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ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

家電量販店

先日シェーバーの替え刃を買いに、ヨドバシカメラに行った。最近自分の持ち物のメンテナンスに楽しみを覚えるようになった。まだ面倒と思うこともしばしばだが、多少は大人の階段を登れているのかもしれない。


しかし、ひさしぶりに家電量販店に行くと、なにやら凄く盛況な展示場に迷い込んだ感覚を覚える。たかが家電であるが、距離を置いて見てみると、よくできた作品達である。いわば、家電量販店=美術館。ハッピを着たキュレーターが大きな声で迎えてくれる。中国人の旅行先としては、銀座と家電量販店の2つがよく挙がるけれど、肯なるかな。


工業製品をひとつの美術品として捉え、トーマス・エジソンレオナルド・ダ・ヴィンチを重ねるように歴史を平行移動させて、アートの歴史を再構成して捉えてみると、いつもの家電量販店も違った風景に見える。


今やアートに分類されている絵画や彫刻も、大昔はインテリア(あるいはエクステリア)の1カテゴリーであったことを考えると、そして、今までインテリアとしてカテゴライズされていた家具などがアートとしてカテゴライズされつつある現実*1を見ると、インテリアになりつつある家電*2は、いずれ才能ある人物の手を経て、使用価値→インテリア価値→アート価値という道を辿るのではないだろうか。*3もう既に、AIBOASIMOなど、まさに家電や機械から生まれた、明確な使用目的のない作品達は世に産まれている。アップルの製品の作品性・作家性がないと言う人がどれだけいるのだろうか。



あるいは、
デザイン=明確な目的・機能がある
アート=明確や目的・機能がなく、何かしらの追求・探求である
という風に比較するならば、機能を失ったものはアートへと昇格するとも考えられる。


例えば時計・・・現在の独立時計師はアーティストに近い位置づけであり、職人からアーティストへと離陸しつつある存在だが、時計は、まさに機能としては必要とされなくなり、機能外の部分が前面に出ざるを得ないものである。そもそも骨董という美術扱いされるものの、明確な使用目的が消失されたからこそ、美術品として骨董として珍重される。これも、持っていた機能が意味なくなると、それ以外の面(鑑賞価値)が前面に出るから。コンピュータやサイバースペースが勢いを増すと、昔の工業製品が、骨董に近いノスタルジアを放ち、観賞価値こそが前面に出る日もそう遠くないかもしれない。


現代アートと言われるものは、アートの概念のひとつの方向性を見せてくれている。しかし、現代アートと言われるものに、アートの名を独占的に語られるのに多少の違和感があるならば、代替案のひとつは、目的から離れた工学技術の追及であるかもしれない。家電に、アートへと離陸する前の宗教画などの絵画や英雄彫刻の姿をみることは間違いだろうか。AIBOASIMOに「離陸」への萌芽をみることは。


(アートにおける)工学主義という言葉を提案してみようか。案外レオナルドの本質も、技術の狂信的な追及であるのかもしれない。芸術とは技術への拘泥から始まる――――というテーゼを立ててみる。そこから何が見えるだろうか。

*1:例えば、家具系のインスタレーション吉岡徳仁など

*2:デロンギ、アマダナ、エレクトロラックスなどが良い例か

*3:暫定的に、インテリア価値=美的に感性が満たされる鑑賞価値、アート価値=インテリア価値+思考や歴史性など理性に訴える価値と定義しておく