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オブジェクト思考ブロギング

ジャーナリズムとアカデミズム

藤原帰一先生:"大学の役割 - 「まだ見えぬもの」を考える"
大学の役割(藤原帰一)/コラム/東京大学政策ビジョン研究センター


藤原先生の、いい意味でジャーナリスティックともアカデミックとも言い難い時事評論はとても好きだし、共感できる気がするけど、むしろ「出版/ジャーナリズム」と「大学/アカデミズム」の関係の再考が必要なのかもしれないと感じた。この2つのシンプルな蜜月はそもそも成り立ちにくく、文字通りのハネムーン旅行程度の期間だっただけなのかもしれない。


中世〜近代の欧州では、ラテン語で書かれた文章か国語(フランス語、ドイツ語、イギリス語など)で書かれていた文章かということを考えるのは、ナショナリズム研究としても大事だし、想定している読者がどのような層かという言説のマーケットという意味でも興味深い*1。ルターは聖書のドイツ語訳を出したが、95箇条の張り紙はラテン語で書いていたらしい*2


マルティン・ルターのソーシャルメディア的炎上 | Kousyoublog
で書かれているルターの人生。ラテン語使いから国語使いへの変遷。もしルターが「ラテン語使い」のままで、「国語使い」にならなかったら、後世に残るような可能性はもっと低かったかも。


想定している読者が一般人口であれば、国語で書くべきだし、インテリ/アカデミシャン向けであればラテン語。その対比は、ジャーナリズムvsアカデミズムという軸での切り口とも重なる。現代では、「知」という意味では、(大学・アカデミズム)>>(出版・ジャーナリズム)という不等式が成り立っていると思うが、この不等式は歴史を通じて必ず成り立っていたわけではないようだ。近世欧州において大学が沈んでおり、出版が栄えたという歴史もあるらしいので*3


藤原先生のお話では、なんとなくアカデミズム>>ジャーナリズムの不等式が前提にされている印象だけど、アカデミズムとジャーナリズムは、不等号を介した蜜月というよりも、むしろ緊張関係にある方が良いのかもしれないとも思う。実際、吉野作造先生はそういう気概で超エリートコースの大学教授を辞したのではないだろうか。そして、その緊張関係を前提に、「出版/ジャーナリズム」がいかに「大学/アカデミズム」と対置できるレベルになれるか、どうしたらいいのかということを考える方が生産的ではないかとも*4


さらにさっきのラテン語/国語の喩えを援用してみる。ラテン語=アカデミズム、国語=ジャーナリズムとして、英語=現代のラテン語とすると、国語で書かれた「学術的な文章」というのは、ジャーナリスティック(≠アカデミック)で「出版」向けの文章という解釈もできる*5。つまり、場合によっては、「学術的な文章」も日本語であるならば・・・。『「日本語の論文」というのは、矛盾した表現である。日本語であれば、それは論文ではない』という述べる人もいることはいる*6。このあたりは、『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』などでよく言われていることではあるが*7。この日本語危機論を背景に、(大学・アカデミズム)と(出版・ジャーナリズム)、ラテン語と国語をどう考えるか。ラテン語使い→国語使いと変遷したルターの人生は参考になるだろうか。


*1:年代ごとにラテン語の文章と各国語の文章の量などをビジュアライゼーションしたら結構面白いinfographic/movieになるかも。

*2:マルティン・ルター - Wikipedia

*3:『大学とは何か』 吉見俊哉 - ideomics参照

*4:ジャーナリズムの構造化 - ideomics参照

*5:とはいえ、英語自体が数億人の国語なので、この話はややこしい

*6:私自身は英語が得意じゃないので、大変辛い言葉だ。。。

*7:例えば、404 Blog Not Found:今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき参照