ideomics

オブジェクト思考ブロギング

『大学とは何か』 吉見俊哉

良くも悪くも記述的なので、「読ませる」タイプのエンタメ性はないが、簡潔で情報量が多い。大学の歴史を概観するには、非常に便利。



大学というと、12世紀前後から連綿と続いているような振りして歴史的な正統性をブランディングしているけど、16世紀〜近代には形骸化が進み、知の生産という意味では死に体だったこともあるようだ。印刷術が隆盛を迎えると、知の生産や流通のシステムとして、出版が大学に勝っていたし、近代初頭は、専門的に有用な知識は、大学というよりも、アカデミーと呼ばれる国家機関が担っていた(特に絶対王政な18世紀はアカデミー優位)。今日では、大学=アカデミアと同一視されやすいが、歴史のある時点では、むしろ緊張関係にあり、スコラ的な大学に対して、アカデミーが「新しい知を切り開く役割」が期待されていた時代もあった。


近代の自然科学や人文主義が、パラダイムを変えていく大事な時期に、実は大学は知の主体ではなく、デカルト、ロック、スピノザライプニッツなどは大学教授というより、出版によって名声を確立していたという指摘は、なるほどと膝を打つ(特にスピノザが教授職を断っているとことか)。「出版が大学と並ぶ"institution"でもありうる」というのは、今回得た一番の教訓。出版というsystemではなく、出版主体(出版社など)+著者群という個々の"institution"という意味で。これをそのまま現代に援用すれば、大学とウェブの関係。ウェブ自体が既に情報流通を担っている上に、カーン・アカデミーみたいなプラットフォームもある。もし大学が沈滞するようなことがあれば、ウェブ上の論客たちから、デカルトスピノザが出てくるのかも。

とはいえ、
ハーバードやMITは古い–スタンフォードこそ本当の“教育の革命”に取り組んでいる - TechCrunch
スタンフォード大学医学部のように、ウェブ+対面教育のハイブリッドがしばらく主流になるのだろうが。


立教大学学長の
卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式) | 立教大学
は少し評判になっていたスピーチだけど、この「自由に考える」「反社会性」は大学というinstitutionに求めるものではなく、出版という(同等の)institutionに求めるべきものではなかろうかというのが、ひとつの感想。大学というinstitutionに役割をいろいろ背負わせるのではなく、同等なパワーを持ちうる出版というinstitutionに期待する。みたいな。


個人的には、「第4世代の大学」論 - ideomicsみたいに思うところもあるが、出版というinstitutionへの視点はあまりなかったので、ここはもう少し考えてみたい。特に電子書籍の時代において。


大学が今の日本のような姿になったのは、19世紀のドイツで、ナショナリズムに後押しされたドイツの知識人が、フランスのアカデミーに対抗しつつ、中世から残存していた大学という資源を利用し、そこに国家の後押しという要素を付け加え、研究と教育を一体化させたことに始まるらしい。教育だけでなく、研究も並行して行っていくというのが新しく、また国家からのファンディングというのが、それまでの中世的な大学と違う。ある意味、フランス的なアカデミーと中世的な大学を止揚したとも言える。


現代ではハーバードなどアメリカの大学の名声が目覚ましいが、19世紀の後半でもまだ、アメリカの大学はドイツに劣っているとみなされており、博士号の授与は実に少ない状態だったらしい。アメリカの大学はドイツのように研究と教育の一体化に成功せず、そこで考案されたのが、「大学院」というコロンブスの卵的な発想。大学院graduate schoolを発明したのは、実はジョンス・ホプキンス大学が初めてで、20世紀前半のアメリカではジョンス・ホプキンスが非常に高い位置にあったとか(例えばウッドロー・ウィルソンがジョンス・ホプキンス大学院の卒業生)。大学院を「後付け」することで、研究と教育の一体化に成功した。


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ざっと概観して、大学と一口に言っても、いろいろ歴史的な背景も違うし、今名声ある学校も、かなりイマイチな時代もあったのだなぁという印象。歴史全般に言えることだけど、現在の姿を、距離を持ってドライに眺める視点を与えてくれる。


ウェブを推進するラディカルな人の中には、大学不要論もあるだろうが、情報や知識が中心となる時代*1には、むしろ、戦争の時代の国家、経済の時代の企業のように、大学が人々のアイデンティティの中心を占める可能性もある。実際、ネイションと同じくらい出身大学にアイデンティティ的な愛着を持っている人もいるだろう。ソーシャル・ネットワークの代名詞とも言えるフェイスブックだって、大学の名簿が起源だしね。


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追記:

とはいえ、国家財政を当てにした大学像は、国家財政が厳しくなると成り立ち難くなってくる。そうすると、資金源を別なとこに見つけなければならない。そうなると、大きいのは企業や寄付団体(個人富裕層含む)。しかし、これが企業から見ると、名声や地位という意味で、自前の研究が意味をなすこともあるかもしれない*2。となると、大学や出版とは別な極からの参入もありうる。日本はじめ、国家財政が苦しくなる以上、ファンディングも難しくなるし、うまくシステム作りしていけば、歓迎な流れだとは思うんだけど、どうなんでしょうか。19世紀に確立した近代国家(国民国家)ベースの研究大学・研究所というシステムから、知の生産にも何らかの転換が起こっていくのだろうか。


6月1日追記:

吉野作造は帝大法科主席→留学→教授というエリートコースど真ん中な人だったけど、朝日新聞に請われ、途中で教授職を辞して、朝日新聞論説委員になったらしい。「民本主義」の実践という意図があったのだろうが、にしても、今だったらほとんど考えられないルート。逆に考えると、当時(1920年前後)は、ジャーナリズムが、アカデミズムと同等とは言わないまでも、キャリアとして比肩しうるものでもありえたという解釈もできる(少なくとも吉野自身にとっては)。


ジャーナリズム的な知のあり方は、アカデミズム的な厳密性とは違うものの、生活の必要性を考えると、めちゃくちゃ大事。「ジャーナリスト」だけに任せておくには、あまりに重要すぎるかも。そして、もっと構造化というか、システム化がありえるかもしれんと思ったり。
ジャーナリズムの構造化 - ideomics


出版やジャーナリズムという部分が、大学やアカデミズムと比肩しうる知のシステムを構成できるか、いかに構成できるかというのは、なかなか面白そうな課題。少なくとも、グーテンベルクの銀河系が輝いていた時代はあったようなので、まったく不可能というわけではないと思うけど。