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オブジェクト思考ブロギング

「お客様は神様です。」

μῆνιν ἄειδε θεὰ Πηληϊάδεω Ἀχιλῆος
怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウス

  

イーリアス』の神々たちは、観客席に座っている。死すべき人々のサポーターとなり、舞台で戦うアスリートたちに茶々を入れる。不死の神々にとって、これは遊戯である。死すべき人々にとって、これは真剣である。死すべき人々は血を流し、魂が飛ぶ。不死の観客は、死すべきアスリートたちを高みから見下ろす。不死の神々とは、この世の舞台の観客であった。「お客様は神様です。」と、ある演歌歌手が言ったとき、彼は、『イーリアス』のことを言っていたのではないだろうか。彼は歌が奉納であり、神様が観客であることを誰よりも知っていたに違いない。

 

アキレウスは死に行く運命と知りながら闘いに向かった。彼はアスリート (athletes) だった。彼は観客ではなかった。太った腹を抱えながらビールとポップコーンを頬張る観客などではなかった。彼はやがて足に矢が刺さり死ぬことになったが、その魂は歌われることで、不死のごとき命となった。文字通りの半神(heros)として、死すべき人と不死の神の間で生きることになった。こうして彼も後に観客席に落ち着くことになった。

 

ヘクトルもまたアスリート (athletes) だった。彼もまた観客などではなかった。太った腹を抱えながらビールとポップコーンを頬張る観客などではなかった。死にゆく敗者も、ムーサに歌われ半神のごとき命を得る。こうして彼もまたようやく観客席に席を得ることになる。ムーサは敗者の魂も邪険にすることはない。魂を歌え、女神よ、武闘の舞踏に敗れて死にゆく者の。

 

ギリシャ人たちがオリンピアに集まる時、彼らは最古の政を神々に納めている。神々が観客となり、『イーリアス』を模した武闘の舞踏で、正統な正闘を踊り歌う。イーリオスの地では血の武闘しか知らなかった死すべき人々も、やがてオリンピアの地で舞踏の武闘を知ることになった。ゼウスは裁きの神であるはずだが、『イーリアス』では直に裁ききれず、他の観客たちの茶々や嘆願も捌ききれなかった。後の舞台において、ruleとは支配の意味であって、審判(ヘラノディカイ)とはその名の通りに裁きを行う*1。祭りごとは政となり、もっとも形式化され、そしてもっとも自由な踊りが、後にテニスとフットボールになった。法廷の誕生である。

 

「ディカイオンという語――裁定を律する原理である「正しい」要因――の登場は、宣誓によって不偏不党を明言し、裁判の展開をもはやアゴーン、つまり両当事者の闘技的対決という形式に委ねない裁判官の登場と対になっています。・・・裁判官と両当事者という三項構造が出現することになるからです。そして裁判官と両当事者のあいだで展開される場面は新しい領域を引き合いに出す。ホメロスには考えもつかないことでした。この領域がディカイオンの領域なのです。」(フーコー『悪をなし真実を言う ルーヴァン講義録1981』)

 

規則が支配し、もっとも自由な舞踏の武闘には、作家という家の主人はいない。裁きを行う審判がいる。家を作る作家などというものはいない。政を行うとは、祭り事を行うことであり、舞台で踊り歌い、正しく闘うことである。本当の戯曲には主人たる作家などいないのだ。

 

政とは何か?
舞台で正しく踊り歌うことにある。*2

 

*1:古代ギリシャでは、オリンピックを基準に年が数えられたらしい。年の数え方は、その土地の価値の布置を示す。オリンピックとは、おそらくヘレネス国際法であった。法と裁きを重く見る人々の神聖な法であったのだろう。規則 (rule) による支配 (rule) と、中立で神聖な審判者による裁き。理屈だけでは素直に納得できなくても、身体による武闘な舞踏としては、その血が知となり、身体に染み込む。オリンピックとは、おそらく最古の国際法なのだろう。

*2:舞台は、人に見られることを前提にしている。夜の営みや財布の中身は、人に見られないことを前提にしている。公開か密室か。ポリスとは公開の形式であり、すなわち公開性による公開政。オイコスとは密室の形式であり、すなわち秘密の性による秘密制。屋根と扉で囲まれた舞台は、本当は舞台とは言えない。