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オブジェクト思考ブロギング

「グレングールド、音楽、精神」 ジェフリー・ペイザント

「あなたの本によっては、私は自分のことがよくわかったように思う。」

グールドが死ぬ数時間前に著者ペイザントにこう言ったと伝えられている。


グレン・グールドのバッハ、特にゴルドベルク変奏曲(1981年録音)は世界に大きな感銘を与えたが、奇抜な行動や詩的すぎる言葉でなかなか理解しにくい人物であった。そのグールドの思想に関して解説したものであり、本人が↑言ったように、鋭い解説をしてくれる。


特に面白かったのは、以下の2点

①グールドはなぜコンサートに出ずスタジオ録音にこだわるのか。

一般的には、グールドが対人恐怖症であり、人前を嫌がっているからと理解されている。これは一理あるが、メインの理由として、著者は、「コンサートでの感動は集団的な歓喜であり、音楽自体に向かった感動とは言い切れない。周りの感情に流されている部分も大きい。録音を一人で静かに部屋で聞いた時の感動は、音楽自体への感動である。」としている。

まさにカソリシズムとプロテスタンティズムの違いにように思える。カソリックは教会といった装置を使って、集団的な昂揚をわりと使っているが(特にベネチアのサンマルコ寺院で強くそれを感じた)、プロテスタントは個々の人間が孤独に神と出会うことを重視する。グールドの音楽観は、プロテスタントのそれであろう。音楽としてのプロテスタンティズム


②グールドは、なぜバッハを好み、ショパンを避けるのか。

ショパンの音楽自体には敬意を抱いていたらしいけれど、ほとんど録音を残しておらず、実際ショパンは弾かないと公言もしていた。友人の要約を借りて言うと、ペイザントいわく、「バッハは概念としての「音楽」があり、それが現実化したものとしての演奏である。だから、楽器を変えても印象はそれほど変わらない。一方、ショパンは「ピアノの音」である。ピアノという楽器から出てきた音の連なりとしての音楽であり、ピアノの響きから離れたとき、何かを失う。」

グールドはある種の絶対性を求めていたから、ショパンのような感覚的・現世的な音よりも、バッハの概念としての「音楽」に惹かれたのだろう。いうなれば、バッハは「音楽」であり、ショパンは「音/サウンド」であった。


音楽に造詣の深い友人に紹介してもらって読んだが、なかなか良かった。専門的なとこはあんまわかんなかったけど。