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ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

erosophia (eros-sophia)

「問題構成のこの点(いかにして快楽の客体を、自分の快楽を支配する主体となすか)こそを、哲学的なエロス論、いやともかく、恋にかんするソクラテス的でプラトン的な省察はその出発点とするだろう。」(フーコー『快楽の活用』真の恋)

「『饗宴』と『パイドロス』が示しているのは、<<口説き>>の実践と相手の自由とを範例にするエロス論から、主体の何らかの鍛錬と、真理への、歩調を合わせた接近とを中心にすえるエロス論への移行である。まさにそれゆえに、問いかけが移動しているのが見出されるのである。」(フーコー『快楽の活用』真の恋)


philo(philia)-sophia(友愛-知)・・・知との友愛と解釈すると、知との節度を持った関係と言えるし、友愛に関する知、友愛をもたらす知、知を通した友愛とも言えるか。『ラケス』で、会話・対話のことを「我がものをあなたのものとし、あなたのものを我がものとする」みたいな表現がある。知との友愛・・・友人とは客観的に理解できる存在でもあり、主観的に思い入れる存在でもある。


ero(eros)-sophia(性愛-知)・・・知との性愛と解釈すると、知との融合的関係(主体化)と言えるし、性愛に関する知、性愛をもたらす知、知を通した性愛とも言えるか。オブジェクト(客体)指向/志向な思考=知としての科学に対するサブジェクト(主体)指向/志向な思考=知としてのerosohia (eros-sophia)。知の主体化(subject=主体=従属)。philo-sophiaからの分岐としてscience(オブジェクト思考)とerosophia(サブジェクト思考)を捉える。最近は良いなと思った一節は写経するようにしてるけど、明らかに理解の水準が黙読と違う。主体化=従属という染み込み度合いが違う。eros的なerosophia。書くと読むの間には翻訳や写経がある。能動(書く)・受動(読む)の中間にある反応的な行動。能動・受動・反応における反応=eros。

「すなわちそこでは、sophia=女性=妻は最高度の他者として価値が付与されているが、しかし夫は、彼女を自己との統一単位を形作る者としても認識しなければならない。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆、一部改変)

sophia(知)を妻=配偶者として、つまり、他者でありかつ統一体として、性愛的関係を結ぶ。


敬愛は、友愛(philia)と性愛(eros)の間にある感じ。性愛と違って、複数人に持っていても問題は起こりにくい、という利点がある。性愛の場合はアタッチメント強いけど、デタッチメントが難しい・・・知との関係は、主体 (subject) 化=アタッチメントと客体 (object) 化=デタッチメントの繰り返しがおそらく望ましい。主体化=erosphia(実存との一体化)と、客体化=scienceの繰り返し。erosophia - philosophia - science


philo-sophia・・・知と友愛・敬愛。知による友愛・敬愛関係とすると、固有名詞=個有(個人)名詞での関係になる。固有名詞の系譜関係=系譜学=genealogy=家系学。客体化された知としてのサイエンスと対比的に、固有名詞と系譜が伴う。そこでは、〇〇学を学んでいる、というより、誰それから学んでいる(学びあっている)、という表現になる。

「個有」名詞 - ideomics
人と人間 - human being and human inter-being - ideomics

〇〇学などというものはない。誰それがいるだけだ。敬愛をエロス(erosophia)寄りに解釈すれば。例えば、ドゥルーズの自由間接話法って、他者でありつつ融合しているエロスな感じ。philosophiaというよりerosophia、またはその間にあるもの。エロス・・・異性愛に限定せず無性愛な性愛。*1

「すなわちそこでは、sophia=思想家=妻は最高度の他者として価値が付与されているが、しかし夫は、彼女を自己との統一単位を形作る者としても認識しなければならない。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆を一部改変)

「妻であるひとりの思想家との関係が、当方の生き方にとって本質的である場合、そして、人間存在とは夫婦としての個人であり、・・・夫婦であることの術は、自己の陶冶の一部である。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆を一部改変)

・・・まさにマリアージュ。けど、本物の結婚から見ると半分にも満たない。相手のどうしようもなさがないから。結婚の半端なシミュレーション。

「土着性、友愛、ドクサというのが、三つの根本的特徴であり、哲学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。哲学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(ドゥルーズ『批評と臨床』プラトンギリシャ人たち)

「身体性、性愛(家族)、愚かさというのが、三つの根本的特徴であり、教育がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。教育は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(プラトンアカデメイアンたち)


一方で、サイエンスという客体(オブジェクト)思考。自然が超越的なものとすれば、それへの志向性/思考性は、agapeという概念が使えるだろうか。例えば、

erosophia:性愛:主体化・結婚
philosophia:友愛・敬愛:系譜・家系
サイエンス=agape-sophia=agaposophia?:超越的なもの=絶対の他者へ*2

といった感じで。どうだろうか。

*1:ガタリとの共著は未読だけど、近いのかも。

*2:「政府性、博愛、誤りというのが、三つの根本的特徴であり、科学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。科学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」