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オブジェクト思考ブロギング

法=DNAの生き物

 

「我々の組織のDNAが・・・」といった言葉にはレトリック以上のものがある。ただし、DNAという比喩を使うには、複製可能な形で保存され、また複製され続ける必要がある。例えば、文字による法。組織 (organ-ization) が、組織 (tissue) や、器官 (organ) のようにDNAを持つならば、それはもう生きている物となっている。組織や器官を超えて、自立した個体となるならば、もはや生き物の一種になる。

 

文字となった文と法こそが、複製可能なリヴァイアサンのDNAであり、生きたリヴァイサンの中で複製され続けている。死んだ生き物の中では複製されることがない。これもまた、生死ある生き物の一種だった。とりわけ、法権利としての正義、あるいは、正義としての法権利が、この生き物の中心にある。これは、文でもあり法でもある。法でもあり文でもある。

 

ἡ δὲ δικαιοσύνη πολιτικόν: ἡ γὰρ δίκη πολιτικῆς κοινωνίας τάξις ἐστίν, ἡ δὲ δικαιοσύνη τοῦ δικαίου κρίσις. (Ἀριστοτέλης, “Τα Πολιτικά”, 1253a)
「これに対して正義[の徳]は国家(ポリス)的性格のものである。なぜなら、[法にもとづく]裁きは国家(ポリス)共同体の秩序であるが、裁きとは正しいことの判定をくだすことだからである。」(牛田訳『政治学』第1巻第2章1253a)

 

ここを字義通りに読むと、裁判=正義がポリスという共同体の核心であり、ポリスとは裁判=正義の共同体ということになる。ポリスの術 (politics) というのは、裁判=正義の術を中心に据えることになる。 実際アリストテレスによると、市民の定義には、裁判への参加が含まれる*1

 

裁判はともすると「共同体」の秩序の破壊として忌み嫌われる。しかし、FIFAワールドカップのような武闘の舞踏による、正義(ディケー)の奉納という祭り事、神への奉納というマツリゴトと考えると、政(まつりごと、ポリスの術)に先立つもの、ポリスを作り出すものとは言えないだろうか。法律を中心にみると、立法は司法に先立つが、裁判=正義(ディケー)を中心にみると、司法は立法に先立つ*2

 

正義の奉納という祭り事=マツリゴト=政への参加。。。現代の感覚からすると、市民による裁判というのはかなり違和感がある。人民裁判というと、ともすると魔女狩り的な狂気を意味したりするから。裁判自体の決定だけを考えるなら、専門家に任せた方が良い。しかし、社会全体への効用を考えるならば、市民参加は大きなメリットもあるのだろう。局所最適解と全体最適解との違い。ただし、裁判からのresilienceを前提として。

陪審制、とりわけ民事陪審制は、判事の精神的習性の一部をすべての市民の精神に植えつけるのに役立つ。まさにこの習性こそ、人民をもっともよく自由に備えさせるものにほかならない。」(トクヴィル・松本訳『アメリカのデモクラシー』第1巻第2部第8章P187)

家庭の私法としての家政な司法 - ideomics
祭りの後の後の祭り - ideomics

 

アイスキュロス『オレステイア三部作』も、ポリスの存在を前提にその中での法廷の誕生を描くもの*3というよりは、むしろ、正義=裁判(ディケー)を奉納する場としての法廷(祭りの場)の成立が、(規範的な古典古代の)ポリスを成立させているということを描いているのかもしれない。そして、法廷が議会のモデルになる。アテナイの立法も、新しい法と古い法の2項対立としての法廷闘争という形式で展開されたらしい*4。政党としての二大政党制ではないが、まさにGrand-oldに対するBrand-newの法廷闘争モデル。

 

裁判の始まりは怒り。恐れで逃走せず、怒りで闘争する。血の武闘を、知の舞踏とし、復讐の女神(エリーニュエス)が慈しみの女神になり、懲罰の女神(ディケー)が正義の女神(ディケー)になる。アキレウスの怒りが、ポリスの始まりを告げ、オレステスアテーナーによりポリスが共同体として成り立つ。

 

μῆνιν ἄειδε θεὰ Πηληϊάδεω Ἀχιλῆος
怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウス

二大正当/正統/正闘/政党性は、イーリアスに由来している。
イーリアスもまた、二大正当/正統/正闘/政党性に由来している。

 

怒りの言語化というのは、いかに暴力的であっても、古拙の暴力そのものからは一歩前進している。懲罰のディケーが、法廷のディケーに変容し、血の武闘から知の舞踏に変容すると、さらに一歩前進する。裁判以前(pre-justice)なものが、裁判(justice)へと進む。プラトンソクラテス解釈も、まさに法廷弁論(『ソクラテスの弁明』)から始まっている。始まりは、裁判=正義(ディケー)をめぐる解釈でもある。(ただし、後に独自の正義の定義となる)*5

 

「動物のなかで人間だけが言葉をもつ。・・・人間に独自な言葉は、利と不利を、したがってまた正と不正を表示するためにある。・・・人間がそれら[善と悪、正と不正など]を共有することが家や国家を作るからである。」(牛田訳『政治学』第1巻第2章1253a)

 

リヴァイアサンは眠りの中で、古代ポリスの夢をみる。朝目が覚めて、自分の姿を鏡で見る。自分の朝が始まる。自分の仕事に出かけなければならない。

ἐκ τούτων οὖν φανερὸν ὅτι τῶν φύσει ἡ πόλις ἐστί, καὶ ὅτι ὁ ἄνθρωπος φύσει πολιτικὸν ζῷον, (Αριστοτέλης, Πολιτικά 1253a)
かくて、以上から明らかに、ポリスは自然によるものの一つであり、そして人間は自然によってポリス的動物であり、リヴァイアサンも自然によるものの一つであり、そしてリヴァイアサンも自然によって法=正義(DNA)の生き物である。

*1:「ところで、市民はただ国内に住んでいるという事実によって市民なのではない。・・・さて、無条件的な意味の市民には、裁判と公職に参与すること以外にいかなる規定も与えられない。・・・われわれは、市民とはこのような仕方で公職に参画するものであると定めることにする。」(牛田訳『政治学』第3巻1275a)

*2:CiNii 論文 -  アダム・スミス『法学講義』における私法と公法 : モンテスキューと講義体系の転回問題 (田中克志先生退職記念号)によると、モンテスキューにせよ、スミスにせよ、自分たちの歴史から、政治の始まりとしての裁判を見たということらしい。ガリアやブリタニア近くの土地でも、裁判が政治に先立つ、と。

*3:現代人の投影

*4:http://assls.sakura.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2016/06/ooe-1.pdf

*5:正義の変遷 - ideomics