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オブジェクト思考ブロギング

ディズニーランドの入場制限

ディズニーランドを探していたら・・・ここにあった。浮世が、この土地が、ディズニーランドそのものだった。ディズニーランドで仮装する。浮世の土地で仮装する*1。ディズニーランドが仮想する。都市空間 (polis) が仮想する。内なる世界を住まい(テリトリー, oikos)として、浮世を舞台、演劇の舞台=都市空間とする。雅な都は舞台装置、テーマパーク。ハレの世界として特別な演技を*2。ディズニーランドは、祭り事の始まりとともに、政の始まりを告げている。

 

"I hold the world but as the world, Donald,
A stage where every man must play a part,
And mine a merry one."
- Mickey, The Merchant of Disney"*3

 

ミッキーが君になった。君もミッキーになった。マウスが奉られている。マウスに仮装している。何かが転倒されている。内は外になり、外は内になる。君となったミッキーの商いで、君も飽きない。。。がしかし、ディズニーランドには入場制限があった。

 

ディズニーランドの入場制限は6, 7万人。この数字は、古代ポリスの市民数を元に決められている。
味の素スタジアムの収容観客人数は5万人。この数字もまた、古代ポリスの市民数を元に決められている。

 

ソクラテスのサンバ術 - ideomics

ソクラテスのSamba術で、みなもっと踊っていたかった。がしかし、n>k (アリストテレスによれば一望できる範囲、プラトンによれば数千世帯) となり、ポリスに人が収まらなくなった。劇場の城壁はなくなり、平らに広がった。ポリスの術 (politics) から行政国家の術 (statics) になった。ポリスの舞台から、舞踏の武闘は去り、部党の武闘が残った。

 

「声の文化の…その多くは、ことばによる演じ語りにおいて、その生活スタイルにおいてさえ、文字に慣れた人々の目から見ると異常に闘技的であるように見える。」(オング『声の文化と文字の文化』)

 

stateの術、statics
stateを信じるstatist
statistの術、statistics
新たな闘鶏として統計が生まれた。

 

staticsにおいては、個人の名前ではなくカテゴリーで代表され、こうしてstatisticsの対象になる。politicsの延長ではあるもの切断面がある。投票用紙は宛名だけの最古の手紙であり、かろうじて個人への名刺として、固有の名詞が保存されている。

 

言葉による闘争・競争。数字による闘争・競争。統計による闘鶏の術。evidence(証拠・証言)という文字は、法廷闘争・弁論モデルをevidentにし、文明を明文にしているようにも思える。しかし、clinicalな場でcriticalになるのは、いろんな方向に難所がある。極端なことを言えば、カテゴリーで語る場合は、スパッとstatを出し、スカッとstatで語らなければならないが、しかし、それはかなり厳しい要求だ。

*1:人生には二通りの生き方しかない。ひとつは、コスプレなど何もないと思って生きること。もうひとつは、あらゆるものがコスプレだと思って生きること。(伝アインシュタインの名言を、迷言に改変)

*2:political correctnessは、theatrical correctnessと理解するのがおそらく、一番無難だろう。

*3:I hold the world but as the world, Gratiano, A stage where every man must play a part, And mine a sad one. - Antonio, The Merchant of Venice