文学における共著、あるいは多視点の方法論・・・collective writing?
文学と言われるものにまったくの素人ではあるものの、ふと文学において共著という概念が成り立つのかどうかと気になった。というのも、集合知とか集団による創造性といったコンセプトが最近気になるトピックだから。ポリフォニーといった概念はあるものの、一人の著者ではなく共著として成り立つとしたら、視点の多様性やキャラクター作りの多様性がより担保されるのではないだろうか、と。一人でどれだけポリフォニックにできるのかは才能だろうが、やはり限界があるだろうし。
「物語=物+語り」と分解して、
物=事物・エピソード:客観的*1
語り=ある視点からの感情や思考の表現:主観的
と考えると、物を固定しつつ、語りを多視点にということがありえる。
というか既にそういう手法はあるし、「文学のレッスン」 丸谷才一 - ideomicsにも触れたけれど、ある意味『新約聖書 福音書』は、4人の視点から似たようなエピソードを眺めた記録だし、映画の『羅生門』もまさに。『冷静と情熱の間』はそれを、よりダイレクトに行っている。エピソードを中心に固定し共通として、その周辺として、語りを多様化させることで、概念上は「共著」が可能そうではある。いわば、collective writing。
歴史を題材にした漫画に優れた作品が多いのも、プロットがある程度決まっている分、演出、キャラ作りに打ち込めるという利点があるからかもしれない。いわばプロットという公共財の周りで、演出やキャラ作りを創出して、(多かれ少なかれ)多視点化する。というか、行ったことはないけど、コミケの二次創作ってのは、元の作品を「多視点化」しているものも結構あるのかもしれない。もしかしたら、昔の連歌もそれに近いかも。
ナラティブを集めることが、文学やジャーナリズムの使命の一つであって、特にマルチカルチュアリズムと言われる考え方を大事にするとしたら、どうしたら多くの「声」を集めることができるだろうか。ジャーナリズムの銀河系 - ideomicsやハンナ・アレントにおける政治の意味 - ideomicsに触れたように、多くの「声」を集めるということは。アレントの言うようなpluralismの実践へのステップとして。
例えば、シェイクスピアのハムレットのプロットをひとつの中心軸として、他の登場人物からの視点で集合的な作品ができたらどうだろうか。『王女オフィーリア』と『クローディアス』みたいな感じで。というか、前者は書こうとしてみたものの、まったく能力・経験・動機・その他諸々が足りず諦めたのよね・・・
サイエンスやビジネスの世界において、知やモノ・サービスの創造が、集団による創造性の活用にシフトしていくとしたら*2、いわゆる文学やアートの世界でも同様の現象は起こりうるだろうか。
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参考文献:
Evidence for a Collective Intelligence Factor in the Performance of Human Groups
この文献のcollective intelligenceを、collective creativityと置換して考えると、どういう内容になりそうだろうか。平たく言うと、IDEOのSeven Rules of Brainstormingみたいな感じだろうか。
http://tomwillerer.com/post/145531080/the-seven-rules-of-brainstorming-from-ideo