ideomics

オブジェクト思考ブロギング

「知識人とは何か」 エドワード・サイード

これからの知識人を支えるものは、アマチュアリズムであるという議論が印象的だった。


ミシェル・フーコーが「これからの知識人は、全体を見通す立場に立てることはないだろう。細分化された専門家達にとって代わられる。」といった趣旨の発言をしていたが、この発言に対する反論と言ってもよいかもしれない。(サイード主著のオリエンタリズムは、方法論的にフーコーの言説分析を援用しているので、フーコーの知識人に対する考え方は知っていたはず)


大きな物語の喪失といったコピーなどで知られる時代には、全体を見通すほど知識や知恵を持つことは不可能といってよいが、サイードは、フーコーのように専門性に変化の糸口を求めるのではなく、アマチュアリズムに変化の糸口を求める。言うなれば、それは「永遠の野党」。専門家に対しても、何かしらをプロテストしうるアマチュアリズムである。


どんな分野にせよ、専門家の言うことに反論するのは大変難しいが、それでもなおそこに食いつく人が必要であることは間違いなく、不可能と知りつつも全体視野への志向を失わない人が一定数必要であるのも最近痛切に感じる。政治という活動がなくならない限り、全体を見通す人がいてくれないと困るし、専門家集団に対する理性的なチェック機構は大切。


ポストモダンと呼ばれる時代の思潮は、真理は権力と不可分なものである、絶対の正義なんてないから追いかけても無駄といった(妥当であるものの)ニヒリスティックな感じもあったが、そういった前世代への反抗だと感じる。真理は既成の権力から独立しうる。そんな理想を、困難とは知りつつも抱える人間のマニフェスト


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個人的なことにひきつけて言うならば、やはり全体の視野を保つことの難しさを最近痛切に感じる。それなりに広い範囲の興味を持ってきたつもりだけど、時間は有限で、概説だけにしても色んな分野に手を出すのは大変だ。


特にサブプライム以降金融システムを考えていきたいと思っていたが、時間もないし、言葉を理解するところから既に大変で、ギブアップ気味。正直、アマチュアリズムといっても、アマチュアにすらなれない状況だと思われる。


やはり分業と(そのコインの裏側である)専門性というストレートな考え方に乗っていくしかないのかしら。




主要なテーマである知識人論に関する主張は明確だ。単に知識を持つ者のことではなく、自立的に自己を見つめる「永遠に呪われた亡命者」こそが知識人なのだと著者は説く。権力に迎合せず、狭い専門性に閉じこもることなく、少数派であることを受け入れる。そんな知識人の特徴が、「大衆」「アマチュア」「周辺的存在」などといったキーワードとともに展開されていく。こうしたスタンスは、米国市民でありながら、繰り返し米国政府のパレスチナ政策に異論を唱えてきた著者の生涯ともぴったり一致する。