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オブジェクト思考ブロギング

TV or not TV ?

映画は孤独に向き合う。映画館で電灯(全体に広がる光)を消して、作品と個人として向き合う。互いの顔は見えない。照明は、画面とその中の役者や風景にだけ。客はおしゃべりはできない。雑音は許されない。

 

TVは複数人で見る。TVよりむしろ互いに向き合う。リビングで電灯をつけて、互いの顔を見て共にする。照明は画面と視聴者の両方に当たっている。おしゃべりはよくあること。TV自体がむしろ信号と同時に雑音(雑談)でもある。

 

BGM (background music) ならぬ BGM (background movie) として映画を流そうとしたことがあったけど、気が散漫になるだけで良くなかった。TVはむしろ集中するのが辛い。冗長で密度がないから。ほとんどが信号というより雑音のような番組も多い。雑音と信号は区別しがたい。理性的で比率的(ratio-nal)なsignal/noise ratio (S/N ratio)に対する、非理性的で非比率的(ir-ratio-nal)なsignal/noise ir-ratio。その分、背景として優れている。前景になるのは家族や共時的な集団。

 

映画とTVドラマの違い。映画が時間の、シークエンスの芸術であるのに対して、TVドラマの方が、まさにdramaであって演劇的、つまり空間的な成分が多いようにも感じる。実際人間関係が主体だし。TVドラマ『東京タラレバ娘』で映画好き男性と、主人公倫子(TVドラマ脚本家)が、"Sex And The City"についての好みで食い違うところがあって、映画 vs TVドラマの差が面白かった。一種のメタドラマ。

 

実際には、アクション映画やデート用の映画など、いくらでも中間的なものが多いけど、シェーマ的に言えば、前者が絵画のシークエンスで、後者は演劇的・空間的・社交的=社交空間なのかも、と。綺麗に分かれるわけないし、昔の演劇の延長としての映画なんかは、むしろドラマ的なんだろうとは思いつつ。倫子が、「ドラマってちゃらいって思われてるけど、現場はみんな本当に本気でやってるんだよね。みんなでやるって一体感があって。脚本はその設計図なんだけど、その設計図を書きたくて、脚本家になろうと思った」みたいな趣旨の発言があり、建築家の比喩(設計図)が使われている*1橋田壽賀子氏のTVドラマは、キッチンで作業している主婦が画面見なくても話が追えるようにscriptが「設計」されていたと聞くけど、確かに空間的な「設計」になるんだな。とキッチンで洗い物してると思う。音と光を伝える精霊たち(spirit)の空間設計としてのscript。ブラウン管の厚みの中には、舞台が隠されている。

 

作品として完成された音楽や映画には、始まりと終わりがある。絵画のように額縁=枠(frame)がある。個体=固体として独立した境界がある。枠組み(framework)によって、骨組み(framework)が生まれる(外骨格)。ラジオとTVには始まりも終わりもない。だらだら続く。流体的。自覚的でないと、TVは表象(re-presentation)ではなく、同時的な現在(present)の上演(presentation)のように思えてしまう。共時的にだらだらと一緒に過ごしてしまう。時間の切断がない。

 
映画は小説の延長として、孤独に向き合い、我と我のソーシャルネットワークを形作っている。

TVは演劇の延長として、皆で向き合い、我々のソーシャルネットワークを形作っている。

 

TV, or not TV - that is the question.

*1:東京タラレバ娘』のように、マンガ表現を実写ドラマで再表現するというのは、日本のTV局が生んだ映像表現の一つかもしれない。表現形式が面白い。典型的なハリウッドの3D CGが実写と区別がつかないのを目指してるのに対して、むしろ実写を2Dする。一時的に2.5次元というべき状態になる。普段の実生活的な3次元状態との差がリズミカル。