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オブジェクト思考ブロギング

Reviewerとしてのサイエンス・ジャーナリズム

サンエンス・ジャーナリズムは成り立ちにくい。という認識だけど、「単独で」成り立つのが難しければ、例えば、学術誌の査読や総説執筆といったサイエンス内部の仕事と抱き合わせることで、ある程度「職業」として成立しないかと思ったり。


というのも、映画の世界には、俳優、監督、プロデューサー以外にも、批評家というのが重要な「プレイヤー」としてあると認識しているが、サイエンスの世界にも「プレイヤーとしての」批評家というのはありうるかもしれないから。映画における批評家が、観客へのマスコミュニケーションと評価・批評というのを融合させた存在としたら、それに相当する存在がサイエンスにあっても良いと思うので。


実際、科学の批評(評価)とマスコミュニケーションをトップレベルで融合(抱き合わせ)しているのがノーベル賞だとも言える。職としては、サイエンスジャーナリズムと並行して、リベラルアーツ大学の教員、学術誌のエディター、政策立案あたりを回るような形が良いのかしら。


例えば、論文における1st author = 主演俳優、last author = 監督、教授やエライ人 = プロデューサーとして、批評家的なポジションを考えてみる。映画の批評家と同様に、マスコミュニケーションによって価値を出していけば、位置づけとして正当化されそうだし、何より、批評・評価(例えば査読*1)自体は、一種のパワーの源泉でもある。実際、Reviewベースで知名度が上がり、実作に携わるケースもあるみたいだが。ヌーヴェル・バーグの人たちみたいな。


学士=知を学ぶ、修士=知を修める、博士=知を博げる。として、「博げる」の意味を2通りに想定すると、①人類が持っている知の蓄積を拡充する、②知をできるだけ多くの人に広める。の2パターンがあり得て、①は研究活動、②は教育・啓蒙活動に当たる。とすると、博士の持つ意味も、①だけでなく(純粋な)②の意味でも正当化されうる。①のいかにもアカデミズムな面は既にデフォルトだけど、②の部分をどう「博士」として評価していくか。研究的な博士とは別様な形が想定されうるか。あるいは、アカデミズムとジャーナリズムとを"対等な"知のシステムとして対置することは可能だろうか。

『大学とは何か』 吉見俊哉 - ideomics

ジャーナリズムとアカデミズム - ideomics


まぁ、
サンフランシスコ出張:学会と財団、サイエンスのファンディング - ideomics
で書いたように、コンシューマーサイドから見たら、ゲームとか小説みたいにエンターテイメントに振っていった方が長期的な投資効果は高いのかもしれないけど。


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2013年3月23日追記

「高学歴ワープア」から高校教師というキャリアパスはどうか? | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
のように、教育分野での活躍も、かなりクリティカルな話かもしれない。知識を博めるという意味での博士。↑と初等〜中等教育など、純粋なアカデミア以外での活躍は、長期的な意味でも社会に重要かも。

*1:細かい技術的な査読は難しいとしても、より俯瞰的な査読や、コンテクスト的な査読。また学際的な研究の査読には向いているかも