ideomics

オブジェクト思考ブロギング

homo vs sapiens

新たな人の姿を、ホモデウスとある人は言う。
しかし、神とともに生きる人、あるいは神の似姿としての人とは、
古代や中世に生きる人たちのことではなかっただろうか。
後に人間たちが、
鑑となる神の似姿の先に、
鏡にある自分たちの姿を認めたとき、
彼らは神ならぬ人となり、
紙とともに生きることを選んだ。
彼らが、humanitiesと複数形を綴るとき、
一つではなく二人三人…の姿をそこに見ている。
鑑の先の鏡の中で、彼らの姿は戯曲となる。

 

さらに後に人間たちが、
鏡にある自分たちの姿の中に、
毛に血に汁に涎に痰に尿に便を認めたとき、
彼らは自分たちの中に、
まぎれもない動物の姿を認めることになった。
彼らが、自らをHomo sapiensと名乗るとき、
彼らは自らを動物の一種と位置付けている。

 

アリストテレスは、『政治学(Τα Πολιτικά)』において、
ときおり人(ἄνθρωπος)を指して、動物(ζῷον)と呼ぶ。
正義を主としながらも、ポリスとは動物たちの群れでもある。
彼の動物論は、アカデメイアを去ってからなされたものらしい。
アリストクレスの天上論から地に降り立ったとき、
彼が自らの土地の地 (ground) に見出し、
彼が自らの土地の地 (ground) としたのは、血に溢れる動物たちだった。

 

朝起きて、人はトイレに行き鏡を見る。
なんとさえない生き物が鏡の中にいるものか。
なんと醜い姿が鏡の中にいるものか。
排泄に、鼻の形も、肌の張りも、脂肪の塊も、
ああ天上のものとはほど遠い。

 

"la mort de l’homme"
ある外科医の息子のかけ声が、
サピエンスを覆うhumanities の皮膚にメスを入れる
隠れていたsapiensが、homo=hommeの殻を破る。
ホモの皮を被ったサピエンスが、その皮を破り外へ出る。
神のごときへロスの末裔はやがて戯曲となり、
猿のごときHomo sapiensの姿を鏡の中に認めることになった。
自らたちの姿を鏡に映してみると、そこには猿の姿があった。