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オブジェクト思考ブロギング

市の民としての賢慮

加藤訳『統治二論』で、ロックはcivilとpoliticalを同義と捉えていたと解説にあり、なるほどと。ギリシャ語のpolisを、ラテン語にG翻訳するとcivitas。civilは日本語で市民とG翻訳され、市の民、市場の民。翻訳は翻案としても、込められた意味が面白い*1

 

just-ice as fair-ness
fairという言葉は、市場のフェア(デパートのフェアなんか)や祭りを由来とし、市自体も祭りで集まるところから発祥という経緯が多いとして、
just-ice as [market-fair]-ness
just-ice as festival-ness
と変形してみる。
お祭りの集まりで一となる市での交換の衡平。

 

equityが、衡平と訳されつつ、株(権利)も指すのがずっと不思議で、ユスティティアの天秤って、なんか両替商の天秤っぽいなと思っていたけど、市場での交換は天秤での衡平がいる。運動で身体の平衡感覚が養われるように、市場で交換の衡平感覚が養われるところがあるのだろうか。逆に、市場に直接対峙する機会が乏しいと、交換の衡平を養う機会が少なくなりそう。

 

「市場、とりわけ市場での日々の交換は、衡平の精神的習性の一部をすべての市の民の精神に植えつけるのに役立つ。まさにこの習性こそ、人民を、臣民ではなく市民として、もっともよく自由に備えさせるものにほかならない。」*2

 

市場(しじょう)というと堅い漢字だけど、市場(いちば)というと楽しげな感じ。実際、活気のある市場って、祭りっぽい。混沌な祭りで一となり、市から生まれる均衡の秩序。(オリンピックに代表される)競技の公平も、協議の公平を培う訓練でもあるのだろうか。

 

市場 (market) をG翻訳するとギリシャ語ではagora・・・集会とか広場を除いてより純粋に市場を意味する単語はなかったのかな。このあたりは、ラテン、アングロサクソンと本格的に追加される非ギリシャ的要素の大きなもののひとつなのだろうか。oikos-nomos(economy, 家政:ギリシャ語)というより、ius-prudentia (juris-prudence, 正義・権利の/という賢慮:ラテン語) の衡平に並行する、あるいはその一部としてのmercis-prudentia(取引の/という賢慮)みたいな。

 

「実は、iusとlexの区別はローマ法の最大の特徴であると言ってもよいであろう。古代ローマでは、すでにたくさんの「法律」(lex, leges)が制定されており、問題が起こったときに適用されていたが、もっと大切にされたのは、ケース・バイ・ケースで当事者の権利(ius)を正義(iustitia)に適った方法で見出すということであった。」(ホセ・ヨンパルト『教会法とは何だろうか』)

 

「メイン「市民法が考慮する単位として、個人は着実に家族に取って代わった。・・・我々は、これら全ての関係が個人の自由な合意に由来するような社会秩序の段階に向かって、着実に進んできたように思われる。」「進歩的社会の展開はこれまで、身分から契約への展開であった」」」(スタイン『ローマ法とヨーロッパ』)

 

アングロサクソンに至り、最たるものは国家・共同体からの自由か。今となってはアングロサクソンは世界の中心にいる感じだけど、かつては辺境の民として、ギリシャ・ローマから遠いものと自他ともに捉えられていたとすると(?)、ブリテン島の人々のギリシャ・ローマへの眼差しに面白さを感じる。何重かに翻訳=翻案だけど。。。

 

 

完訳 統治二論 (岩波文庫)

完訳 統治二論 (岩波文庫)

 

 

*1:フランス語のbourgeoisは、城壁 (bourg) の中に住む都市住民という意味らしい

*2:陪審制、とりわけ民事陪審制は、判事の精神的習性の一部をすべての市民の精神に植えつけるのに役立つ。まさにこの習性こそ、人民をもっともよく自由に備えさせるものにほかならない。」(松本訳『アメリカのデモクラシー』第1巻第2部第8章)を改変