。通常のLTPやLTDといったシナプス可塑性で十分可能であるという可能性や、プレシナプス膜とポストシナプス膜が強く結合して電位を直接伝えるなど更に強固な回路形成 (hard-wiring) が存在する理論的な可能性は否定できないが、シナプス可塑性以外の可塑性の一つの候補として考えうるのが、エピゲノム変化(DNAやヒストンの化学的修飾)である。例えば、一夫一婦型のつがいを形成するハタネズミのペア結合の際に、側坐核内の神経細胞のOXTRプロモーターのヒストンアセチル化の増加し、OXTRの発現が増加するという報告がある5ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤でペア結合が促進され、OXTR阻害剤で阻害されることから、エピゲノム変化がペア結合の背景になっていることが示唆される。エピゲノム変化は細胞単位で起こるため、シナプスレベルの変化に対して、回路レベルの特異性は劣るが、化学的にはより安定と考えられる仕組みであり、シナプスレベルの可塑性に対して補完的に働いている可能性がある。OXT関連のエビデンスはないが、DNAシトシンの修飾はDNA自体への共有結合によって実現されており、ヒストンの化学修飾よりもさらに安定的なメカニズムとして働いているかもしれない。

 

1          Meyer-Lindenberg, A., Domes, G., Kirsch, P. & Heinrichs, M. Oxytocin and vasopressin in the human brain: social neuropeptides for translational medicine. Nature reviews. Neuroscience 12, 524-538, doi:10.1038/nrn3044 (2011).

2          Kosfeld, M., Heinrichs, M., Zak, P. J., Fischbacher, U. & Fehr, E. Oxytocin increases trust in humans. Nature 435, 673-676, doi:10.1038/nature03701 (2005).

3          Dolen, G., Darvishzadeh, A., Huang, K. W. & Malenka, R. C. Social reward requires coordinated activity of nucleus accumbens oxytocin and serotonin. Nature 501, 179-184, doi:10.1038/nature12518 (2013).

4          Owen, S. F. et al. Oxytocin enhances hippocampal spike transmission by modulating fast-spiking interneurons. Nature 500, 458-462, doi:10.1038/nature12330 (2013).

5          Wang, H., Duclot, F., Liu, Y., Wang, Z. & Kabbaj, M. Histone deacetylase inhibitors facilitate partner preference formation in female prairie voles. Nature neuroscience 16, 919-924, doi:10.1038/nn.3420 (2013).

 

『プロテスタンティズムの精神と貨幣経済の倫理』&『カソリシズムの倫理と社交資本主義の精神』

貨幣によって共同体からの切断が可能になったとしても物質的な面が大きく、精神面ではもしかするとルターはじめ源流のプロテスタンティズムの論理によって広汎な「個人化individualizaion」が可能になったのかもしれないとふと思った。力点を神と個人の直接的な関係(集団を通さない)に置くことによって。文芸・美術中心のルネサンスが個人の固有名詞(個有名詞)を中心に据えて語ると同時に、内面での「個人化」を可能にした思想である可能性を考える。「個人化」の同時多発。集団からの個人の切り出し。


実際には印刷技術で広汎な個人読書が可能になった、というテクノロジーによる作用が大きいかもしれない。本というメディアによる個人化。人々がともに語り合うという集団でのコミュニケーションから、個人だけで1人で文字が読める段階になり、そしてそこから更に黙読できる段階になると、個人化の階段をさらに一歩上がる感じがある。識字と黙読。黙読ってある種精神界への引きこもりだし*1。とはいえ、最初の活版印刷普及がルターによるドイツ語聖書であったとすれば、内容と形式(メディア)は密接に関連していて、どちらか独立の因子として捉えれば良いというわけではないだろう。


メンバーの固定した集団(community)から、社交的(social)な関係を経ることで、徐々に社会的(societal)関係へと社会化され個人となっていく過程を思春期と重ねる。分子から原子を取り出すイメージ。socialであるべきところでcommunityの枠組みが強いと、集団内にひずみが出そうではある。あるいは個人として独立できない。可愛い子には旅をさせよ、という言葉は含蓄深い。


しかし個人化は利点も多いが、ソーシャルな要素は力点としては下がる。個人主義が強くなると繋がりは減りがち。個人化の代償としての『自殺論』。カソリックプロテスタントの差異はイチローカワチ博士らが大規模コホートで示している。
Association Between Suicide and Religious Service Attendance Among US Women | Psychiatry | JAMA Psychiatry | The JAMA Network


その繋がりを埋めるものとして可能になった、あるいは必要とされたものとしての貨幣を想定してみる。貨幣が再結合的 (re-ligious) に働く。共有結合というよりは分子間力くらいで。内面における「個人化」により、より促進される貨幣経済。コミュニティから個人が切り出されることで、貨幣が再結合的なメディアとして必要とされる。パロディ化するなら、『プロテスタンティズムの精神(個人主義)と貨幣経済の倫理(再結合性religiosity)』。プロテスタンティズムと印刷技術=活字本というメディアのかけ算で。


しかし、貨幣でソーシャルキャピタルの完全な代理は難しい。ある程度カバーできるにしても。個人化を進めると同時に、社交化の形も考えないといけないのだろう。個人の独立 (in-depedent)から、再結合的 (re-ligious) なinter-dependentを。切断し再び繋げる再結合性 (re-ligiosity)。活字本による出版資本主義との関わりで言うと、『想像の共同体』が要請されるように。性愛は再結合的であるが、多くは儚い。しかし重要な再結合性であることは間違いない。


