ideomics

オブジェクト思考ブロギング

『ふしぎなキリスト教』 橋爪 大三郎, 大澤 真幸

新書大賞に選ばれ読者も多い一方で、アマゾンのレビューで物議を醸しているようだ。信者の方々にとっては、あまり気持ちよくないだろうし、指摘すべき点が多そうな雰囲気は確かにある*1


ただこの本はあくまでも、『"ふしぎな"キリスト教』であって、非関係者にとっての「不思議さ」について「説明」を試みたものと捉えている。信教として云々というよりは、歴史の中で他のアクティビティとどう関係づけられるかをコメントしたものであり、解釈の要素が強い(キリスト教の神髄とか本質とかに触れているとは考えにくい)。素人的にも、学術的なレベルで評価される印象はあまりないけど、他の制度との関わりに関する「解釈」*2として興味深く読み進められるとは思った。それに新書だしね。



とりあえず、この本を読み進めつつ、何より再確認したのが、ユダヤ教といい、初期キリスト教といい、迫害されてきた期間の長い人たちの宗教なんだなぁということ。どちらかと言えば、宗教が権力と結びついて、神権政治になったり、武力的な「勝ち組」の宗教にならなければ衰亡してしまうことが多そうな古代において、これだけ世俗的な権力と距離があった状態でがっつり継続してきた宗教もそう多くはないのではないだろうか。


一旦宗教云々の話を置いておいて、もっと卑近に、うちひしがれて無力感や絶望にさいなまされている状態にある時、どんな言葉が響くだろうかと考えてみる。もし、無力感や絶望と共に歩んできたポピュレーションがあって、そのポピュレーションがブラッシュアップしてきた思想があるとしたら、それは無力感や絶望にさいなまされている人間には一番響く可能性がある。少なくとも、「勝ち組の思想」は響かないだろう。


もし「永遠の負け組」みたいなポピュレーションがいて、物質的な豊かさや世俗的な権力が剥奪されている状態が続いたとしたら、そのポピュレーションはどういった部分を伸ばすだろうか。例えば、視覚に難があることで、聴覚を発達させざるをえないような状況のアナロジーで考えてみる。おそらく、現世をなんとか乗り越える、しかも可能な限り幸福に乗り越えるためには、現実の「解釈力」をUPさせるしかないだろう。物質的、現世的な力や権力がなければ、その限られた環境で最大限やっていくために、(富や権力ではなく)「解釈」によってどんな状況でも幸福を生み出していく。ということが可能性としてありうる。


その可能性に一番近いものとして、例えばキリスト教などがありえるのかもしれないと思った。誰でも、うちひしがれる時や「弱さ」に気づくときがあると思うけど、そういう時に響くとしたら、それはその人の人生に深く根ざすことになるだろうし、そもそも思想「単独」としての強度は他を圧倒するだろう(視覚を奪われた人の聴覚が、他の人を圧倒するかのように)。逆に例えば、古代ギリシャ的な"民主主義"には、奴隷の存在という"豊かさ"が必要だとしたら、前提条件を必要とする分、それは思想「単独」としては弱い。


やはり社会学者が絡んでいるせいか、社会制度に対してキリスト教(教会)が持った役割や影響みたいな話が一番面白かった。例えば、ローマ教会が公式な言語としてのラテン語を保持し、(正教会のように)現地語化しなかったことが、ヨーロッパとしての統一性に寄与したという指摘とか、封建制度では土地の相続が鍵になるが、それには「正式な」結婚が必要で、結婚への介入は政治権力ともなりえるが、教会は結婚への介入することで、政治権力へのフックを手に入れた、とか。考えてみれば、結婚を教会で執り行うのは不思議だ。今ではあたり前になっているし、神の前での契約と言うと収まりが良いけど、元はと言えば、生き物として繁殖の様式の話。もはや疑いえないデファクトになっているのは凄い。


キリスト教の世界が隆盛した理由として、「法律が自由に作りやすい:イスラムとかだと宗教的な法律が絶対的すぎて、そのあとの変更が難しい。それがフレキシブルだった」というのは、やや疑問だが、論点としては面白いと思う。宗教を背景として契約という観念がしっかりとありつつも、それに縛られすぎることがないという絶妙な位置づけだったという解釈。明快な説得力には欠けるが、そうかもしれない。


個人的には、西洋世界繁栄の肝中の肝は、「政教分離」だと思っているのだけれど*3、「ヤハウェという絶対神がいるからこそ可能になる、王権(=現世的な政治権力)の相対化とコントロール。預言者が権威を持つことで、王権が絶対化しない」というユダヤ教への指摘は面白かった。その時点で、ある種の政教分離の萌芽があったのかしら。「西ヨーロッパでは、カトリック教会が普遍性を、王権がナショナルな地域性を代表する」というのも、(ややどうかなと思いつつ)面白い。今のEUに繋がるfederalismが、既に用意されていたということかしら。


近代的な自然科学の世界観とそれ以前の世界観とを比較した場合、誰でもすぐに気づく明白な相違は真理の規準なんですね。中世だったら規準はテキストにあった。でも、近代的な自然科学においては、それは規準にならない。だから経験科学というのが出てくる。

(ガリレオ曰く)「アリストテレス主義者は心理は『物語の本』にあると思っているが、自然こそが真に偉大な書物なのだ」と。つまり、自然は聖書以上の聖書だというわけです。

多くの人の疑問として、なぜキリスト教圏から自然科学が生まれたのか、というものがある。例えば、ガリレオのように迫害された例もあるというのに。これについては、この本ではそこまで明らかにならないけど、やはりnatureという言葉の宗教性(nature=神によって生まれたもの→転じて自然?)や、自然の理(ことわり)への理解=神の意志の理解として宗教的な情熱を持って行ったというあたりなんだろうか。感覚として、なんとなく腑に落ちてはいるのだけど、うまく理解はできない。というのも、自分自身の場合は、(むしろ順番が逆転して)自然科学的な知識や理解に触れることで、自然の神性(崇高性)みたいなものを感じて、転じて宗教的な背景が共感できるような感じがするのだけど、歴史学的な理論付けはまだよくわからない。

「宗教とは、行動において、それ以上の根拠をもたない前提をおくことである。独特の、証明されざる前提みたいなものを置いて、行動の前提にする。」

最後にこういった言葉が紹介されていたが、「無宗教な人というのは本当はいないのではないか」というのは賛同。一見「無宗教」に見えても、何かしらの「証明されざる行動の前提みたいなもの」は誰しもあるだろうし。「宗教」という言葉を広義にとって、その「証明されざる行動の前提みたいなもの」を探求していく試みが、自分の今後の興味の照準になってくるような気がして、本を閉じた。

*1:よくはわからないけど。特にユダの福音書と言われた資料に関しての部分は、素人的にもどうかなと思いつつ。詳細は、ふしぎなキリスト教 @ ウィキ - トップページhttp://kliment.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-28cc.html参照。

*2:ある意味、明快ではないテキストへの「解釈」に苦労することが、西洋世界のbrain-building的なトレーニングになっているのかもしれない。精神分析の受け方、特にフランスにおいてのそれは、解釈力の伝統かもしれないと思ったり

*3:だから、ルターとかに興味がある。彼等について私が知っている2,3の事柄 - ideomics