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オブジェクト思考ブロギング

日と月の明かり

photography(写真術)ができた頃、scientistという言葉が生まれたらしい。

「「科学者(サイエンティスト)」という新造語と、それを自然科学を実践する者のみに限定する使い方は、1830年代および1840年代以降に出てきたものである。その用語をしっかり確立したという功績は、通常、哲学者で科学史家のウィリアム・ヒューエルのものとされており、彼は1840年出版の著書『機能的科学の哲学』でこの語を用いている。」(スノー『二つの文化と科学革命』)

 

写真と絵画。photographyができてから、絵画は自らを一層探すことになった。scientistができてから、言語も自らを一層探すことになった。言語も、言と語も、自ら、言い、そして、語りたい。

 

photo-graph=光画。自然の光という鉛筆で描かせしめる。人が描くのではなく、自然が描いている。光が差し込んでいる。洞窟の電灯で写真を撮っている?・・・それは真に写しているものなのか?真を写しているものなのか?

 

明証。明るい証し。日と月による明かし。日と月が照らす。日と月に慣れ過ぎてしまうと、新月の夜に動けない。実はネオンサインの光でも動けない。空間に広がる音を聴く。赤外線スコープがなくても、なんとか大丈夫。

 

洞窟の闇に沈みたくなる…太陽が眩しかったから。月の光があった。それは日の反射光(reflection)ではあったけど、日の光ほどは眩しくはない。月の光のreflection。これで洞窟から出られる。

 

日のリズムと月のリズム。エロースの導きで、月の満ち欠けを識る。月のリズムを識る。エロースの導きで、月の明るさを識る。月明かり。それなら肉眼でも見れそうだ。・・・月が綺麗ですね。太陽光。レンズ職人がいた。光学顕微鏡を覗くとき、あなたもまた光に覗かれている。

 

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哲学は、真理を追究する営みとしてだと、現代では厳しいものがあるけど、個の発達、群れからの一旦のデタッチメントという発達課題的な位置づけという心理面では大きそう。

 

「全世界は哲学する者たちにとって流謫の地である。・・・
祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。」(サンヴィクトールのフーゴー)
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/ff14151c9c9d94fe526fa7e704fe06d2

 

cogitoも、何かしら「思考」としかとりあえずは言えないものが「在る」、それがひとまず「私」の出発点である、と。脱世間としての思考=体験=私。

 

真理を知るには、
自然言語でごちゃごちゃ思弁するよりは、
自然科学でがちゃがちゃ実験した方が良い。
心理を知るには、
しかし、どうだろう。

 

そして、やがて月の光を識る。

「人間はどうしても物自体を認識することはできないのです。・・・ですからカントは伝統的な意味での真理の基準に依拠するかぎり、人間は真理には絶対に到達できないと考えたのです。・・・・・・しかし、カントはここで真理を認識できなという懐疑論をもちだすのではなく、真理の考え方を変えることを提案するのです。そしてカントが提案したのは、認識の客観的な実在性という概念でした。・・・・・このコペルニクス的転回を経たことで、真理の概念はもはや対象と認識の一致という古典的な観点から考えられるのではなく、人間の認識が他者と了解しあうことのできる間主観的で共同的なものとなるのはどのようにしてか、という新たな問いに変わっているのです。」(中山元自由の哲学者カント』)