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オブジェクト思考ブロギング

アレイオス・パゴス

アイスキュロス『オレステイア』三部作の最後の舞台、アレイオス・パゴスは裁判の場所として法廷演劇の舞台ともなる。実際のアレイオス・パゴスは最高権威の位置づけだったのようだが、『アテナイ人の国制』によると、古拙からソロンまで司法のニュアンスが結構強そうな印象を受ける*1。そして、この名前は戦いの神アレース(というか彼が被告になる神々最初の裁判?)に由来しており、かなり古くからあるらしい。アイスキュロス『オレステイア』三部作として表現された最高権威アレイオス・パゴス=裁判所の設立譚は、なんらかの歴史の神話的な伝承だったのだろうか。

 

「アレイオス・パゴスの会議は法律の擁護者で役人が法に従い治めるように監視していた。不法な目に遭った者は、どの法が犯されているかを示してアレイオス・パゴスの会議に弾劾を提起し得た。」(村上訳『アテナイ人の国制』第四章)
「ソロンは各部族から百人ずつ、都合四百人から成る評議会をつくり、アレイオス・パゴスの会議を、従来も国制の監視者であったように法律擁護の任に当たらせた。」(同第八章)

 

アレイオスパゴスの権力が弱まり民主的な方向に移行する際も、何かしらの法廷舞台への参加が重要だったよう。

「官職に関する点は以上のようであった。ソロンの制度では次の三点が最も民主的に見える。第一に、そして最も重大なのは身体を質にとって金を貸すことの禁止であり、次には何人でも欲する者は不正を加えられている人々のために償いを求めることのできる点で、第三には法廷への審理の回付であり、<これにより>大衆は最も勢力を得たといわれる。なぜならば民衆は投票権を握ったとき国制の主となるからである。」(村上訳『アテナイ人の国制』第九章)

 

時代を遡ると、『イーリアス』18歌のヘパイストスの盾のところで、二人の男の係争が描かれている。古拙の時代のギリシャにあった裁判(闘争)の形式というのは興味ひかれるものがある。感覚的には、オリンピックの競争と審判による決定に近い。

「またほかの場所では多数の人間が集会場に集まっている。ここでは係争が起こっており、殺された男の補償をめぐって、二人の男が言い争っている。・・・双方は仲裁者の最低による結着を望み、民衆はそれぞれに味方し、二派に分れて声援を送り、触れ役たちが出て制止にかかる。長老たちは・・・次々に立ち上がっては、代わる代わる己れの裁定を述べる。場の中央には黄金二タラントンが置いてあり、これは最も公正な裁定を下した者に与えられる。」(松平訳『イリアス』第十八歌)

 

イーリアス』は怒りを主題として、口の討論の形で始まり、血の闘争の形で終わる。怒りにまかせたアレースの血の狂乱を踏みとどまるも、最後までは舌戦の接戦で戦い切れなかった。古拙の時代には口論を徹底できなかったとも、血の闘争でなければ盛り上がりに欠けるとも言える。

 

クリリンのことかー!!」と怒ったところで、弁護士に相談してフリーザの告訴を検討されても、文明の香りこそすれ盛り上がりにかける。ましてフリーザと外交的な交渉を始められたら、文化の香りこそすれもはやドラゴンボールとは言えない。これはサイヤ人に限らず、人間になりきれぬヒトの限界であるかもしれない。しかし、アテーネーの制止として顕されたアキレウスの血の闘争を一旦抑える葛藤には心うつものがある。「アガメムノンがこういうと、ペレウスの子は怒りがこみ上げ、毛深い胸の内では、心が二途に思い迷った。――鋭利の剣を腰より抜いて傍らの者たちを追い払い、アトレウスの子を討ち果すか、あるいは怒りを鎮め、はやる心を制すべきかと。かく心の中、胸の内に思いめぐらしつつ、あわや大太刀の鞘を払おうとした時、アテネが天空から舞い降りてきた。・・・「わたしはそなたがもし素直にわたしのいうことを聴いてくれるのなら、なんとかその腹立ちをおさめさせたいと願って空から降ってきた。・・・」「腹は煮えくりかえる想いではありますが、女神よ、お二方のお言葉には従わねばなりません。・・・」」(松平訳『イリアス』第1歌)

血の闘争を知の闘争とするにはしばらく時間がかかるが、ヒトにおいて不可能なことではない。

 

