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オブジェクト思考ブロギング

子育てと権利

出典は忘れたけど、フランスの人々は、子どもに何かしないよう言うときに、「〇〇してはいけない」という言い方ではなく、「あなたには〇〇する権利がない」みたいな言い方になるとか。子育て本系の話だし、本当かどうか不明だし(多分ごく一部のインテリだけではという気も)、言語の翻訳の問題も大きいだろうけど、参考にしている。

 

こう言うと、もちろん「権利って何?」と聞き返される。定義そのままの説明をするが、「正直、お父さんもわかってない」とも言う。一緒に考えるのもありだけど、そこまでうまく誘導できていない。というのも、自分が普段からそこに思考をめぐらせているわけではないから。「人々というマス」に対する規則は太古からあっても、「個なる個人」を前提にする権利というのは理解しにくい。子どもにとってそうだし、大人にもそう。

 

マスと規則、個人と権利。規則という客体/規則の客体と、主体による権利/主体の権利と、その往復運動としての法、みたいな感じだろうか・・・ 規則から権利(義務)への転換・変換というのは、観照的には全ての規則に成り立ちえるような気もする。が、よくわからず。

 

強制の作法にしか思えない規則を、我と我の矯正の作法として主体化し、我々の共生の作法とする。強制の作法と共生の作法の間に、矯正の作法・・・魂の救いは最高の法なり (Salus animarum suprema lex) 。あるいは、法こそが最高の魂の救いか。

 

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古井由吉氏によると、フランス語は法廷の言葉で明晰になったらしい。 小説の起源として、いわゆる物語以外に、裁判の文書・調書があるのでは、と。

「小説の発生源は物語といわれて、大筋はそうだろうけど、それだけではないと思うんですね。僕が思うのは、例えば裁判の弁明書もヨーロッパの小説の発生源の一つではないでしょうか。」
「フランスの詩とドイツの詩を比べて思うのは、中世から近世にかけてそれぞれのヨーロッパの言語が自立し、近代化していく。フランス語はそれにあたって、法廷での言葉の使い方の厳格化が論理性を整えていきます。ドイツ語の近代化の基となった主要なもののひとつは、宣教者の説教なんです。フランス語は近代化にあたって分析的になり、ドイツ語は総合的になっていく。その違いがあって、ドイツ語のほうが重層的なものを表現しやすくはなっているかと思います。」
古井由吉大江健三郎『文学の淵を渡る』)

 

理論の論理による
法文の文法をもって
権利を利権とせず
別個に個別な
一同を同一のものとし
和平による平和と
マリアンヌの栄光から光栄をさずかる
明文の文明をしめさん

 

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エマニュエル・トッド氏は、家族構造からある集団の人間関係を説明する理論で、核家族は自由を好み、直系家族は権威を好むと述べている。文明 (civilization) や権利 (civil rights) は前者、文化 (culture) や教育 (nurture) は後者という感じ。*1

 

幼児死亡率改善後の一人っ子の家族構造は、他の家族構造の一部と位置づけられつつも、20世紀後半から現れた新しい家族構造とも言えるのだろうか。日本やドイツは直系家族が多い集団に分類されるが、一人っ子家族の誕生・増大は別な社会構造をもたらすのかも。

 

一人っ子家族といえば中国。この政策によって、共同体型とされていた構造が変化(核家族的に)し、社会構造が何かしら変化しているという機序はあるのか。マクロすぎて証明しようもなさそうだけど、家族構造が成人後の人間関係の基盤になりそうなのは、少なくともミクロには想像できる。

 

ヘーゲル『法の哲学』では、第3部倫理を、家族・市民社会・国家というフレームで分けつつ、司法活動を市民社会のフレームの上で述べている。国家ではなく市民社会で述べるところが自分には新鮮だった。家族のレイヤーは、法というより慣習の塊ように見えるが、何かしらはありえそう。

 

家庭の私法としての家政な司法 - ideomics

 

「知性(ヌゥス)の行う秩序づけ(ディアノメー)を法律(ノモス)と名づけて、公的にも私的にも、わたしたちの内部にあって不死につながる[その知性という]ものに服しながら、国家と家をととのえなくてはならないということを、その物語は意味しているのです。」(森ら訳『法律(ノモイ)』713E)

「人は自分の家を治めるように、しかも国家のなかで自分の役目を果たすように、自分自身を治めなければならないのだから、・・・自分自身の取締りを確実に実施すること、自分の家の管理を行うこと、国家の統治に参与すること、これらは同じ型の三つの実践なのである。・・・クセノフォンの『家庭管理(オイコノミコス)』が明示するのは、これら三つの≪技術≫のあいだの連続性と異質同形性であり、また、個人の生活におけるこれら三つの営みの時間的な継起でもある。」
フーコー『快楽の活用』)

 

クセノフォンでは特に、またプラトンでも、家(oikos)と国家(polis)の並列した表現があるようで、家と国家の関係については、現代と違うとらえ方があるようだ。家の拡張としての国"家"と解釈すると、やはり行政"国"家とは違うニュアンスがありそう。文字の文明と行政国家を所与として『国家』『法律』を捉えるのと、より空間的に凝集した、家(oikos)に近いものとして、声の文化としてのpolisから、『ポリテイア』『ノモイ』を捉えるのは、どうも違いがありそうだ。

 

 

文学の淵を渡る (新潮文庫)

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