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オブジェクト思考ブロギング

科学への批評性

ノーベル賞の盛り上がりを見ると、権威というものを、暗黙的にではなく、記号的にかちっと形式化することが、分野の広がりに大事なんだなとよくわかる。権威の錬金術(権威というのは常にそう?)。自然科学の批評行為の最高峰とも言えるが、一方でノーベル賞以外に一般向けの批評機能があまりないのも気になる。


聞きかじりだけど、ポール・ヴァレリーが文芸や芸術への「批評」という行為を形式化したとか。作品のストックとフローが一定水準を超えたところで、圧倒的な知性がメタ的に関わることで批評が制度化されるとすると、サイエンスも当時の文芸に似ている状況であったりはしないだろうか*1。というのも、プレイヤーの数が増えてきて、論文もどんどん増えているがキュレーションが追いつかない。プレイヤーよりは交通整理や批評家が欲しくなる。個々の研究者が総説を書くが、より大局的になると「専門家」では難しい。


論文の世界も査読システムが政治色に染まりがちとして、発表後レビューが一般的になると仮定すると、何らかのキュレーターや編集者の役割は増える。交通整理がなければS/N比が下がるので。批評家の名前が前面に出ることも多くなりそうだ。

Reviewerとしてのサイエンス・ジャーナリズム - ideomics


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科学は文化という話。個人的には納得できる一方で、文化に分類される他の音楽やら演劇やらその他の多くは創作者に対して消費者がいる。補助や捻りはあっても直接の消費市場がそれなりにある。文化として位置づけるのは単純な「役に立つ」言説以上の難易度がある(政治的な困難に対する市場的な困難)。科学は文化と考えるなら、ひとつのステップは人文系よろしく、まず文化cultureという前に、教養cultureであるという位置づけかもしれない。


批評によってプロからアマチュアへのなだらかな勾配が形成されることにより、文化的市場としての科学が形成される可能性。一部管理が必要な領域はありそうだけど、サイエンスが「職業としての科学者」に寄りすぎていることによって、プロからアマチュアへの勾配としての市場が成り立っていない可能性がないか。(補助金メインで成り立っている伝統芸能のように)


nature誌も当初はポピュラーサイエンスの雑誌で、南方熊楠氏がたくさん投稿していた時代はまだアマチュアサイエンスの雑誌の要素もあったとか*2。nature誌の持つ批評性には、編集主幹の在任が長いことや、英国ジャーナリズム全体の質の高さ以外に、そういう起源があるのかもしれない。


政府ベースの基礎科学研究費は、財政的に厳しくなるだろう。個人的には科研費年間1兆でも良いとは思うけど、現実的には厳しい。コンソーシアムを作って、ロビイスト化・票田化して政治的権力を手に入れていくという集団的なアプローチ*3とともに、アマチュアサイエンス・教養としてのサイエンスの裾野の広がりも必要そう。確かに予算縮減できつい。日本国の経済的伸び悩みは一種の老いとも言える。老いとは悲しいものがある。しかし、老いてはじめて見えてくるものもあるのだろう。一種の批評性として。

ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ

*1:scientistという言葉ができたのは1830年頃だったとか。

*2:要確認

*3:USのAAASはそれに近い?