欲望と情念と愚鈍さにまみれたヒトにとって、予定調和の政治社会は天使のものに過ぎない。血を求めるこの動物が天上に昇る未知の道は、血の闘争を知の闘争に求める法廷闘争にある。法廷闘争とは、スポーツでもあり、また演劇でもある。スポーツとは演劇のひとつであるのか。演劇とはスポーツのひとつであるのか。ヒップホップもまた、血の闘争から知の闘争に至るムーシケーの業のひとつであるのか。

 

tragedy=tragodia=山羊・歌
英雄(heros)は皆死ぬ。運命に導かれて運命として死ぬ。
彼らは皆、犠牲の山羊 (scape-goat) として死んでいった。
犠牲の山羊 (sacrifice) として真で逝った。
彼らは皆、半神(heros)となり後の世まで歌われ続ける。
犠牲の山羊の肉と血として捧げられた。
我々はみな肉と血を好む。
犠牲の山羊の肉と血と歌を好む。

闘争の祭りで血祭りにあげる。
血のお祭りでアゲていく。
地のお祭りでアゲていく。
知のお祭りでアゲていく。

悲劇の誕生 - ideomics

 

 二大政党/正当/正統性は、法廷闘争に由来している。
法廷闘争もまた、二大政党/正当/正統性に由来している。*2

 

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文明 (civil-ization) の核心には法があり、法の核心には裁判があり、裁判の核心には法廷弁論がある。文明の革新にも法があり、法の革新にも裁判があり、裁判の革新にも法廷弁論がある。もしかすると、政治の成立の核心と革新にも裁判があるのかもしれない。

 

「これに対して正義[の徳]は国家的性格のものである。なぜなら、[法にもとづく]裁きは国家共同体の秩序であるが、裁きとは正しいことの判定をくだすことだからである。」(牛田訳『政治学』1253a)」

ἡ δὲ δικαιοσύνη πολιτικόν: ἡ γὰρ δίκη πολιτικῆς κοινωνίας τάξις ἐστίν, ἡ δὲ δικαιοσύνη τοῦ δικαίου κρίσις. (Ἀριστοτέλης, “Τα Πολιτικά”)

 

「結合して一つの団体をなし、彼らの間の争いを裁定し、犯罪者を処罰する権威を備えた共通の確固とした法と裁判所とに訴えることができる人々は、お互いに政治社会のうちにある。それに対して、そうした共通の訴えるべき場を地上にもたない人々は、依然として自然状態のうちにある。」(加藤訳『統治二論』後編政治的統治について第7章政治社会について (Of Political or Civil Society) 87)

 

裁判(法)的統治 (political or civil government) は、自由を重んじ、家政的統治 (economic government) は生命・安全を重んじる。事後の裁判は、自由を意味するが、個人の自立と自律を、責任を求める。そして、ヒトの知恵とは先立つものではなく、むしろ後知恵であるならば、事後の判断による規定を基底とするのが正しい。

 

司法が立法に先立つのはなぜか?
なぜなら、人は後知恵の動物であるから。
先の知恵は、不死の神々のものであり、
死すべき人は、後の知恵があるだけでも、
よしとしなくてはならない。
ヒトであるだけでは、
その後の知恵さえもないのだから。
プロメーテウスの知恵はヒトには届かず、
ただ火と技術の力にほのかにやどる。
エピメーテウスにもたらされたヒトの力は、
祭り事に集まる毎の後知恵で、政をはじめて人となる。

 

「近代イギリスにおける議会のモデルが中世ヨーロッパにおける領主の下級裁判権(16世紀の歴史家シャルル・ロヮゾーのいう「村の裁判所」)であることは、モンテスキューがこれをヨーロッパにおける「一つの一般的な政治システム」と呼んでいることからも明らかである。これが「政治システム」であるというのは、その原型が「ゲルマン人の慣行と慣習法」つまリゲルマン人の裁判集会(政治集会)mallus, Dingにあり、この手続を領主が「纂奪」したとされてきたものであり、そこからより「一般的」なものに発展したとみなされるからに他ならない。」(アダム・スミス『法学講義』における私法と公法 : モンテスキューと講義体系の転回問題*3

*1:名前だけの共通かもしれないが、少なくとも現代ギリシャでは最高裁に当たるらしい

*2:「政治に固有なる概念は、敵、味方という区別である。この区別は、人間の行為と動機に政治的意味を付与するものである。」(シュミット『政治的なるもののの概念』)

*3:https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6189&item_no=1&page_id=13&block_id=21