ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

精霊を見ること

対象に主体や魂(anima/psyche)をどのくらい見るかのツマミをスライドさせると、あらゆるところに魂を見る(アニミズム)からまったくの物質として見る(物理学)まで世界観を調節できる感じ。人間/人/ヒトに関しても、かたやHomo sapiens、霊長類、ほ乳類、多細胞生物、高分子の集合、原子の集合として見る方向があれば、ヒト以外の動物、植物、モノにまで魂を見る(外挿する)方向とがある。後者を更に進めると、何もないところに「魂 spirit」を見る(想定する)ことができる。これが「精霊」と表現されるものの正体だろうか。


モノにまで魂を見る見方(アニミズム animism)は普通にあったけど、これを突き抜けると精霊 (spirit) という考え方になるのかもと気づいたのは最近。「霊性」と表現されるある種の資質はこれだろうか。何というのだろう。スピリチュアリズム?スピリティズム?ゴースティズム?・・・よくわからない。とりあえず直接的にspiritismとでも。animismの更にエッヂにあるものとして。


生物寄りに表現すれば、進化の過程で形成されてきた"social cognition system (module)"がどのくらい機能するか、ということ。文学寄りに表現すれば「擬人法」の考え方をどの程度まで広げられるか、ということ。擬人法は文脈によって、適応的・非適応的になる。擬人法が過剰になると、「人間的、あまりに人間的」に優しく社交的である一方で思考の明晰さは失われがち。擬人法が消失方向に行くと科学には向くが、socialityは低くなりがち。もちろんともに高度に持っている人もいる。一番問題になりがちなのはエソロジーの分野ぽい。


という意味で、三位一体で聖霊が高い位格にあるというのは、聖霊 (the Spirit) そのものが大事というよりは、精霊 (spirit) が見えるくらい魂(anima/psyche)に意識的 (conscious) であることが大事という意味に思える。対象の魂にconsciousであること、すなわちcon-scienceであること。con-scienceは、"with-knowledge"とか"be mutually aware"と分解できるらしいが、前者は内なる知識に沿って、後者は共に意識・認識し合う、という感じだろうか。後者の意味にとれば、意識=魂の主体を共に想定すること、みたいな意味になりそうだ。相手に魂=主体を見ることで、関係が「人間的、あまりに人間的な」ものになる。

「なぜなら、友情が真の友情となるのは、あなたが与えたもうた聖霊によって、私たちの心に愛をそそぎ、それでもって、あなたによりすがる人々のあいだの友情をかためてくださる場合にかぎられるのですから。」(アウグスティヌス『告白』)

「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。・・・それぞれの世界を持った複数の対等な意識」
「主要人物たちは・・・単なる作者の言葉の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ。」」
バフチンドストエフスキー詩学』)


『白痴』や子どもや田舎的な素朴さに一種の理想を見るのは、この「霊性」かもしれない。大人の階段を上ることで失いがちな霊性。もちろん子どもだからといって、発達特性次第で全員が持っているわけではないけど。


やさしさに包まれたなら - 荒井由実(松任谷由実)

小さい頃は 神様がいて
不思議に夢を かなえてくれた
やさしい気持ちで 目覚めた朝は
大人になっても 奇蹟は起こるよ

カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことは メッセージ


対象に魂=主体を想定するとは、コントロールできない自由な存在であることをどれくらい想定するか、と言い換えてみる。自らの意志の自由だけではなく、対象の意志の自由を想定すること。何らかの刺激に対して反応がないとまず「いのち」を感じられない。しかし刺激に対して反応が変わらないと。古い意味での「機械」的に感じる。刺激に対する反応に変化があり、かつ読めない・コントロールできないと「たましい」の成分を感じる。という意味では、ヒトに限らず、機械でも生き物でも「たましい」がありえる。刺激 - 反応系のスタイルとして。逆に、何らかの力で刺激に対する反応を一定に保つことは「たましい」を認めないことになる。


物語を読む前のネタバレ禁。これは展開が未知であることを求めることの裏返し。逆に既知であることを望まない。展開の未知さを嬉しいと思うこと。もっと言えば未知さを祝福 (celebrate) すること。物語(ミュトス)と科学や論理(ロゴス)の対比は、未知の喜びと知(既知)の喜びの対比と言えるかもしれない。もちろん、後者において優れた人は、既知のものに未知を見る(Deja vuの反対語としてのVuja Deという表現もあるらしい)。「他者」という表現も、他人や自分の未知さに対する表現と言える。他人に自分と同質性(既知)を見るか、異質性(未知)を見るか。他人の中に自分(既知)を見るか、他者(未知)を見るか。他人に他者(未知)を見る者は、自分自身にも他者(未知)を見つけることになる。あるいは逆の順番も。

「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」(アウグスティヌス『告白』)



ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)