健康でいる頃は、個人化の一本槍でいけるし、そちらの方が気が楽。しかし、何かの「障害」を抱えると厳しい。「障害」と言っても、例えば子育ても障害だらけなので、子育てを多いに含む。実際子どもって、内なる「自然」であり、orderの世界にdisorderを持ち込む存在なので。これは、おもちゃで散らかった部屋を見れば視覚的表象として一目瞭然だ。これまたパロディ化するなら、『カソリシズムの倫理と社交資本主義(ソーシャルキャピタリズム)の精神』が必要になる。とはいえ、多くの人にとってはカソリックそのものに入信するのはさほど現実的な選択肢とは言えない。カソリシズムの特徴を理解するところから始めたい。個人と社交関係を媒介する倫理と精神とは何だろう。

*1:ローマのキリスト教化の過程が気になるが、ウィキペディアによるとアンブロシウスが「歴史上初めて黙読をした人物」らしい。初めてという部分は置いておいても、黙読って声(対話的)なところからのある種の「引きこもり」なわけで、黙読のもたらす精神性というのは気になる。

精霊を見ること

対象に主体や魂(anima/psyche)をどのくらい見るかのツマミをスライドさせると、あらゆるところに魂を見る(アニミズム)からまったくの物質として見る(物理学)まで世界観を調節できる感じ。人間/人/ヒトに関しても、かたやHomo sapiens、霊長類、ほ乳類、多細胞生物、高分子の集合、原子の集合として見る方向があれば、ヒト以外の動物、植物、モノにまで魂を見る(外挿する)方向とがある。後者を更に進めると、何もないところに「魂 spirit」を見る(想定する)ことができる。これが「精霊」と表現されるものの正体だろうか。


モノにまで魂を見る見方(アニミズム animism)は普通にあったけど、これを突き抜けると精霊 (spirit) という考え方になるのかもと気づいたのは最近。「霊性」と表現されるある種の資質はこれだろうか。何というのだろう。スピリチュアリズム?スピリティズム?ゴースティズム?・・・よくわからない。とりあえず直接的にspiritismとでも。animismの更にエッヂにあるものとして。


生物寄りに表現すれば、進化の過程で形成されてきた"social cognition system (module)"がどのくらい機能するか、ということ。文学寄りに表現すれば「擬人法」の考え方をどの程度まで広げられるか、ということ。擬人法は文脈によって、適応的・非適応的になる。擬人法が過剰になると、「人間的、あまりに人間的」に優しく社交的である一方で思考の明晰さは失われがち。擬人法が消失方向に行くと科学には向くが、socialityは低くなりがち。もちろんともに高度に持っている人もいる。一番問題になりがちなのはエソロジーの分野ぽい。


という意味で、三位一体で聖霊が高い位格にあるというのは、聖霊 (the Spirit) そのものが大事というよりは、精霊 (spirit) が見えるくらい魂(anima/psyche)に意識的 (conscious) であることが大事という意味に思える。対象の魂にconsciousであること、すなわちcon-scienceであること。con-scienceは、"with-knowledge"とか"be mutually aware"と分解できるらしいが、前者は内なる知識に沿って、後者は共に意識・認識し合う、という感じだろうか。後者の意味にとれば、意識=魂の主体を共に想定すること、みたいな意味になりそうだ。相手に魂=主体を見ることで、関係が「人間的、あまりに人間的な」ものになる。

「なぜなら、友情が真の友情となるのは、あなたが与えたもうた聖霊によって、私たちの心に愛をそそぎ、それでもって、あなたによりすがる人々のあいだの友情をかためてくださる場合にかぎられるのですから。」(アウグスティヌス『告白』)

「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。・・・それぞれの世界を持った複数の対等な意識」
「主要人物たちは・・・単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ。」」
バフチンドストエフスキー詩学』)


『白痴』や子どもや田舎的な素朴さに一種の理想を見るのは、この「霊性」かもしれない。大人の階段を上ることで失いがちな霊性。もちろん子どもだからといって、発達特性次第で全員が持っているわけではないけど。


やさしさに包まれたなら - 荒井由実(松任谷由実)

小さい頃は 神様がいて
不思議に夢を かなえてくれた
やさしい気持ちで 目覚めた朝は
大人になっても 奇蹟は起こるよ

カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことは メッセージ


対象に魂=主体を想定するとは、コントロールできない自由な存在であることをどれくらい想定するか、と言い換えてみる。自らの意志の自由だけではなく、対象の意志の自由を想定すること。何らかの刺激に対して反応がないとまず「いのち」を感じられない。しかし刺激に対して反応が変わらないと。古い意味での「機械」的に感じる。刺激に対する反応に変化があり、かつ読めない・コントロールできないと「たましい」の成分を感じる。という意味では、ヒトに限らず、機械でも生き物でも「たましい」がありえる。刺激 - 反応系のスタイルとして。逆に、何らかの力で刺激に対する反応を一定に保つことは「たましい」を認めないことになる。


物語を読む前のネタバレ禁。これは展開が未知であることを求めることの裏返し。逆に既知であることを望まない。展開の未知さを嬉しいと思うこと。もっと言えば未知さを祝福 (celebrate) すること。物語(ミュトス)と科学や論理(ロゴス)の対比は、未知の喜びと知(既知)の喜びの対比と言えるかもしれない。もちろん、後者において優れた人は、既知のものに未知を見る(Deja vuの反対語としてのVuja Deという表現もあるらしい)。「他者」という表現も、他人や自分の未知さに対する表現と言える。他人に自分と同質性(既知)を見るか、異質性(未知)を見るか。他人の中に自分(既知)を見るか、他者(未知)を見るか。他人に他者(未知)を見る者は、自分自身にも他者(未知)を見つけることになる。あるいは逆の順番も。

「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」(アウグスティヌス『告白』)



ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)