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オブジェクト思考ブロギング

生物(いきもの)としての会社、生物(なまもの)としての会社:『スリッパの法則』藤野英人著

『スリッパの法則』


たいした資産があるわけでもないけれど、銀行に預けること=国債を買うこと、とすると、預金するのも釈然としないし、なにやら資本市場に悪を為している気もするので、もうちょっと有意義な投融資に回したい。と思って読んでみたら、思いの外楽しかった。


一番印象的だったのは、著者はとにかく会社を見るのが楽しくてしょうがないという感じが伝わってくること。犬好きな人が、犬と戯れるのが楽しくてしょうがない、様々な犬と触れあうのが楽しくてしょうがない、という感じで。会社が実に、"生き生きとした物"="生き物"に思えてくる。『〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術』岩崎 秀雄 - ideomicsで触れた"生き物"という主観的な感覚という意味での、会社=生き物。


一旦生物の学問的な定義を置いておいて、何が「生き物らしさ」を感じさせしめるのかと考えると、ひとつは「予測できなさ」というのがあるように思える。つまり、期待や予測とは違う動きをしてくること。逆に、機械的という印象は、予測通りの動きをしてくるというところから感じられるのかもしれない*1。そして、生き物を楽しむということは、「予測できなさ」を楽しむというになるかも。生き物=予測できない、機械=予測できる、というスキームとすると、どちらを好むか、楽しむか。どちらも楽しいだろうが、男と女で差があるような気もする。


昔の人にとっての自然は、今よりはるかに予測できないという意味で、より総体として生き物らしい=生き生きとしていた可能性がある。これが、原始的なアニミズムの背景のひとつかも*2。つまり、アニミズム=予測不能性。文明により予測できる範囲が広がると、生き物らしさは減って、より機械的に捉えられる。例えば天気予報。昔であれば、予測できない=生き物らしいということで、アニミズム的な感性の対象になったのだろうが、今やそれなりに予測できるということで、機械的な感じになる。雷様なんて感じはなかなか持てない。


生き物=予測不能という意味で、著者は会社を生き物として見ていて、その後の動きも楽しんでいるように思える。というのも、失敗を振り返る視点にも何か楽しくやってるような感じもあるから。当然、他人の金を預かっている投資業なので、そんなシンプルなわけないだろうけど、自分も会社をそのように眺められたら、もっと楽しく投資できるのかもしれない。そういえば、会社という法人には、"人"という文字がある。法人=人=生き物とすれば、それは生命美学*3の対象になりうる。そして、会社=生き物とすれば、それを素材に料理する行為=投資etcは、生鮮食料品との向き合い方に近いかもしれない。


生き物=生き生きとした感じ=予測不能とすると、これは単なる生命美学という趣味の問題だけでもなくなる。というのも、予測できないこと、unpredictablityを尊重することとは、他者の自由を尊重することだから。生命の生き生きとした感じを尊重するとは、他者の自由を尊重することであり、それは、自分にとって予測できないものも包含して認めるということだから。逆に言うと、機械論を好みすぎると、思い通りにしたくなる、あるいは、思い通りにならないと気が済まない、という意味で、自由の尊重ができなくなるという副作用もあるかもしれない。


という意味で、色々と示唆のある本だった。もちろん、「会社=生物」鑑賞の手引きとしても。ところで、良い会社ならぬ、良い投資信託/ファンドを選ぶにはどうしたら良いんですかね。スリッパがないところを選べば良いのかな・・・

*1:むしろ、機械は、予測・期待通りの動きをするように設計されているのだからあたり前か。逆に言うと、生き物らしい機械を創るなら、その枠組みを超えないといけないだろう。

*2:2次元のアニミズム - ideomicsなどにも適用できる話かも

*3:『〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術』岩崎 秀雄 - ideomics参照