ideomics

オブジェクト思考ブロギング

フィジカル・コミュニケーション

 

身体言語。肉体的関係というと性的な印象を持つが、現代近代のフレームを置いてみれば、友愛やらその他の身体的コミュニケーションの単なる延長とも捉えられる。毛繕いコミュの延長として。プラトンの世界で「同性愛」が云々という話もあるけど、別に性愛じゃなくて友愛や「深い」対話篇の延長としての肉体的関係があっただけかもしれない。避妊技術のない時代には、究極の「毛繕い」を異性でやると大変なことが起こりうるので、むしろ同性の方が合理的だった可能性もある。しばらくはありえないだろうけど、未来において「毛繕い」が、性別のこだわりなくもっと発達している可能性はある。

 

特に新生児とのコミュニケーションは、まさにフィジカルそのものだ。文字通りのセックスから始まり、フィジカルなコミュニケーションがしばらく続くことになる。リテラルにもレトリカルにもセックス2.0という趣きがある。ロジカルが通じるのはしばらく先だ。「あやす」という言葉があるが、お互いの内面を同期シンクロさせていくような感じ。リズムが大事だけど、これが脳波や心拍と関係あるものかどうなのか…。母性にはある種のエロスがあると思っていたけど、性的な方向に一元的に考えるより、単に身体言語の習熟とドライに考えた方が良さそう。いずれにせよ、乳幼児の子育ては、身体言語の駆使。

 

という意味で、ストッケの椅子やビヨルンのバウンサーの身体言語としての官能的な魅力には驚くばかりだ。「ものづくり」という大和言葉(平仮名)で表現されるものって、ダンスや抱っこやハグやキスやセックスといったフィジカル・コミュニケーションの先にあるもの・・・それを複製したもの、複製可能にしたものという気がしてくる。

 

子供が言葉を使う前に、やりとり遊び(無駄に物を渡したり貰ったりする)をしてたのを思い出す。言葉もモノのやりとり遊びの一種として生まれたとしたら、もともとは意外と機能的なものではないのかもしれない。情報的なやりとりのためコミュニケーションが発生したという合目的な理解もあるが、コミュニケーションの始まりは無意味なやりとりだった可能性が高い気がしてきている。科学技術とか芸術デザインとか、遊びが始まりのものが多いとすれば、至極当然なんだけど。もしかすると、貨幣なんかも、やりとり遊びから始まったのかも。そして、この「(情報としては)無意味なコミュニケーション」が、発達に重要なのではないか、とも。

 

マシンによって人間が「仕事」から解放されて、ますますホモ・ルーデンスになるとしたら、人間の役割としてより(マシンが苦手な)官能的・身体的な方向に行くベクトルもありそうだ。平仮名がギャル仲間の遊びとして洗練され、後に普及しつつ機能性を結果として持ったとしたら、三次元のモノで言うと装飾がそれにあたりそう。「装飾は罪悪」という考えには、装飾は機能的ではないという前提があるけど、機能性をコミュニケーションまで拡張すれば、装飾も文脈に応じた機能性がある。記号的な機能性は、文脈に強く依存するが、これは言葉も一緒で、「モノ=三次元の言葉」とすれば、まとめて考えうるところかもしれない*1。いわゆる芸術作品はそれにあたるけど、言うなればグーテンベルグ前の特権階層のもの(写本的)。これをデモクラタイズするのが、三次元印刷機なのかもしれない。モノによる(狭義の機能性ではない)装飾的なコミュニケーション。

 

*1:言葉を擬一次元の文字、書字を二次元の文字とすると、三次元の文字がありえそうな