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「沖縄文化論―忘れられた日本」 岡本太郎

素晴らしい紀行文学。こいつは面白い。


団塊世代退職を見込んで旅行業界ががんばってて、それに応じて紀行文学や旅系の雑誌が元気あるみたいだけど、思わぬ伏兵。ごぞんじ太郎さんが、沖縄を旅した際の印象を綴るエッセイだが、込められたエネルギー、文章、内容どれも素晴らしい。彼は造形や絵だけでなく、文もよくこなす。



印象的だったのは、、、、要約的に

琉球の踊りには、固定したポーズがない。絶えず流動するからこそ生きる、空間そのものの発現となる。日本舞踊における「キマッタ」ポーズが平面的であり、踊りが平面的になるのと対照に、キマルことがないからこそ、空間的になる。」


「沖縄の歌は、装飾ではない。生活が苦しいとか、苦しい分嬉しいことも嬉しさもひとしおとかで、どうしても言わなければならないから言うのだ。叫ばずにはいられない、でないと生きていかれないから。それが言葉になり、歌になる。それは、叫び、祈り、うめきと連続したものだ。」


「被支配が長く、余剰なものが許されなかった沖縄では、歌や踊りだけが残された。それらは生活そのものであり、生きることそのものだった。他には何も許されなかった。」


(わび、さびの文化に関して)
「大陸の厚みのある文化に対しての所詮アンチテーゼであり、ある程度恵まれた階層の気取った、そして力のないシニシズム。なんせ、底辺の民衆は「モノへの執念を絶て」「一切は空だ」と言われても、もともと執着できるモノがない。重厚な大陸文化に追いつけない、欲求不満の貴族趣味であり、斜に構えた気取りでしかない、中間層の優越と劣等のコンプレックスだ。」
といわゆる日本的なものを断罪。


ある種モダニズムやミニマリズムと共有するものがある。要求するエネルギーや思いの量は違うけれど。ありがちな「冷たい」モダニズム/ミニマリズムではなく、「熱い」モダニズム/ミニマリズムというか。この本を、モダニズム/ミニマリズムの文脈で読み直すと、自分の生活文化/デザインを考える上でも示唆に富む。彼らのような生活とシームレスで「熱い」文化を持てるのかと。

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はるか昔、ある友人が沖縄の友人を呼んで、とある店でセッションをもってくれたが、その時の歌声を思い出した。日常の会話からシームレスにつながる「歌」。歌声以上に、その「シームレスさ」に感動した。思えば、黒人のラップもそうだろう。被支配階級であることが長かった人々に共通する性質なのかもしれない。


追記:友人いわく、太郎さんは、マルセル・モースに師事したことがあるって、レヴィストロースと同門だとか。人類学的な素養もあったのですね。