ideomics

オブジェクト思考ブロギング

言葉=オブジェ:マンガの中では言葉がモノとして物質化している

最近特に言葉がモノとして見えるようになってきた。あたかも空中に言葉がモノとして現出するような。ちょうどマンガの吹き出しや擬声語のように。マンガの特徴のひとつとして、言葉=文字が絵と併存して、あたかも言葉もオブジェとして絵の一部として収まっているところが挙げられる。現実がそのように見えてくると、「言語の物質性」というのも現代思想の一テーマも、俄然リアリティを帯びてくる。


言うなれば、ドラえもんひみつ道具コエカタマリン」のようなイメージ*1

マンガとともに育ちマンガとともに培われる世界観。きっと他にも色々な世界観があるに違いない。


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言葉=モノとすれば、「文学作品」=「モノを組み合わせた工学的作品」=「機械」。言うなれば、俳句や詩=精密機械、長編小説=重機のようなイメージ。ドストエフスキーなんてまさに重機な感じ。めっちゃパワフル。ガガガガガッ。


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Twitterで「世界全体の気分」を分析 « WIRED.jp

言語の「起源と進化」を探る研究:「人間は言語の宿主にすぎない」 « WIRED.jp

最近続けて言葉や言語がサイエンスの対象となった報告を読み、そしてフーコーの言説分析やサイードの『オリエンタリズム』など、言葉を対象=オブジェ=物体として捉えたかのような分析を想う*2。言葉をモノとして扱う。あたかも触れられるものとして。


情報=バーチャル(仮想)というが。本当だろうか。情報や言葉はvirtual=not realのものであろうか。言葉をオブジェとして捉えればもっと別様な発想は出てこないものだろうか。


文学=プログラミングとするならば - ideomicsからもう少し進んで、文学作品=機械と捉える。プログラミング以上に物質的なエンジニアリングの対象として。文章/文献/文学の解析をもっとサイエンス・エンジニアリングに引き寄せて考えられないものか。ちょうど↑のTwitterで「世界全体の気分」を分析 « WIRED.jpなんかのように。工学部文学科といった具合に。


*1:ドラえもんのひみつ道具 (こ) - Wikipedia

*2:フーコーの有名な作品のひとつの邦題はまさに「言葉と物」であったが