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オブジェクト思考ブロギング

脳=思想するカラダ? - 『脳には妙なクセがある』池谷裕二著

池谷裕二先生の『脳には妙なクセがある』(扶桑社)、さすがのクオリティ。めちゃくちゃ面白かった。池谷先生、無双過ぎですね。



池谷先生が幅広くチョイスした面白い実験が、アラカルトのように並べられているけど、

身体運動や身体感覚が内面化されることによって、(脳の)高度な機能が生まれた。

ヒトの心の実体は、脳回路を身体性から解放した産物

と脳機能に対して、「身体的な起源」を強調するというコンセプトがある。進化の流れの中で、これまで、よりシンプルな動物において身体のコントロールや身体の反射活動などに使っていたコンポーネントを、徐々に高度な「思考」へと応用していく。そして、そのコンポーネント(の一部)が、徐々に身体機能を直接的には経由せずに、情報処理を行うことができるようになる。すると、身体とは(半ば)独立に完結した回路を形成する。これが、いわば「精神」と呼ばれる現象となる。みたいな。


これを逆から言うと、いかに「精神機能」と見えるものも、実は「身体機能」から完全に離陸しているわけではなく、身体と脳の関係というのは、日常で思われているよりずっとある。例えば、「心が痛む」「苦い経験」という言葉は、各国共通してあるらしいけれど、これもその痕跡。そして、fMRIを使った実験では、純粋な思考や解釈の過程でも、身体をコントロールしている部分が活性化していることがままあり、これも示唆的。

精神と身体は切り離して考えることはできません。心は脳にあるのではありません。心は身体や環境に散在するのです。


個別のエピソードは細かくなるので、詳しくは本書にて。ともあれ、身体bodyが脳brainに及ぼす影響にちょっと自覚的になってみようと思った。


おそらく、このあたりの話って、人文系の世界では割とメジャーかもしれない。例えば、

『思想する「からだ」』

とか。

「人間の肉体は一つの大きな理性である」(ニーチェ)

と締められていたが、人によっては、人文的な方向でインスパイアされそうだ。


例えば、歩き(足の運動、身体の揺れ)ながら考えるというプロセスが思考に良いということが言われたりするけど、これを手の運動に置き換えるとどうなるだろうか。デザイン思考と呼ばれるものが、視覚化や物理化によって思考の方向を変容させていくプロセスだとしたら*1、手で「作品」なんかを作っていく過程で、同時に思考はどう影響を受けるだろうか。


作品を手で作っていくということにちなんで、これを「アート思考(仮)」*2と名付けて、実質的な意味をもたせるとしたら、どんなものになるか。脳の活性化部位の違いも踏まえて。造形する作業を通して、脳機能・思考はどう変容していくだろうか。

*1:デザイン思考とfMRI? - ideomics参照

*2:名前がイマイチ過ぎるが、デザイン思考との対比から考えるということで、仮の開発名として使用